第3話
「よう、一之瀬。さっきは慌ててどうした?」
教室の自分の席に戻ってすぐ、声を掛けられた。
振り返ると、180に届こうかという長身痩躯の男子生徒が立っている。
日に当たると小麦の穂みたいに透ける薄茶の髪。更に、整った鼻梁と優しそうな垂れ気味の奥二重。
名前は
「がっかり肩落としてほんとどうした? そういう陰気臭い顔は話しかけづらくなるから止めたほういいぜ? あれ、じゃあ何で俺は話しかけてんのかな。あはは」
一人で調子良くほざきながら、諌矢はパック飲料から飛び出たストローを咥える。
パッケージはいちごオレ。乳飲料で腹が緩くなる俺への当てつけかな?
「保健室に行ってたんだよ。分かるだろ?」
ぶっきらぼうに答えたせいか、付近の席の女子達がざわっと怖がる。
諫矢相手にこんな口調で教室からやたら消えるのもあって、俺は空気だけど何か触れたらやばいやつと思われてるらしい。
――本当はトイレに逃げてるだけなのにな!
「へー。じゃあ、いつものアレか」
諌矢は後ろの席の江崎さん達にフォローの笑みを向けると、通販番組の外国人並みにHAHAHAと声を張る。
胡散臭さ満点の笑い声だけど、爽やかさも満点だ。イラっとする。
ちなみに諌矢はクラスで唯一、俺の腹の悩みも知っている存在でもある。彼の巧みな話術によりうっかり漏らしてしまったのだが、一応それ以上の拡散は防げている。
しかし、こいつは軟派な見ため通り、恐ろしく口が軽い。
『トイレの話』をうっかり漏らさないか、俺は常に細心の注意を払っていた。
「なに、さっきの時間も保健室でトイ――」
ほらな! 思った傍から口走りかけやがる。油断も隙もあったもんじゃない。
「トイプードルがどうかしたか!?」
諌矢が言いかけた『トイレ』に成り代わる言葉を咄嗟に浮かべ、そのまま脛を蹴りつけた。
「痛ッてええええ! 何すんだよ、一之瀬!」
「トイプードル可愛いよな。でも残念。生憎俺は猫派なんだ。お前の会話には合わせられない」
無理矢理過ぎる展開だが、とにかく話を逸らせという意味だけは伝わったらしい。諌矢は首を縦に振りまくっていた。
こいつはリア充だから恐ろしく空気が読める。物分かりが良くて本当に助かる。
「分かったよ。もう言わねえって。マジで痛かったぞ」
諌矢は片膝を上げ、今も患部を擦っていた。
俺が個室トイレ恐怖症だという事は絶対に他の連中に知られてはならない。これはもう墓にまでもっていかなければいけない秘密だ。
だから、こうやって諌矢が言いかける度に『分からせ』ている。
だが、俺の行動が周りには変な意味で勘違いされているらしい。
「ここじゃ言えないような、あの二人の秘密って何……?」
「やだ、久美子ちゃん。男子生徒が二人で共有する秘密なんて決まってるじゃない」
ひそひそ声で後ろの江崎さん達が何か良からぬ事を噂している。
「しっかし、何でこうも頑ななのかね……そんなに嫌なのか?」
「当たり前だ。何やっても許されるリア充の諌矢とは違うんだよ」
諌矢程のリア充ポジションの陽キャラなら学校で個室トイレに入るなんて苦も無いんだろう。
そう思って『どうやって学校で安全にウン〇をしているのか』聞いた事もあった。
そうしたら、『そもそもウン〇したくならねえし』とあしらわれた。ふざけろよ。
諌矢レベルのリア充は、家でしか催さないらしい。
腹も壊さないし胃腸薬や下痢止めとも無縁とのこと。一日一回、家にいる時間帯にスッキリなんて羨ましい特異体質だ。
「あーあ。まだ痛え。そんなに必死になる事か? 別に大丈夫だし(個室に入っても)高校生なら問題ないって」
「俺にとっては大丈夫じゃない、大問題だ」
そんなやり取りをしていると後ろから女子達の会話が聞こえてきた。
「問題ってなんだろ」
「他校と揉めたとか?」
絶対何か勘違いしてる会話だこれ。
「あーもう、まだ痛え。ほんとつれえわ。じゃあ戻るぞ俺」
予鈴が鳴ると席に戻っていく諌矢。
その長身の背を見送ると女子達と目が合った。
「一之瀬君!?」
「ご、ごめん」
「何で謝るの?」
絶対勘違いしているな、これ。
「ご、ごめん! 何も見てないし聞いてないから!」
そういって江崎さんは広げた教科書に顔を隠した。
ただでさえ小柄でショートカットの彼女の輪郭がすっぽりと教科書に隠れて見えなくなる。
――入学早々、面倒な事になったな。
段々空気からなんかやばそうなキャラになりつつあるのを感じる。
この流れを何とかしなきゃと思いつつ、俺は授業の準備に取り掛かるのだった。
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