俺の名前はデス・ザ・スターキッド。


『名前を笑ったヤツは皆殺し』をモットーとする暗殺者。


 ふざけた名前をしているが、これでも依頼完遂率は100%。現在はルーベンス王国第一王子、アレクセイ・ブロワ・ルーベンスの暗殺依頼を完遂すべく、侍従補佐官ルシウス・アンダーソン(不本意なことに、愛称は『ルーシー』だ)として王宮に潜入している。


 ……のだが、先日、他の暗殺者に手柄を横取りされるのを防ぐべく、成り行きからアレクセイを助けたら、その功績を過大に評価され、『護衛専門侍従』という形で侍従に引き抜かれてしまった。


 ──いや、どうしてそうなるっ!? ただこっちの都合で助けただけなんだがっ!?


 そんなちょっとしたことでホイホイ新入りを身近に置くな! うっかり暗殺されちまうぞ! 現に俺、暗殺者だしっ!!


 ……と、俺がその人事に怒涛のツッコミを内心で入れまくったことはさておき。


 この展開は一般的に『より近くに、より親密にはべることになれば、暗殺できる機会が増える』と歓迎される流れなのかもしれない。


 おあつらえ向きに、アレクセイは俺を護衛専門侍従として引き抜いた際に『護衛業務に必要だろう?』とナイフまで下賜してきた。つまり俺は、アレクセイの傍に、公式に武装を許された状態で控えている。状況だけ見れば、もういくらでも暗殺し放題だ。


 だが生憎あいにく、俺はそんな風に呑気に現状を捉えることができなかった。


 なぜなら俺は、なぜか暗殺対象であるアレクセイに好意を向けられている。しかも……あれだ。性的なあれそれも入った『好意』だ。


 俺の自意識過剰的な妄想ではない。これが妄想で片付けられたなら、俺は初回で寝台に押し倒されたをどう説明したらいいって言うんだ! この鳥肌はどうしたらいいんだっ!!


「ルーシー?」


 そんなことを考えていたら、うっかり体が震えてきた。


 そんな俺の様子に目ざとく気付いたのか、対面に座ったアレクセイが心配そうに声をかけてくる。ハッと改めてアレクセイへ視線を向ければ、アレクセイは声からの想像を違えない、気遣わしげな表情を俺に向けていた。


「どうした? 顔色が良くないようだが……」

「あ、え。は、初めて馬車に乗ったので、ちょっと酔ったのかも……」

「あぁ、それは良くないね。タイラー、ルーシーと席を変わってあげてくれないか。座席の向きと進行方向が同じになれば、多少楽になるかもしれない」

「いえ! 滅相もない!!」


 俺はブンブンと首と両手を振ってアレクセイからの『ありがたい』ご提案を辞退した。


「目的地まで、あと少しなんですよね? これからは慣れていかなければならないことですし、大丈夫です!」


 侍従長と席を交換するって、つまりお前の隣に座るってことじゃねぇかっ! さり気なくどんなセクハラかましてくるか分かったもんじゃねぇよっ!!


 そう。今、俺達……俺、アレクセイ、侍従長のタイラー・サルストール卿の三人は、アレクセイ専用の馬車に揺られて城の外、王都の大通りを移動していた。他のお付きもいるにはいるのだが、別の馬車や騎馬に分乗しているから、この空間には三人しかいない。


 ──これでまだ『お忍び』ってんだから、規模が違うよなぁ……。全然忍んでねぇじゃん。


 そんな本日の『お忍び』のお題目は『立太子式を行う会場の下見と打ち合わせ』だ。


 というわけでこの馬車も、王宮から大教会に向かって進んでいる。


 ──立太子の披露目は王宮で行われるが、儀式そのものは大教会で行われるんだったな。


 ルーベンス王国では、王権は『神より与えられしもの』とされている。立太子の儀式を大教会で行うのは、『神へ次代が決定したことを報告し、その是非を問う』という意味がある、という話だった。


 とはいえ。


 ──暗殺されかかって二週間しか経ってねぇってのに、下見を決行しなきゃならんほど、それって重要なことなのか?


 そう、二週間。すなわち、俺が護衛専門侍従とやらに抜擢されてからも二週間が経ったということだ。


 つまり。


 ──王宮に潜入して三週間以上が過ぎているというのに、いまだに暗殺できそうな気配がない……っ!!


 俺が王宮に潜入した目的は、アレクセイの暗殺だ。侍従補佐官やら護衛専門侍従やらをやるためにここに来たわけではない。


 ましてや変態王子に貞操を狙われるために来たわけでもない。


 断じて! 絶対にっ! ないっ!!


 だというのに、探れども探れども、アレクセイを暗殺できそうな隙がなかった。


 いや、俺とアレクセイの距離そのものは、以前にも増して近くなったのだ。


 何せ今の俺の業務はアレクセイの護衛。王位継承権争いが激化している王宮では、いつ何時暗殺の魔の手が忍び寄るかも分からない。


 それを口実にアレクセイは、私室から外に出ている間、四六時中ベッタリ俺を傍に置いている。食事時やお茶時は、なぜか同じテーブルで同じ食事を取るようにとまで言われていた。毒見役なら別にいるんだから、俺の護衛業務にそこまでのことは本来含まれていないはずなんだが。


 とにかく、今の俺は、侍従長と一緒にアレクセイの後ろに璧を作り出しているレベルでアレクセイに貼り付いている。


 しかし、これがあまりよろしくない。


 ──つまり、俺と二人きりの時にアレクセイをサックリやって俺が雲隠れすると、犯人は100%俺だとバレる。誰かに手柄を譲れば、今度は責任を問われて首を飛ばされる。


『犯人は不明』という状況を作り出しておかなければ、俺は一生アレクセイを殺した犯人として追われることになる。それだけは避けなければならない。今後の俺の身を守る上での絶対必須条件だ。


 そして困ったことに、俺が貼り付いている時間帯にアレクセイが明らかに他殺と分かる状況で殺された場合も、俺は『アレクセイを守りきれなかった役立たずの護衛』として責を問われ、物理的に首を飛ばされる可能性が高い。


 ままならない。まさか俺の正体に勘付いていて、この状況にハメることを狙って俺を護衛役として抜擢したとか、そんな話じゃないよな?


「ルーシー、なんて健気な……!」

「殿下、本当に良い方を見つけましたね……!」


 ──王宮から外に出て、環境が変われば、またれるタイミングも出てくるかもしれない。


 何やら勝手に盛り上がってる主従に引きる顔で無理やり愛想笑いを返しながら、俺は内心でそんなことを考えていた。




  ✕  ✕  ✕




 大教会とは、ルーベンス王国の教会の総本山だ。ルーベンス王国の聖職者達の頂点に立つ教皇が、日々の勤めを果たしている場所でもある。立太子の儀式は、この大教会の礼拝堂で、教皇が直々にり行うという話だ。


 アレクセイとタイラーは、教皇と内密な打ち合わせがあると教皇の部屋へ出向き、他のお付き達は当日の警備の配置確認や諸々の打ち合わせのために散っていった。


 そんな中、俺はというと『ルーシーには当日も僕の護衛をしてもらうから、よく内部を確認しておいて』と体よく追い払われてしまった。


 ──当日の護衛も何も、俺はそれまでにお前をひっそりサックリ暗殺しないといけないんだが。


 そんなことを思いつつ、周囲の邪魔にならないように適当にプラプラと大教会の中を散歩した俺は今、礼拝堂の長椅子に腰掛けてポケーッと祭壇のステンドグラスを見上げている。ちょうど皆、礼拝堂には用事がない時間帯なのか、広大な空間に反してここにいるのは俺だけだった。


 さすがは大教会。午後の穏やかな日差しが差し込んだステンドグラスは、それこそ神の奇跡を体現したかのように幻想的で美しい。


 ……暗殺者というものは、基本的に無神論者か信心深いか、両極端だと俺は思っている。前者は教会という場所を嫌い、後者は周囲から『あの人は信心深い方ね。さぞや立派なお仕事をされていらっしゃるのでしょう』と評されることが多い。


 ちなみに俺は、どちらかと言えば無神論者だ。神様が本当に存在しているなら、この世界はとうの昔に裁定のいかずちを受けて強制終了させられていると思っている。


 ただ、教会という場所そのものは嫌いじゃない。むしろ、こうしてステンドグラスの光を見上げていると心が落ち着く。


 何せ俺は、物心ついた頃から教会が運営する孤児院で暮らしていて、10歳まで神父見習いのようなことをしていたのだ。今でも祭文くらいは覚えているし、当時聖歌隊のエースとして活躍していたおかげで、今でも歌にはちょっと自信がある。


 ──とはいえ、声変わりしてからはろくに歌った覚えもねぇけども。


 暗殺者ギルドというものは、表向きに様々な仮面を被っていて、思いもよらない場所まで影響力を持っている。俺が育てられた教会孤児院も、暗殺者ギルドの息がかかった施設だった。


 大抵の子供はまっとうに育てられる。だが『見込み』がある子供は別だ。


 ギルドと関わりのある暗殺者達が、ここぞと目をつけた子供を『奉公』と銘打って引き抜く。そして表向きには不幸な事故で死んだことにして、己の後継、もしくは手足とするべく仕込む。そういう闇ビジネスが、この国には確かに存在しているのだ。


 俺は10歳の時、師匠に引き抜かれ、以降弟子として仕込まれた。師匠は諸々のセンスは壊滅的だが、まだ暗殺者の中では常識的で倫理観もしっかりしている。その点で、俺はまだ恵まれていた方なのだろう。引き抜き先によっては、地獄に落ちた方がマシだと思えるような目に遭うことも少なくないのだから。


 ──そういや『高貴なる闇ダークハイネス』も、ギルド受付の表向きの顔は教会だったか?


 教会という場所は、不特定多数が気軽に出入りできる場所だ。さらに人々は内密な相談を抱えて神父と話をしたがる。そういった信者に紛れて依頼を持ち込みやすいから、教会や医者というのは暗殺者ギルド受付の表の顔になりやすい。あと、死体処理にも困らないしな。


 あとはメジャーなところで言うと、商会とか。俺が所属している『烏の王冠レイヴンズ・クラウン』もその口だ。人や物が常に行き来している上に、商人もまた密談をしたがるやからだから、擬態しやすいんだろう。あと商人も商人で自然と敵が多くなりやすいから、商人が出入りしやすい形態にしておくと依頼が入りやすくて一石二鳥なんだとかなんとか。


 ──どこもかしこも、物騒だねぇ。


 そんなことを、どこか他人事のように考えていると、連想で自分がアレクセイ暗殺に手こずっていることやら、あんまり引っ張りすぎると師匠やギルドマスターにぶち殺されかねない状況まで思い出してしまった。


 ほんっと、どーにかしてくれよ、神様。


「……主よ、御許へ近付かん」


 ふと、歌いたくなったのは、そんな自棄やけっぱちな心境からだったのかもしれない。


 自然と口をついたメロディーに合わせて、俺は懐かしい記憶をなぞるように歌い始めた。


「登る道は十字架に」


 この歌を朗々と歌っていた頃から、純真無垢だったわけではない。


 暗殺者ギルドの息がかかっているだけあって、俺が暮らしていた孤児院はこの都の中でも治安が悪い土地にあった。むしろ治安が悪い場所で何とかやっていくために、神父様ファーザーは庇護の引き換えとしてあんなことをやっていたのかもしれない。


 そんな土地で、自分よりもか弱いチビ達を守るためにナイフを手に取ったのは、師匠に目をつけられるよりも一年以上は早かった。


 俺が初めて人を殺したのは、仕事を受けるよりも前の話だった。正当防衛だったと、今でも信じている。


「ありともなど悲しむべき」


 殺しが悪いことだとは思っていない。一律で『悪』に分類されてしまえば、その『悪』にすがってしか生きていけない善良な人間までもが『悪』に分類されることになってしまう。さすがにそれはあんまりだろう。


「主よ、御許へ近付かん」


 自分がやっていることを、善か悪かと問われれば、確実に『悪』だと言えることは分かっている。そこを弁明するつもりはない。


 だが俺を断罪したいならば、まずはそういう『悪』がなくても、誰もが生きていける世の中に世界を創り直す方が先じゃないか? かつて世界を7日で創ったとかいう神様になら、それくらいのこと、簡単にできるんじゃないのか?


 そう思っているから、俺は神を信じていない。ただ、教会は自分が生まれ育った場所だから、嫌いじゃない。


 きっと俺が歌う賛美歌には、そんな矛盾が織り込まれている。記憶よりも歌が下手になったような気がするのは、変声期を経て声質が変わったことよりも、そんな自分の矛盾した内心が歌声に溶け込んでしまっていることの方が強く影響しているのだろう。


「上手だね」


 だというのに、突然響いた声は、俺のそんな歪んだ歌を手放しで褒め讃えた。


「やっぱり好きだな、ルーシーの歌声」


 気配を捉えきれていなかった。


 俺は慌てて立ち上がると背後を振り向く。


 礼拝堂に注ぎ込まれる色とりどりの光を受けながら、アレクセイがこちらへ向かって歩いてくるところだった。


 入口扉から祭壇まで、礼拝堂をふたつに切り分けるかのように真っ直ぐに貫かれた通路を進むアレクセイは、それこそ物語の中から飛び出してきた王子様みたいに優美だった。俺を真っ直ぐに見つめる碧眼には柔らかく笑みが浮かべられていて、整った顔を彩る表情は平時よりも甘い。まるで愛しい恋人の元へ歩み寄るかのように、アレクセイは俺の元へ足を進めてくる。


 だが生憎あいにく俺はアレクセイを狙う暗殺者であって、恋人でもなければ友人でもない。


 俺はアレクセイの甘やかな笑みに鳥肌を立てながら、表情には出さないように警戒を強めた。


「打ち合わせのついでに、都の様子をこの目で見れただけでも大収穫だと思っていたのだけれど。まさか教会で、ルーシーの賛美歌を聴くことができるなんて」

「で、殿下……」


 ──よく考えて発言しろ。


 俺は自分に改めて言い聞かせる。


 アレクセイはどうにも、『デス・ザ・スターキッド』と『ルシウス・アンダーソン』が同一人物であることに勘付いている風情がある。さらに今の言葉を素直に受け止めて考えると、アレクセイは俺がかつて教会で賛美歌を歌っていたことを知っていて、実際に聞いてもいると解釈することができる。


 しかしそんなこと、あるはずがない。


『デス・ザ・スターキッド=ルシウス・アンダーソン』と勘付いた、という部分だけならば、まだ納得もできる。


 だが俺の過去は、師匠に弟子入りした際に抹消されたはずだ。あの頃からは名前も変わっている。


 大体、アレクセイは体が弱い第一王子として、王宮の奥深くで大切に囲われて育ったはずだ。対する俺は、今回の一件で潜入するまで、王宮に立ち入ったことはない。子供の頃の俺達に、接点など生まれるはずがないのだ。


「お、お一人ですか? サルストール卿は?」

「タイラーは、まだ教皇猊下と細かい話し合いをしていてね。僕だけ、当日の感触を掴みたくて、抜け出してきたんだ」

「護衛もつけずにそのような……」

「大丈夫だよ。僕の関係者がそこかしこにいる状況だし」


 警戒を困惑の皮に包んで立ち尽くす俺と数歩の間合いを残して、アレクセイは足を止めた。


 数歩と言っても、俺とアレクセイの立ち位置は真横に並んでいて、間に遮蔽物は何もない。詰めようと思えば一瞬で詰められる間合いだ。


「僕ね、昔、信頼を置いていた臣下に、思いっきり裏切られたことがあったんだよね」


 どう振る舞うべきか考えあぐねたまま、俺はその距離を縮めも広めもせず、アレクセイを見つめる。


 そんな俺の視線の先で、アレクセイが穏やかな口調のまま切り出した。


「立太子の話、本当は6歳の時にもうあったんだ。だけどその打ち合わせを口実に連れ出された先で、暗殺されかけてね。その一件の後、体調を崩して寝込んでしまったこともあって、この歳まで先延ばしになってしまったんだ」


 何てことない話をしているかのようにサラリと告げて微笑んだアレクセイは、視線を祭壇のステンドグラスへ向けた。


 ……甘くとろけた表情のまま、鮮やかな景色を見上げている碧眼の瞳には、一体何が見えているのだろうか。


 ふと、そんなことを思った。


「あの時は、本当に困ったよ。命からがら逃げ出したんだけど、人目につかない下街の教会に連れ込まれていたせいで、地理も分からなければ、周囲はガラの悪そうな人間ばかりで」


 そんなことを思う俺の視線の先で、不意にアレクセイがステンドグラスを見上げたままスッと表情を引き締めた。


「同時に、思った。これもまた、この国に生きる民の現状なんだって。僕は生き延びて、この環境を変えなきゃいけないんだって」


 そこで一度言葉を切ったアレクセイは、真剣な表情のまま、体ごと俺に向き直った。


「ねぇ、ルーシー。僕が生き延びたことで、少しはマシな世界になったかな? 『悪』にすがる以外に道を選べない人々が、少しでもそれ以外の道を選ぶことができるような。そんな世界へ進むきっかけを、僕は作り出すことができたかな?」


 その、一言に。


 こいつに出会って初めて、『嫌悪』や『恐怖』以外の感情で、息が詰まった。


「でん、か」


 殺しを悪いとは思わない。思えないし、思いたくない。


 だって世の中には、そうするしか道がないという人間だって、少なからず存在しているから。


 大多数は欲にまみれただけの人間だけども。今までの俺の人生を開き直りたいわけでもければ、こうなった責任を誰かに転嫁したいわけでもないけれども。


 それでも、力のある誰かが……それこそ神様みたいな存在が、世の中の構造ごと、汚れ仕事なんてなくても回っていくような形に、世界を変えてくれないかと願う日は確かにあった。


 そんな願いを掬い取ったかのように、アレクセイは言葉を紡ぐ。俺の過去なんて、思いなんて、こいつが知るよしもない話なのに。


「ねぇ、ルーシー」


 思わぬ言葉に動きを封じられた俺をそのままに、アレクセイは不意に距離を詰めた。その歩みは至極優雅でゆったりとしているのに、俺はそんなアレクセイから距離を取ることができない。


「僕達って、あの時に一度、出会っているんだよ?」


 そっと俺の左手を両手で取ったアレクセイは、俺の手を己の頬へ導くとスリッと顔を寄せた。


 そのまま俺の手はアレクセイの口元へ寄せられ、チュッと柔らかな感触が俺のたなごころに触れる。


「ねぇ、思い出して? オニイサン」


 不意に手のひらに落とされたキスに、ビクリと俺の体は跳ねる。反射的に手はアレクセイの手を振りほどこうと暴れたが、アレクセイの拘束は柔らかいくせに俺の抵抗を許さない。アレクセイに取られたままの手は、言葉を紡ぐことで手のひらにれるアレクセイの唇の感触をいまだに拾っている。


 スッと温度を下げた真剣な瞳は、俺の一挙手一投足を、視線の揺れのひとつまで見逃そうとしてくれない。獲物を前にした狩人だって、もう少し隙があるはずだ。


 ──ヤバい。


 何がヤバいのか、分からない。理解できない。


 だけど分かる。


 これ以上、こいつに関わっていてはいけない。


 さもなくば、俺は……


「っ!?」


 そんなことを思った、その瞬間だった。


 ヒュッという微かな風切り音を聞いた俺は、反射的に掴まれていた手を基点にアレクセイを投げ飛ばした。アレクセイもアレクセイでこうなることを予測していたのか、驚くこともなくすんなり投げ飛ばされ、綺麗に受け身を取る。


 さらに続けて俺が身を伏せれば、俺達の傍らに重い音を立てながら矢が突き刺さった。飛んできた方向に目をやれば、大教会を警備するために配備されている教会騎士達が、なぜか迷いなくアレクセイに向かって弓を引いている。


 ──誰かの息がかかってやがったのか……!


 俺はとっさに後ろ腰に帯びていた護衛専門侍従としてのナイフを引き抜く。


 アレクセイから下賜されたナイフは、まるで俺の得物を知っていて選んだかのように、俺が普段仕事で使っているナイフにそっくりだった。細身だが粘りがあり、俺の手に馴染むいい得物だ。アレクセイの身の安全さえ確保できれば、相手が複数人の教会騎士であろうとも対処は可能だろう。


 俺はアレクセイを長椅子の影に押しやりながら低く構える。


 だが前回の現場で大人しく俺に従ったアレクセイが、今回はそうはいかなかった。


 俺の手の力をスルリといなしたアレクセイは、スクッと立ち上がると正面から衛兵達に向き直る。


「おい……っ!」

「大丈夫」


 逆に声を上擦らせた俺の方がアレクセイに制止された。一瞬だけ俺に向けられた視線には、なぜだか余裕の笑みが浮いている。


「前回の時に、学んだから」

「は?」


『まぁ見ててよ』と言わんばかりのウインクを残してから、アレクセイは教会騎士達に視線を据え直す。


 そのままスッと表情を消しただけで、礼拝堂の中の空気がサッと冷えたような気がした。


「お前達を指揮しているのが誰かは、もう分かっている」


 朗々と上げられた声には、為政者としての圧が籠もっていた。口調は執務室で侍従達を相手にしている時と変わらず穏やかであるのに、その圧だけで空気がビリビリと震えているのが分かる。


「出ておいで、イアン。なぜこんなことをしでかしたのか、最後に釈明くらいは聞いてあげよう」


 ──イアン?


 イアン・ハインリッヒは、アレクセイの侍従の一人……思いっきりこちらの身内だ。今日も打ち合わせの一部を担当していて、この場に同行していたはずである。


 ──確かに、侍従が第二王子派か第三王子派とグルだったって考えれば、この状況にも納得はいくが……


 俺は問うようにアレクセイを見上げた。教会騎士達を見据えながらも俺の視線に気付いているのか、アレクセイは俺にだけ分かるように小さく顎を引く。


「この間の書庫での襲撃。あれは事前の仕込みが必要なものだった」


 確かに、いくら『スネーク・シャドウ』が五人一組の集団であっても、あの重い書架をアレクセイの上に倒そうと思ったら、事前に仕込みが必要だったはずだ。それを抜きにしたところで、あのタイミング、あの陣形でアレクセイを襲撃するには、五人が事前に書庫にスタンバイする必要があった。


 確かにそれを踏まえれば、あの時のアレクセイは『スネーク・シャドウ』が罠を張っている空間にわざわざ出向くように仕向けられたとも考えられる。


「あの時、僕が書庫に行くきっかけを作ったのは、そもそもお前だったね? イアン」


 ──ん? でも待てよ?


 あの時、イアンが書庫へ向かわせようとしていたのは、アレクセイではなく俺であったはずだ。むしろイアンはアレクセイが出向くのを止めようとさえしていたはず。


 アレクセイから言わせれば『ルーシーにあんな無茶を振られたら、僕が助け舟を出すのは当然のことだろう?』という理屈なのかもしれない。


 だがあの時点で周囲がアレクセイからダダ漏れる俺への好意に気付いていたか否かと問われたら、判定は『否』ではないだろうか。さすがにそこまでダダ漏れていたら、もっと別の意味で波乱が巻き起こっていたはずだ。


「あの後、改めてお前達侍従や侍従補佐官の背景を精査させてもらった。イアン、お前はどうやらカインと懇意なようだね?」

「……そこまでご存知でしたか、アレクセイ殿下」


 何かが引っかかる。どうにもおかしい。


 だが俺がそこを正すよりも、呼びかけられた当人が姿を現す方が早かった。


「全てあなたが悪いのですよ、殿下。あなたが私を見てくださらなかったから……!」


 教会騎士が作り出す壁を割り、メガネを片手で押さえながら登場したイアンは、何やら影を負いながらブツブツと呟いている。


『見てくださらなかったから』? いや、待て。まさかお前までそういう系統……


「だから私はカイン様にかしずくことにしたのです! 私の仕事ぶりを評価してくださる、カイン様に!」


 ……あ。そーゆー意味での『見てくださらなかったから』か。あー、はい。早とちりするところでした。


 と、内心でツッコミを入れていても大丈夫なくらい、俺には心の余裕が生まれていた。


 気付いたからだ。


 アレクセイの物言いからというよりも、この空間の外でうごめく気配から。


 恐らくアレクセイは、今更イアンからの自白なんて必要としていない。ガッツリ証拠は押さえてあるはずだ。


 アレクセイがしているのは、。配置が完了するのを待っているだけのこと。


 ──もしかして、この『下見』そのものが、のための仕込みだな?


 アレクセイ側に忍び込んでいたネズミをあぶり出すための。だからあえてこのタイミングで、下見をキャンセルしないで決行した。


 自分をエサにネズミ炙り出し作戦なんて、きもが据わってやがる。


 やるじゃねぇの、この王子。


「アレクセイ殿下! 私に懺悔するなら今のうちですよっ!? 今からでも私の働きを評価していただければ……」

「必要ない」


 対するニワトリ侍従は、頭の中までニワトリといい勝負だったらしい。


 あんた、何年アレクセイの侍従をしてたんだ? 毎日、何を見てたんだ?


 あんたがこんな大それたことを決行できたのは、アレクセイがあんたをわざと泳がせたからに決まってんだろ。


「もう決着はついている」


 サッとアレクセイが片手を上げた瞬間、バタンッというけたたましい音とともに礼拝堂の扉という扉が全て開かれた。そこから流れ込んできたのは、日頃からアレクセイの周囲を固めている護衛騎士と王宮の衛兵達である。


 そしてその後ろに控えたタイラーが高々と声を上げた。


「全員捕らえろっ! アレクセイ殿下に仇なす逆賊であるっ!! 抵抗する場合は斬り捨てて構わんっ!!」

「はっ!」


 自陣による『打ち合わせ』は完璧に行われていたのか、なだれ込んできた味方兵は細かい指示がなくても手際よく教会騎士達を無力化していく。


 俺は敵の最後の悪あがきがこちらに届かないよう、警戒を保ったまま両陣の動向を観察していた。


「さて。これでひとつ片付いた」 


 そんな俺の耳に、不意にアレクセイの声が転がり込む。


 敵から意識を逸らさないままチラリとアレクセイを見遣れば、アレクセイも俺に視線を投げたところだった。その顔には満足げで強気な笑みが浮いている。


「この間の書庫での出来事を参考にしてみたんだ。僕がこのタイミングで隙を見せれば、今まで分かりやすく証拠を残してこなかったイアンも、大胆な行動に出るんじゃないかと思ってね」


 そもそも、イアンには前々から他派と繋がっている嫌疑があったらしい。だが隠蔽が下手な癖に決定的な証拠は残さないせいで、ここまで取り押さえることができずにいたのだという。


「イアンは虚栄心が強く、プライドも高い。僕がイアンを素通りして新入りであるルーシーを過剰に構えば、嫉妬や不満から馬脚を現すと読んだんだ」


 ──なるほど?


 あの分かりやすい溺愛は、イアンに尻尾を出させるための演技だった、と。


 中々やるじゃねぇの。好みのタイプには全員にすぐに色目を使う変態軽薄王子なのかと思ってたけど、まさか敵をあざむくための計算だったなんてな。


 ……って、いやいやいやいや、信じるかよ!? だったらさっきのキ……キ、ス……て、手のひらへのキスとかっ! 別にいらなかっただろっ!?


「あははっ! その顔、納得してくれてないね?」


 状況はいよいよ終盤に差し掛かっていた。イアンに縄が打たれたのをきっかけに、教会騎士達も大人しく縛につき始めている。


 その状況に『安全が確保された』と認識したのか、アレクセイは弾けるように笑うと覗き込むようにして俺を見上げる。


「いいよ、その方が嬉しいもの」


 ──あ、ヤバい。


 俺の本能が警鐘を打ち鳴らす。


 だが俺がアレクセイから距離を取るよりも、アレクセイが俺との距離を潰す方が、今回も早い。


「だってルーシーは、僕の行為を『作戦のための演技が全てじゃなかった』って思いたいってことだもんね?」


 弾けるような少年の笑みが、夜気が滴るような妖艶な男の笑みにすり替わる。


 そう感じた瞬間には、ナイフを握ったままの俺の手はアレクセイの方へグイッと引き寄せられていた。


 よろめいてたたらを踏む俺の懐に、アレクセイはまるでダンスを踊るかのようにスルリと入り込む。


 俺達の間合いをゼロにしたアレクセイは、俺の耳元に、俺にだけ聞かせるように、甘く甘く毒をはらんだ声を注ぎ込んだ。


「いいよ、もっと僕にドキドキして? もっと僕に振り回されてよ、オニイサン」


 そう、毒だ。


 アレクセイが俺を『オニイサン』と呼ぶ声には、すべからく毒が含まれている。


「それから、思い出して。僕とオニイサンが、初めて出会った時のこと」

「っ!」


 俺はとっさにアレクセイの手を振り払い、後ろへ跳んで距離を取っていた。あっさりと振り払われたアレクセイは、それでも妖艶な笑みを崩さない。


「……っ!」


 心拍数が上がるのは、暗殺者として危機を覚えたから。


 顔が火照るのは、戦闘のために体温を上げた体が、余計な熱を吐き出そうとしているから。


 頭の片隅が甘く痺れているのは、無駄に艶のある声を耳に直接吹き込まれたから。


「っ……」


 だから、俺の全てを乱すこの『キュン』は。


 総トータルすれば、暗殺者として危機を覚えた俺の防衛本能。


 すなわち、殺意。きっとそう。


 ……そうでなければ、ならないんだ。




  ✕  ✕  ✕




 イアンの投獄や諸々の処置で数日執務が滞ったものの、表向きの執務への余波という話に限れば、執務の滞りは本当に『数日』で済んだ。


 恐らくアレクセイ達は、イアンを更迭した後の執務への余波まで計算し、必要な措置を講じてから事に及んだのだろう。いまだにイアンが抜けた穴こそ埋められていないが、三人に減った執務専門侍従と侍従長のタイラーによって、執務は事件前と変わることなく、驚くくらいにスムーズに捌かれている。


 とはいえ、単純に一人頭数が減っているわけだから、一人一人の負担が増えていることに変わりはないわけで。


 ──アレクセイもタイラーも、顔ににじむ疲労が隠しきれてねぇもんな。


 こんなことで立太子式に関連して起きるであろう諸々の荒波を乗り越えることができるのだろうか。……いや、俺の場合は、それまでにアレクセイを暗殺しなければならないわけなんだが。


「……」


 そのことを思った瞬間、一瞬だけ止まってしまった手を、俺は不自然な隙になる前に何とか動かした。


 ──俺は、この案件から降りるべきだ。


 初回の襲撃を失敗した時点で、降りるべきだった。今の俺には、アレクセイをれる気がしない。


 ほだされたとか、そういう意味ではなく。断じて、なく。


 ──俺とアレクセイの間には、暗殺者とターゲットという以上の因縁が強すぎる。


 恐らく、アレクセイはすでに俺が『暗殺者デス・ザ・スターキッド』であることに気付いている。気付いた上で、俺に好意を抱き、堕とそうとしている。さらに俺には思い出せないものの、まだ教会孤児院で暮らしていた頃の俺と出会ったことがあるらしい。


 アレクセイはきっと、俺に隙を見せはしない。対する俺は、アレクセイの揺さぶりに平常心を欠いている。


 今の俺は、ただのマトとしてアレクセイを見れていない。好き、嫌いという次元の話ではなく……あいつのことが、得体が知れなくて、恐ろしい何かに思えて仕方がない。


 こんな状況では、暗殺者として冷静な判断を降せるはずがない。幸い、アレクセイの立太子式までにはまだ2ヶ月程度の猶予がある。急病とでも偽って俺が王宮を退き、適任の暗殺者を俺の代理として推挙すれば、何とか作戦は続行できるはずだ。


 ──早く。一刻も早く、逃げないと……


 きっと、手遅れになる。


 俺は視線を伏せて作業を続けながら、内心で黙々と撤退のプランを立て始めた。そんな俺の内心を見透かしているかのように、時折アレクセイの視線が俺に飛んできているような気がする。


 俺は表情をアレクセイに見られないように、うまく首の動きだけで偽りの焦げ茶の髪をサラリと前へ流す。


「静粛に」


 その瞬間、しばらく前から席を外していたはずであるタイラーの声が部屋に響いた。顔を上げれば、執務室の扉が開いてタイラーが部屋に踏み込んでくる。


 その後ろに続いた人影が、執務室の敷居を越えた瞬間。


 俺は思わず、目を丸くしてその人影を凝視していた。


「今日からここに、新たな補佐官が入る。皆、面倒を見る……」

「ルーシー!?」


 その人影も人影で、俺の姿に目を丸くしていた。


 だが俺にはそのわざとらしい表情が、全て演技であると分かっている。


「あははっ! やっぱりルーシーだっ!」

「あ、おい!」


 天真爛漫な態度のまま、『新人』はタイラーの制止を振り切って部屋に駆け込んだ。それを見ていた俺は、手の中にあった書類を慌てて作業台に戻す。


 正直、『戻す』というよりも『投げ出す』の方が正しいんじゃないかという勢いで書類が俺の手から離れた瞬間。


『新人』は大きく腕を広げると、勢いそのままに俺に抱きついてきた。


「こんなところで会えるなんて!」


 突然の展開に、部屋の空気が凍り付く。


 俺は思わず、抱きついてきた男を引っ剥がすことも忘れて、アレクセイに視線を向けていた。


 そして俺は次の瞬間、そんなことをしてしまった自分自身を呪う。


 ──おい! 『正統派イケメン王子』の肩書きを持つ人間が見せていい顔じゃねぇぞっ!!


「……ルーシー?」


 魔王も泣いて逃げ出しそうな真っ黒なオーラを纏ったアレクセイが、ニコリと綺麗に俺に笑いかける。


「説明、してくれるよね?」


 そんなアレクセイとさらに温度を下げた執務室の空気に、俺は少しだけ涙目になったことを自覚していた。

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