風来の奇譚録

ZIPA

【プロローグ】異界からの漂着

【プロローグ】第1話

 

「最善を尽くす」


 これは楽な選択の為にある言葉ではない。

 最善への道が困難であっても、そう言葉にしたならスジを通さねばならない。


 ましてや己のせいで他人に危害が及ぶのであれば、それを避ける為に最善を尽くすのが道理だろう。


 かつて親分に教わったことが頭の中で渦を巻いている。


 己の情けなさと不甲斐なさ、憤りや焦燥、後悔等のあらゆる感情が複雑に混ざりあい、背中から押し潰されそうな感覚に襲われる。



 二つある奇妙な月明かり──

 深い森の中、黙々と歩き続ける男がいた。


 三度笠を目深に被り、手甲脚絆と薄墨色の道中合羽を身に纏い、腰には長脇差を携えている。

 表情は暗く、険しい顔を見せており、垂れ目がちな顔つきのせいで二十代中頃に見えるが、髭は生えていないので、見た目よりも年若いようだ。


 一目見れば旅姿だと分かるが、それには似つかわしくないことが一つ。

 その男は少女を背負っていた。


 青空のような美しい髪色に整った顔立ち、エプロンドレスのような衣装を身に纏った少女が男の背中で気持ち良さそうに寝息を立てている。


 奇妙な組み合わせの二人だった。

 この状況を見たなら人攫いだと思うかもしれない。


 旅姿の男は黙々と森の奥へと歩みを進めながら、このような事態に陥ったことを思い出していた。



 それは遡ること五日前───


 時は江戸後期、天保。



 春、暖かくなってくる季節だが、海上では身に染みるような寒さが残っていた。

 冷たい風が吹く弁才船(※いわゆる商船のこと)の甲板で、鶴の描かれた羽織りを着ている男が遠くを見つめている。


「稲作親分!」

 船内から甲板に上がってきた男が羽織りを着ている男に声を掛けた。

 その稲作親分と呼ばれた男は微動だにせず、遠くを見つめたまま燻銀のような声で返事をする。


「おう、十郎か。どうした?」


「この寒さです、お体に障ると思いやして」

 十郎と呼ばれた男が心配そうな声で話し掛けた──


 思えば十郎が親分と出会ったのも、このように冷えた朝だったろうか…。


 稲作親分、その人は──

 天保の大飢饉にて食糧難を解決する為、堅気衆の尽力もあって、各地の農村や漁村と交渉し、粟(あわ)や稗(ひえ)等を分けてもらうことで…村を救った親分とされている。


 しかし、この話になると稲作親分は『村を救ったのはワシじゃない、手を貸して下さった堅気の皆様のおかげよ…。ワシは結局、何も出来なかった。そう、何も出来なかったんだ』と、良い顔はされないが…。


 村を救う為に尽力した事は間違いなく、親分は稲作一家の誇りであった。

 何より十郎自身も四年前…、十三歳の頃。

 飢饉を切っ掛けに一家離散し、それを稲作親分に助けられた経緯があり、格別の恩義を感じていた。


「まだ到着まで二刻(※約四時間)以上はあるんでしょう?」


 早朝から船旅の準備に明け暮れていたのもあるが兄弟分はみな船内で仮眠をとっている。

 到着後も一働き出来る体力を温存しているのだ、それは親分も例外ではないハズであり、それが心配で声を掛けた。

「これから婚儀ですし、風邪にでもなられちゃ美乃梨さんも心配なさいやす」


 この船旅は親分の娘さん──美乃梨さんの婚儀に向かう為のものである。

 美乃梨さんは既に住居を移しており、船の進む先の港で落ち合った後、婚儀が開かれる手筈となっていた。


「なぁに、無理はしてねぇさ、ただ浮わついたこの気持ちを風で冷やしたい気分でな?」

 親分の声に寂しさが滲み出ている。


 無理もない…親分にとって大切な一人娘であり、一家にとっても姉のような存在であった美乃梨さんが嫁ぐのだから…。


「親分、寂しくなりやすね…美乃梨さんは本当にいつも元気で気立ての良い、一家の華でござんした」


「うむ、そうだなぁ、寂しくなるなぁ。ありゃ女房に似て、少しおてんばが過ぎるきらいがあるが、博徒の娘としちゃあ健全すぎた」

 染々と親分が言葉を続ける──


「だからワシは安堵しておるよ、娘はこれから堅気として真っ当な人生を歩める…御天道様の元で堂々と生きて行けるんだ…」


 そう言いながら視線をこちらに向けた稲作親分は、驚いたように、そして少し呆れたように目を白黒させる。

「しかしだ!十郎おめぇ、その格好」


 親分の向けた視線の先に、船旅の最中とは思えない旅衣装をバッチリと身に纏っている十郎が立っていた


 船旅は長く、到着まで先がある…のも分かってるし、普通は楽な格好で休んでいるものだ。

 親分に呆れられるのも仕方のない事だった。


「いやその、どうにも落ち着かねぇんで…」

 十郎は照れたように指で頬を掻いた。


 その様子を見た親分が笑って言う。

「しょうがねぇなぁ?到着まで二刻はあるんだろ?まぁしかし、おめぇのような真面目なお調子者がいた方が、堅気さん方も変に気を張らなくて済むってもんかな」


 笑う親分を見ながら思う。

 本来なら自分のような若輩者は参列どころか護衛にすらならなかっただろう。


 娘さんの結婚相手が堅気の漁師さんという事もあり、腕っぷしではなく、堅気さんを萎縮させないような人選で随伴させることとなったのだ。

 船内で休んでいる兄弟分もそうだが、刺青を彫ってる者はいない。


「婚儀に参列するなんて初めての事なもんで…しかも美乃梨さんの婚儀でしょう?作法も詳しくありやせんし」

 婚儀の場でやらかすと、美乃梨さんの顔にに泥を塗ることになるのではないかと考えると、どうしても体が強張る──


 親分にそう伝えると「ははは!しかしワシより緊張してどうする?」と、再び親分が笑った。


「なんというか、面目ねぇというか…」

「なぁに、祝福する気持ちさえありゃいいのさ。深く考えすぎるから良くねぇのかもな?ははは!」


 しんみりとした雰囲気が和らぎ、雲一つない晴天が広がる船旅日和…

 このまま順調に船が進んで行く、ハズだった──


(ゴゴォォン…バリ、バリバリッ…!)


 青天の霹靂とでも言うのか。

 突如として轟音が鳴り響く。


 ぎょっとして二人が空を仰ぎ見ると、そこには青い空を裂いたような黒い稲妻があった…。

(あれは本当に稲妻だったのだろうか?)


 そう思った一瞬の間…。

 稲妻を中心に暗雲がぐんぐんと広がってゆき、風も段々と強くなる。

「こいつぁ、一体…なんなんだ?」


 親分も初めて見るといった顔で空を仰いでいると、異変を感じ取ったのか、船頭さんが顔を出して怒号にも似た声を響かせた。


「親分さん方、何かあっといかん!船内に避難してくんねぇ!」

 船頭さんはそれだけ言うと船乗り達に指示を出し始める。


「あぁ、そうだな!十郎おめぇも早く──」

 船内に向かおうとした瞬間、船がガクンと大きく揺さぶられ、親分の体が宙に浮くのが見えた。

 このままでは船の外へ放り出されてしまう!


「親分!」

 十郎は叫びながら全力で親分の元へと駆け出した。


 強い風が背中を押し、船ばたギリギリの所で親分の襟首を掴むことに成功する…だが。

 大きく揺れる船では踏ん張りが効かない。

 このままでは二人とも放り出されるのがオチ…ならば!と覚悟を決めた。

「御免!」


 親分との位置を入れ換えるようにグルリと体をひねり、船の中心側──船頭さんがいる場所に向かって親分を投げた。


「十郎!!?」

 親分の叫び声が聞こえた。


「船頭さん!親分をお頼みしやす!」

 海に落ちながらも波の音でかき消されないよう大声で叫ぶ。

 ザブンと海に落ちたがそれでも声が届いたか分からないので不安で叫び続けた。

「あっしは大丈夫だ、死なねぇ!だから親分を頼み──」


 着物が濡れ、波に揉まれ、うまく泳げない。

 身に付けていた振分荷物(※小型鞄のようなもの)を浮き代わりにしがみつく。


 死ねねぇ、一家の目出度い日に死ぬなんて出来ねぇ!

 せめて、生きて帰らねぇと───


 先刻まで快晴だったのが嘘のように海が荒れ、高波までも立っている。

 かろうじて船影が無事なのを確認したことが最後の光景であった。


 ザブリと波に呑まれ、暗闇に包まれる。

 暗い海の中、きりもみにされながら。十郎はその意識を手放していた──

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る