第10話


 母はいつも通り、外に出かけて行った。


 男は姉をおもちゃにして遊んだ後、俺に煙草を吸わせることを愉しんでいる。それからの日常の中で、俺は煙草を吸うことが定例となっていた。


 俺が煙草を吸えば、男の暴力もない。俺が煙草を吸うことは面白いらしく、面白い事をすれば男は許してくれる。叩かれることも、だんだんとなくなっていった。それにつられて、俺も煙草に対して精神的な依存も始まっていたように思う。


 男は、よく俺に動物の真似をさせる。動物の真似っこは姉に見せることがあったから、きっと得意技だった。


 豚の物まねをしろ、と言われて物まねをしたけれど、叩かれることがある。その際に男は携帯を取り出して、本物の豚を見せつけて、鼻を鳴らすようにきちんと真似をしろ、と俺をまた叩いた。


 言われたとおりにまねすれば、男が俺をたたくことはない。痛みがない安堵が、どれだけうれしかったことか。


 男が寝て、俺も姉も眠りにつく。姉は俺の腹部の怪我を気にするけれど、男が後処置をしていたから、そんな過去などなかったかのように消え失せている。少しも傷跡は残っていなかった。


 俺は姉にあの人は神様なんだよ、魔法を使ったんだといった。姉はそれに対して、泣くことしかできなかった。





 姉の怒声で目を覚ます。姉の怒声といえば母が帰ってきたのか、と思えば、それは一方的なもので、いつもとは違うことがすぐに理解できた。そうして姉が男に怒声を浴びせているころには、もう遅かった。


「へえ、おもしろいことをするね」


 男は、そんな怒声に対して躱すように冷静でいる。どんなことをきっかけに姉がそういう行動をとったのかはわからないけれど、そんな言葉を男は発した後、どすどすと床に足音を鳴らして、俺がいる寝室にやってくる。


「な、なにするの」


 姉が、細い声をあげる。


「なにって、そりゃあ、俺に命令した罰ゲーム、かな」


 男は、俺のもとまで歩み寄って、俺の体を起こした。


「というわけで罰ゲーム。恨むならあいつを恨めよ」


 そうして、男はナイフを取り出して……──。


「──やめて!!」


 姉が、怒声とは違う悲鳴みたいな声で叫ぶ。


 でも、もう遅かったみたいだ。


「──また命令したな」


 男は、ナイフを俺の腹に垂直に立てる。とがった先が肌に絡まる感覚から、俺はこれから起こることに対して想像が及んで泣きそうになる。でも、泣いてしまえば、きっとさらにひどいことになる。叫ぶかもしれないけれど、叫んだらもっと──。


 ──ナイフは、浅く腹に沈んでいく。血は、少ししか出てこなかった。


 そんな俯瞰で見た後、どれだけ、我慢していても、声は出る。


「刃渡りゲーム」


 男は俺の腹に刺さったナイフに、ナイフの柄に指をたたせる。指を人みたいにする。前に俺が指同士に設定をつけて遊んでいたみたいに。だから、すぐさまに理解できた。


 指はナイフの柄から腹部に刺さる刃の橋を、弾むように渡っていく。


 ──ぐりっ。


 抉られる痛みとともに、喘ぐ声は俺の喉元から熱をもって放たれる。


「──リセット」


 少し進んだ指先はまた柄に戻って、歩き始める。


 ──ぐりゅっ。


 悲鳴は、止められない。


「リセット」


 姉から悲鳴が聞こえてくる。


「リセット」


 誰かが悲鳴を上げるたびに、男の低い声で、リセットが続く。でも、悲鳴は止められないし、止まらない。


 ──リセット。──リセット。──リセット──リセット──リセット──リセット──リセット──リセット──リセット──リセ……。 声は、だんだんと遠くなる。


 ああ、ようやく終わる。  


 ──俺は、待っていたように、意識の限界を感じて、目を閉じた。





 目を覚ましたら、寝室に俺は姉と一緒にいた。例の部屋から聞こえてくる母の途切れた声で安堵感は紡がれる。しばらくは大丈夫だと、寝ぼけた頭で理解する。


 痛みを感じていた腹部は、丁寧にガーゼでおおわれている。俺はそのガーゼをなでるような動作をとると、姉が、小声で、ずっと何か言葉をぼそぼそと呟いているのが、聞こえてくる。耳をすませば。


 ─ごめん。ごめんね。私のせいで。ごめんね、ごめんね。


 ずっと、俺が眠りにつくまで、きっと眠りについてからも、そんな言葉を呟いていた。


 ……姉はそれから、男の言うことは聞くようになった。俺にしていたみたいに豚の物まねをしろ、と言われたら従順にまねをするし、例の部屋の途切れた声は大げさなものになって、男はさらに表情をにやつかせていた。





 目を覚ますと、俺は車の中にいた。


 といっても目を覚ました時は、実際はどういう状況だったのかはよくわかっていない。でも、今思えば、車の中だったと振り返ることができる。


 運転席には男が乗っていて、車を走らせているように見えた。俺は次第にここが外の世界だと気づいて、そうしてようやくはっきりと意識を覚醒させた。


 面白いか、と男は聞いた。俺はそれに対して肯定する。


 初めて見た外が、男と同じ空間だったのは癪だったけれど、それでも車窓から見た外の景色は、テレビで見たみたいにすごく綺麗に感じたのだ。


 しばらく運転をして、そうして目的地に到着したみたいだ。男は車のエンジンを止めて、外に出るように促される。場所は海岸の近くの、埠頭の付近にある倉庫みたいな場所。


 倉庫みたいな場所には、スプレーで描かれていた落書きが大量にあって、潮風に吹かれながら楽しそうな場所だと思う。


 ここで何をするのか、と男に聞くと、お前の家族にドッキリをしかけてやるんだ、とそう答えた。ドッキリならテレビでよく見ていたから知っていた。俺はそれが少しうれしく感じた。


 どんなドッキリなのかと聞けば、男は後でわかるよ、と答えない。きっとしつこく聞いたら叩かれるから、それ以上は何も言わない。


 倉庫の中……、どこか家のような雰囲気のある場所。そこにはサングラスをかけた男が立っている。


「……そいつに入れるのか?」 


「ああ、面白そうだろ?」


 サングラスの人と、男はそんなやり取りをする。サングラスの人は、どこか声音は優しく感じた。


 本当に大丈夫なのかい、と俺に聞いたけれど、男は俺に制して言葉を話させない。


「頼めるのはお前しかいないんだから、頼むよ」


 サングラスの男は、しぶしぶ頷いて、そうして俺を違うどこかに連れていく。連れていかれるときに後ろにいる男の顔を見たけれど、今にも爆発して笑いそうな顔をしていた。


 部屋に、連れていかれる。眩しい部屋。まるでテレビで見たような手術室と似ている。


 手術するの?と俺は聞いた。サングラスの男は、まあ、そうかな、と困ったように答えた。彼は笑っていなかった。


 手術室みたいな部屋を見渡せば、確かに注射器のようなものと、色とりどりの絵具みたいな材料が置いてある。


 サングラスの人は、俺に脱ぐように指示をする。手術をするなら当然だと思って、俺はその言葉に従う。きっと、身体の中に悪い何かがあるから手術するんだ、と幼い心で納得をして、そうしてそれは始まった。


 サングラスの人は、注射器のようなものを持っている。もう片方には、アニメに出てくるみたいな龍の絵が描かれた紙を持っていて……。





 気が付けば、それは終わっていた。手術みたいに麻酔とかいう薬を使うことなく、ひたすら背中と首に注射器のようなものをあてがわれる。痛みはそんなにはしなくて、サングラスの人は、君は強いね、とほめてくれる。俺はそれがうれしくて、その最中にも期待に応えるように痛みを我慢した。


「お、かっけぇじゃん」


 男は、俺の姿を見て、そうして腹を抱えながらそう言った。俺は何がかっこいいのか、と聞くと、男は携帯で写真を撮って、俺に見せてくる。


 背中に映る、アニメみたいな龍の存在。


 そこで思い出したのは、サングラスの人が片方の手に持っていたイラストの紙。


 俺はそこでようやく、背中にタトゥーを入れられたことに気づいた。


 タトゥーという概念を当時は知らなかったから、背中に格好がいい落書きがついた、ということしか覚えていない。サングラスの人は申し訳なさそうに俺を見送ったけれど、男はずっと笑いながら帰り道にかっこいいともてはやしてくれた。きっと、母も姉も、この姿を見たらびっくりしてくれる。俺は久しぶりに喜んでくれる姿を想像してうれしくなる。男の言葉に偽りなく、ドッキリにふさわしいな、とかそんなことを考えながら家に帰った。


 そうして帰ると、そこに母はいない。


 少し残念に思ったけれど、姉にその姿を見せると、姉は驚いた顔をして、そうしてぐすぐすと俺の背中を見て泣いた。別に悪いことをされたわけじゃないのに、姉はそれを悲しむようにひたすらに泣いている。男は、それを見て、ドッキリ大成功だな、と笑っていたことを思い出す。





 黒髪にタトゥーは似合わない、と男に風呂場に連れていかれる。変な匂いのする液体を頭にかぶせて、ビニールやなんやらをかぶせて、なんか俺の頭で遊んでいるみたいだった。


 しばらくそのままでいろ、と風呂場に置いて行かれる。男は姉をおもちゃにしているみたいだ。俺はそれが終わるのをずっと待ちながらぼうっとする。せめてテレビでも見せてくれればいいのに、とかそんなことを考えていた気がする。


 姉との遊戯を終えて、男に言われるがままに頭についているものを洗い流す。鏡を見れば、黒色だったものが金色になっている。俺はドラマの主人公みたいで、格好よくなっていたから、男にありがとうと言って喜んだ。男は笑っていた。


 ──これで終わりかと思えば、まだ金色が足りない、と同じようなことを繰り返す。繰り返す。繰り返す。何回繰り返したのかは覚えていない。だんだんと眠気が孕んで、いつのまにか寝ていたような気もするから。


 目を覚まして、男に促されるままに鏡を見る。ほぼ金髪とは言えないような白色の髪。それでもかっこいいから、俺は喜んだけれど。


 洗い流すときに、なぜか髪がちぎれていく。男はげらげらと笑いながら、頭をぐしゃぐしゃにしながら洗い流す。そうして、その日の遊びは終わった。





 男が来てから何日になるかはわからない。男がいるときは母と姉が喧嘩をすることはなかったけれど、その日は久しぶりにその喧噪で目を覚ました。


 どうやら家に男はいない。そして、母と姉が喧嘩をしているけれど、姉については泣いてばかりで母とは話になっていない。


 何があったのかはわからないけれど、いつもと違って、姉は男といるときのように裸だった。きっと、さっきまでおもちゃにされていたのかもしれない。


 母は怒った勢いのままに外に出ていく。家に響く、姉のすすり泣く声。


 どうしようもない。俺は大丈夫?という言葉をかけることもできなくて、結局、また布団の中にこもりきりになった。






 それから、母が帰ってくることはなくなった。





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