第8話


 思い出したくもない過去、というものがある。幼い頃の思い出は、誰かにとってはダイヤの輝きのようなものだと後に俺を引き取ってくれたおっさんに聞いたことがあるけれど、その記憶がはたしてダイヤのような輝きを持つかといわれれば、それに肯定することはできないだろう。


 物心がついてからの最初の記憶を思い出す。家の中はいつだって暗いもので、だいだい雨戸とガムテープで締めきっているから、暑さだけが空間に残っている。なぜそんなことをしているのかと、母に聞いたことがあるが、誰かに見られるから、とよく言っていたような気がする。だいたいそんなことを話すのは、ラムネみたいなものを吸い終わった後だった。


 家族は、母と、姉だけ。テレビというメディアの存在によって、ドラマから父親という存在になる人間がいることを覚えたけれど、どうやら俺には存在しないらしい。姉がそんなことを言っていた。


「私のお父さんも、あんたのお父さんも、私たちを置いて、どっかに逃げちゃった」


 そんなことを言っていた気がする。どうして、姉と俺の父を区別するのかを、当時は知らなかったけれど、後からおっさんから話を聞けば、母はだいたいの男と避妊せずに性行為を行って、そのうちの堕胎が三回、二回はお前たち、ということらしかった。身体で鎖を取り付けるような女だったんだとおっさんは語っていた。


 家はいつだってゴミ山の中。テレビも周りと、寝床だけは過ごしやすいように片づけている。といっても、歩ける程度としか言いようがないが。それでもそれが通常なのだから、テレビの世界に出てくるものは、どれもが夢のような世界だったと言わざるを得ない。


 そんな中で、いつだって母とけんかをしている姉の姿が瞼に焼き付いている。物心がついていることからずっと同じ。どういう理由で喧嘩をしているのかはわからないけれど、俺が見ているテレビをいきなり母は投げ出したり、たまに包丁を取り出して、自殺してやる、と大声で叫んだりして、その通りに腕に傷をつけていたことがあった。俺はそれに対して泣くことしかできなくて、母が五月蠅いと怒鳴りつけたけれど、それが火に油を注ぐみたいに喧嘩も泣き声も増長する。最終的には隣人が騒ぎの大きさに玄関をしつこくノックして、それで警察沙汰になったこともある。そこで、ドラマみたいなことは現実にもあるんだな、とそう考えるようになった。それが日常。


 母はいつも苛立って煙草を吸っている。時にはラムネのようなものも吸うと、途端に機嫌が良くなって俺たちを抱擁する。でもしばらくすれば、壁で爪を研ぎ始めたり、俺ののどが渇いて入れた水を取り上げて投げ捨てたり、かかった水に悲鳴をあげたりの繰り返し。それに姉が怒って、そうしてまたいつものように喧嘩。次第に泣くことにも飽きて、ぼうっとテレビを見るか、布団にこもって世界を遠ざけることが得意になっていった。


 学校という概念があることをテレビで知ったけれど、俺と姉はそれでもゴミ山の中での生活を続ける。母が寝ているときに姉に聞いたら、戸籍がないとかどうとかで、結局学校に行くことができない、と話を聞いた。やはり、テレビというのは一つの夢みたいにキラキラしているんだな、とファンタジー感を強めたものだ。


 たまに母は外に出ていくことがある。俺もそれに対して一緒に行きたいと駄々をこねたことがあるけれど、それを聞いた母はガムテープと何かの鞄をもって外にそのまま出ていく。扉を開けようとすれば、ガムテープが外側から目張りされていて、結局出ることはできない。


「大人になったら出ることができるんだよ」


 姉は俺にそう語る。小声で、きっと、という言葉が余韻として残ったけれど、俺はそれをどこか片隅に流した。きっと、いつかは外を見られるということがうれしかったのかもしれない。


 翌朝になれば、いつの間にか母は家に帰ってきていたみたいで、台所付近に、ガムテープがぐしゃぐしゃとまとめられているものを見つける。お帰りなさい、と声をかけようとしたけれど、姉が俺の口を手で塞ぐ。びっくりしたけれど、よくよく耳をすませば、隣から母の声と、知らない男の声が途切れ途切れに聞こえてくる。


 なにこれ、と姉に小声で聞くと、姉は俺の耳を両の手で塞いで、聞こえないようにする。それがどこか温かくて、俺はそのまま眠りについてしまった。


 そんな生活だったけれど、ここまでのことはぶっちゃけ、そんなに苦しかった生活とは思えない。母はたまに出かけて、数日くらい帰ってこないこともあったけれど、姉が手料理を作ってくれるし、姉が疲れて寝てしまったときには、そこらに食べかけのものが放置してあるから、それを食べればいい。姉の料理よりもおいしいとは思えなかったけれど、空腹を満たすことができたのは、それだけで幸福だったように思う。


 そこまでは。それまでは。きっと、楽しい思い出でまだ済ませることができると思う。





 母が出かけて、結構長い間帰ってこない。姉はその間も懸命に俺の面倒を見てくれて、たまに一緒にテレビを見ながら静かに過ごす。いつも世界は暗いから、夜なのか昼なのかもわからないけれど、眠気が漂い始めたころに、玄関のドアがガチャリと、開く音が聞こえた。


 ただいま、という声が聞こえる。いつもは言わない言葉だから、そんな言葉を聞くのも、帰ってきたのもうれしく感じて、お帰りなさいと眠気に浸りながらも元気に挨拶をしようとしたものだ。


 そうして、母の背後に見え隠れする何か。俺は初めて母が男と一緒に帰るさまを目撃する。それについて何か感情を抱くことはないけれど、新鮮なものを見る、という気持ちは少しばかり好奇心を孕ませていたような気がする。


 男は、俺の顔を見て、にやりを笑っていた。それがどういう意図なのかはわからないけれど、俺も笑顔で返すのが自然だと思ったから、にこやかにした。


 さあ、もう寝る時間よ、と母に促されて、俺は寝室に行く。母と男が行く場所はいつだって決まって例の部屋だ。


 部屋に戻ると、すでに姉は眠っている。起こしては悪いと思ったから、僕もすぐに眠りについた。母の途切れた声を壁越しに聞きながら。





 翌日、目を覚ませば、隣で寝ていたはずの姉がそこにはいなかった。お姉ちゃん、と呼びながら、いろいろな部屋を探すと、姉は、母が昨日男と入ったはずの部屋に男と一緒にいた。二人とも裸で。ぐったりとして休んでいる。母と同じ煙草を、男が吸っているのを横目に見た。どこか眠っているように見える姉の姿、よくよく見れば涙を流しているのが目についた。


 その光景を見て、あれ、お母さんはどこだろう、と考えていた気がする。だいたい姉が泣く時は母と喧嘩をした後だったはずだから、俺が寝ている間に喧嘩があったのかとキョロキョロする。家のどこかを見渡すけれど、やはり母はいない。気づけば姉の横にいたはずの男は、静かに俺の後ろに立ち上がっていて、妙な雰囲気を感じた俺は、それでも結局どうすることもなく佇んでいる。そうして後ろを振り返った。


「……何があったのか聞かないのか?」 


「……お母さんとお姉ちゃんが喧嘩したんでしょ?だから、きっとお姉ちゃん泣いているんだ」


 どこかでみたアニメの探偵のように推理した言葉を吐くと、男は俺の視線にまで屈んで、顔を合わせる。母と同じで煙草臭いなと思っていたら、


「お前、面白いな」


 と男はそうつぶやいた、気がする。そこからのことはあまり正直に思い出したくはないけれど、そういうときの記憶に限って、鮮明に思い出せるものだ。きっとこれからも、その記憶は消えないだろう。


 腹部に、なにかの衝撃。


 気が付けば俺は衝撃のままに横になっていて、寝室にまでふっとばされていた。よくわからない状況の理解、遅れてやってくる嗚咽と、そうして理解する鈍痛のようなものが、胃の中を空にする。男はそれを見てけらけらと笑っていた。


「お前の母さんは働きに行ったよ。──しばらくは帰ってこないんだ」


 男はまた視線を合わせて、そうして、倒れて仰向けになっている俺を見下ろす。そうして、さっき感じたような衝撃、というか重さが継続的にやってくる、だんだんと重みを増しながら。


 幼い視野で腹部を見れば、男の足が俺の腹を押さえている、というか、踏んでいる。体重は徐々に徐々にと増していって、深くなるたびに俺は嗚咽を吐いた。それを見て男は、やはりけらけらと笑った。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る