笹野の言った言葉を、わたしは丸1日掛けて考えた。

 部屋で、ベッドに寝転がって、なにがあるわけでもない天井を眺めて。

 考えても考えてもわからなかった。もはやなにがわからないのかがわからないぐらいに。どうしたらいい? どうしなきゃいけない? 自分の本心は? わたしはどうしたい? どうもしないのは、気づかなかったふりを続けるのは──不誠実だ。流されるようにして全然思ってもいない結論を口にするのも、きっと不誠実だ。

 彼は、どうしてその言葉をわたしにくれたんだろう。

 まだ明るい夕方。わたしは起き上がって、スマホを手に取った。わからないから……それなら、会いに行ってみようと思った。実際に彼を前にしたとき、わたしはどんな言葉を口にするのだろう。

 ほとんど事務連絡しかしていないメールに、わたしは文字を打った。駅に来て。

 家を飛び出す。夏の日暮れ時の、緩い空気感に包まれる。最寄り駅が同じだというのは、年賀状を書くために住所を訊いたときに知った。そういえば、彼からの年賀状は1個大きく間違えているところがあった。今度教えてあげよう。

 なにかに急かされるように走っていく。夢中で走りながら、わたしはどうしてか口元が自然とほころぶのを感じた。わたしは笑っていた。君の声が聞きたい。顔を見たい。わたしは、わたしは──。

 横断歩道に差し掛かる。勢いは止めない。立ち止まったりしない。駅まで、あと少しだ。走れ、走れ。……その時。

 信号無視をしたトラックが突っ込んできていたことに、わたしは気がつかなかったのだ。



──────

────────



「全部わかったみたいだね」


 電車から降りた日比谷は、くるりと振り向いて、言った。さっき「起きたみたいだね」と言ったときと、ほとんど変わらない口調だった。彼女は笑っていた。それは今まで見てきたいつよりも寂しそうで、なのに消えてしまいそうな頼りなさはどこにもない、そんな不思議な笑顔だった。

 ホームに足を着いた僕は、うんと頷いた。

「わかったよ。全部」

 メールを見た僕は、着の身着のまま、スマホだけかろうじて引っ掴んだ状態ですぐに駅へと走っていった。何駅、と具体的なことは全く書かれていなかったが、自宅からの最寄り駅のことだろうという確信があった。彼女の家から1番近いのもその駅だ。日比谷はなんのために僕を呼んでいるのだろう。昨日、僕が言ったことに対して? いや、彼女は聞いていなかったはずだ。……ねえ、聞いていなかったよね? それとも、もしかして。

 なんにせよ、日比谷に呼び出されて行かないわけはなかった。

 見慣れた駅の改札前。日比谷はまだ来ていないようだった。柱にもたれかかって、僕は待っていた。沸き立つように胸が熱かった。わくわくするようでいて緊張していた。寒くもないのに身を固くして、心臓が高らかに鼓動を響かせるのを感じながら、ただただ立ち尽くしていた。待っていた、それだけだ。

 彼女は来なかった。30分待っても、1時間待っても姿を表さなかった。

 なにかおかしいとは思った。日比谷はどう見ても人を長時間待たせるタイプの人間ではないのに。メールには、別に彼女が来るなどということは1言も書いていなかった。僕は何か早とちりをして勇んでここに走ってきたのかもしれない。それを認めたくないから、おかしいと思いながらも、僕は立っているしかなかった。

 ……そのうちにすうっと僕の意識はどこかへ引きずり込まれ、気がつけば僕は、この今降りた電車に揺られていたのだ。

 ここは、日比谷が作り出した世界だ。彼女は小説で、文章で、言葉で世界を作り出す。やり方や媒体なんてなんでもいい。彼女は世界を作る。

「笹野のせいだよ」

 日比谷は笑みを浮かべたままそう言った。「笹野のせいだよ。君があんなこと言ったせいで、わたし、浮かれてた」

「……うん」

「トラックが来たのにも気づけなかった。……でも」

 わたしは、恨み言とか無念を言いたくて現れたんじゃないよ。

 僕は目を見開いて、俯いた。うん、とまた頷いた。

「知ってるよ。託しに来たんだ」

「そう」

 日比谷は右手で左腕の白い袖を、ぎゅっとつかんだ。ローファーのつま先あたりを見ているようだった。「あのね、死ぬのは、怖くないんだよ」

 彼女の言おうとしていることが、どうしてだろう、見えた気がした。「……死っていうのは、良いも悪いもない、ただの状態だ。怖がるものでもない」

「うん。本当に怖いのは死ぬことじゃなくて、無意味に──場合によっては悪く、生きることだよ。今までわたしはそれなりにちゃんと生きてきたつもり。だから死ぬのは怖くない。怖くなかった」

「…………」

「でも、惜しいよ、すごく。わたし、もっと色んなことが知りたかった。いいこととか、正しいこととか、美しいこととか」

「部長」

「名前で呼んでよ。昨日、初めて呼んでくれたじゃん」

 顔を上げた日比谷は、意外と挑戦的な目をしていた。だが、口元はやはり優しく微笑んでいた。僕はどうしていいかわからないのを誤魔化すために、お芝居のように、わざとらしく溜め息をついて見せる。

「ばっちり聞いてたんだね」

「そりゃそうだよ。わたしは人の言葉を聞くことも大事にしてるの。ねえ、ずるいこと言ってもいいかな?」

「どうぞ」僕は笑った。ずるいことでもひどいことでも言えばいいと思った。彼女はえへへと照れた顔になった。あのね、と言う。わずかに弾んだ声。

「わたし、君のこと好きだったかもしれないや」

 はあ?と僕は首を傾げた。

「かもしれない? かもって……」

 もちろん、「わたしも好きだった」なんていうご都合主義は期待していなかったけれど。日比谷は恋愛など1ミリたりとも眼中になさそうだったし、──僕だって本来そうだったはずなのに。彼女はいたずらっぽく片眉を上げた。

「うん。わからない。そんな気がしてるだけかもしれないし。そういうこと、意識して考えたこともなかったし」

「それはずるい」

「わかってる、ごめんね。だから、そういうことまで含めて全部、もっともっと笹野のことが知りたかったな。色々話したかったなあ。昨日のこと、すごく嬉しかったんだよ。それは絶対に正しい事実なんだ」

 だからずるいってば。僕はそう言いながらも、十分かなと思った。喉元から胸にかけてが、なんとなく温かかった。彼女にもっと君について知りたかったと言ってもらえたなら、それが最大の褒め言葉であり、最上の返事だと思った。

 その時、アナウンスがホームに響いた。

[まもなく、電車が発車します]

 僕は首を傾げた。確かに見渡す限り海の上の線路は続いているけれど。「終着駅なのに?」

「それはわたしにとってのだよ」と、日比谷は言った。

「ここから先は一緒には行けないや。わたしの〈どこか〉はもうなくなっちゃったから。でも君は違うよ。〈どこか〉に行くんだよ。行き続けるんだ」

 彼女はにっこり笑って、僕をくるりと180度回して背を押してきた。電車に押し込もうとしながら、話し続けた。「わたしのことは忘れていいからね。ずっと囚われていないでね。もっと遠くに行ってね。でも」

 その声にだんだんと嗚咽が混ざるのを、僕はどうすることもできなかった。「でも……ごめんね、わたしはすごく欲張りなんだ。やっぱり、たまには、ちょっとは思い出してほしいな……」

 痛かった。

 物理的ではない。痛々しさを感じるのとも違う。どこかが確かに痛かった。彼女の言葉はちっとも鋭くないのに、痛かった。苦しかった。青かった。……心とは、一体どこにあるのだろう。見えなくても触れられなくても、どこかにあるのだろう。

 日比谷は俯いたまま僕の手を取って、そっと両手で包み込むように、なにかを握らせてきた。車内に乗り込んだ僕は、彼女と向かい合った。なにか言わなきゃ、と思った。なにか言いたいと願った。口を閉ざして一生懸命に言葉を探して、結局わからないままに、こんなことを言っていた。

「塚本と墓参りに行くよ」

 日比谷は虚を突かれたように目を丸くした。変なことを口走ったことに気づいて、僕は少し慌て、目を逸らして頭を掻いた。

「あ、いや……もちろん1人でも行くよ。でも、塚本とは仲良くやってくから、心配しないでほしい。あと知らない言葉は使わないようにする。自分の言葉に責任を持つようにする。それから、僕も色んなことをちゃんと見つめて、考えて生きていこうと思うよ。観想するよ。だから。……日比谷優花さん」

 僕は精一杯笑った。目の端に滲むものを感じた。

「僕はちゃんと生きていく。ちゃんと生きていこうって思えたのは、あなたのおかげなんだ」

 やっぱり、好きだよ。あなたがすごくすごく好きだ。ありがとう。

 僕がやっとのことでそこまで言うのと同時に、扉が閉まった。電車は静かに動き出す。静かに波1つ立てずに空を映す海の上を、流れるように、滑るように。

 これでいいんだ、と思った。大丈夫。僕はしっかりと、言うべきことが言えたんだ。だって、……景色の一部に溶けて過ぎ去っていく一瞬の前に、日比谷が頬に涙の跡を伝わせたまま満足げに笑ったのが見えたから。

 そっと右手を開けば、手のひらの真ん中に小さな花びらのような白い貝殻が残っていた。

 あなたはずっとここにいる。昨日にいる。海にいる。

 ──さあ。

 僕は進行方向に向かって体を向けた。Tシャツの肩口で、涙をごしごしと拭った。

 先なんて見えなくても、〈どこか〉へと進んでいこう。










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