4秒、いや5秒だったかな。

RICORIS

君へ。

 暗闇。揺蕩う朝露がその静寂を打ち消した。

 静寂。世とは静けさに溢れた空間に過ぎない。我々が見る物は何か。この世とは闇の中にありとあらゆるものを生み出している幻想世界であるのではないか。見える物は全てヒトの脳が生み出した幻だと。

 精神異常者であり社会不適合者である私はそう考えざるを得ない。


 目を開けた。朝だ。青い空はいつ見たって変わることはないだろう。鏡に映る自分はいつも通り。信じられないほどに情けない顔をしている。

 この世とは全くもって上手くできていない。異常者のレッテルはその社会でのみ機能するもの。そう、フーコーは言ったらしい。監獄社会において私は監視対象とも言える。もしもこの異常が正常であったのなら私は正義になり得たかもしれないのに。これこそ、幻の話であるのだが。

 この長年にわたってこの国が作り上げたまっすぐな一本道のレール。それを私は疑いもせずに歩んできてしまった。寸分違わず。

 私はこの社会から見れば成功作。地球上の人類の中では失敗作。私が歴史に名が残るとしたら、狂人のレッテルを貼られるのだ。


 国を愛すのは、国民にとっては至極当たり前のことであろう。郷土愛という言葉があるように、国に産まれたことを誇りに思うのだ。国に命を捧げることも厭わず、それを逆に良いことと捉える。

 それが、どうにも納得できなかったのだ。

 先生に教わった。国のために差し出す命の尊さを。

 母に教わった。この国の素晴らしさを。


 怖い。嫌だ。


 私は暗闇で目を開けた。わたしは何だ。わたしは誰だ。ここは、どこだ。

 ただ生温い風が自分にべったりと巻きついて、冷たい風が体の中を通り抜けていく。不愉快なこの空気の中、私は暗闇の先の光を探した。

 探せど光はない。まるで、私の人生のよう。この光なき世界で操られるマリオネットのような、虚しいだけの暗闇。

 私は私に問い続ける。

 温かく、少し生ゴミのような匂いのする風が顔の周りを包む。粘着質な唾液の音が耳のすぐ近くで誰もいないホールのように反響する。

 その不気味さが漂う中で私は答えた。

「君は悪魔なのか」

 と。


 君とは、私もよく知らない。初めて、いや何度か会ったかな。話はしてないか、したか。よく分からない。

 知っているかな。悪魔は、人をたぶらかすために美形にできるらしい。正しい生き方だとは思わないかい。その美しさを、至極真っ当に活用している。私のように不細工で欠陥品な人間は影でひっそりと生きるのが正しい道なのだ。そう、悲しい言い訳をする他ないのだ。

 そもそも私はなぜ狂ったのだろう。その原因すら分からなくなったのだから、もう手遅れも同然。


 君は誰なんだい。


 虚空に聞いたって、返事が返ってきたらそれこそ恐ろしい話だ。

 でも、私には確かに見えている。この目の先に私を見つめる君がいることを。君は、どんな顔をしているのかな。


 恋がしてみたかったのかもしれない。まだ若かった頃は夢に見たものさ。美しい女が、私の隣にいるんだ。そして愛を口にする。この世の生物が憧れる愛。

 もしかしたら、そんなものより信頼が欲しかったかもしれない。会社で上司から君にこの大役を任せたいと肩に手が置かれたのなら。これこそ夢見心地だ。君なら。君だから。こう、私の価値観を教えてくれるような言葉は聞いて悪い気はしない。むしろ、しあわせになれる。


 どうして私はこんなことを考えているんだろう。

 なんて、そんなの君は分かってくれるだろう。

 この体さえ貫きそうな強風は、私を最後に守る盾のようだ。それでも、この体はその盾を押しのけてしまうんだけどな。

 名も顔も知らない君。笑ってくれないだろうか。こんな愚か者を。狂った阿呆を。きっと救われると思うんだ。この異常者が、生きた証になると思うんだ。


 ──ああ、なんだ。笑ってないじゃないか。笑って欲しいと言ったのに。

 酷い人だな。やはり、悪魔なのかい。

 優しい人だと思ったんだ。だって、この話を聞いてくれているってことは、暇人か聖人かのどちらかだろう?


 良いんだよ。この廃れた世界に何も文句はないさ。ただ、そこに私が適合できなかっただけ。

 何億人といる世界でほとんどのヒトは正しく生きている。星の上で息をして、歩いている。


 素晴らしい世界だ。美しい世界だ。


 穢れた世界だ。


 見下ろせて、楽しかったかい?

 それなら、良かった。


 迷惑? そんなの考えてられないさ。私は異常者。不適合者。最後にこのくそったれな世界に迷惑をかけても良いとは思わないかね。


 最期まで共にいてくれた君にだけ、教えてあげよう。ヒトは、四秒の間にこんなにたくさんのくだらないことを思えるようだよ。

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