午前10時 その人は

 新学期が始まり、長い初週が終わった。

 月曜日から金曜日までの長い5日間をなんとか耐え向き、慶彦は家でだらけていた。

 ソファに横になってTVを見るという贅沢をし、その横では地べたに座りながらTVを見る深淵。

 本当ならばソファに座らせてあげようと思っていたのだが、TVを点けた途端に深淵が興味を示し、机にぶつかりコップを運悪く割ったため、あの位置にいる。

 反省しながらTVを見ているため、ある意味深淵も贅沢をしていた。

 1週間前ではこの生活が当たり前の状態だったと考えると、時が経つのは恐ろしいと感じた。

 午前10時

 見ていたニュース番組が終わり、バラエティ番組へとバトンタッチされる。

 番組のOPが流れ、早速と言った感じでゲストの紹介が始まる。

 俳優にグルメ評論家に博士に。なんとも色濃いメンツのゲストだった。

 ゲストの人達と10分ほどの雑談をし、とあるコーナーへと移る。

『星空の下、私の人生日記!』

 昼番組で夜の夜景を放映し、夜空の下でこれまでの人生を振り返るという趣旨のコーナー。

 自分達の下積み時代、成功までの道。様々な経験談を聞けることが好評のコーナーだ。

 実際、こういう経験談に興味があり、なおかつ役立つと思っているのが慶彦である。この番組を見ていて内心良かったと思う慶彦。

 TVの画面上では今、空を覆い尽くさんばかりの星空が広がっており、その絶景を楽しんでいるところだった。

 経験談の部分までまだ時間があるだろう。星空を見てあることを思い出した慶彦。

 そう、洗濯物を干さないといけないのだ。洗濯機から洗濯物を取りに行こうと立ち上がろうとしたその時、深淵がふいに口を開く。

「………来る」

 まるで、独り言を呟いたように小さくぼそっと言った深淵。

 何が来るのか。慶彦が聞こうと口を開きかけたその瞬間、ことは起こった。

 バリンッ!

 窓ガラスが割られ、何かが家に勢いよく入ってくる。

 バラバラとガラスが床にこぼれ落ち、一瞬暴風が家全体を吹き抜ける。

 家に侵入してきたのは黒い何か。

 それは、まるで先程の衝撃によって生じた痛みが去るのを待つように動かない。

 そして数秒後、ゆっくりと立ち上がる。

 深淵は険しい顔をし、それを睨みつける。

 立ち上がったそれは、なんと少女であった。深淵のように黒い服を纏い、髪は深淵のショートカットと違い膝辺りまで伸びていた。

 身長は120cmほどだろうか。見た目からもまだこの少女は幼いということを伝えてきていた。

 その少女は辺りを見渡し、深淵を見つめる。

 慶彦には目もくれない。目的は確実に深淵だと、慶彦は悟った。

「マスター、帰ろう」

 少女が口を開く。

 深淵はその言葉を聞いてより顔を険しくした。まるで、そう言われるのが分かっていたような、けれど、言われないことを期待していたような。

 少女はその冷静そうな表情を崩さず、もう一度言葉を並べる。

「マスター、はやく帰ろう」

 数秒の沈黙。運悪く延長コードのスイッチがOFFになっていたため、TVの画面は真っ黒だ。それ故に外から吹く微かなそよ風の音がよく聞こえた。

 そして、深淵は口を開く。

「…………ごめんね。それは出来ない」

 深淵は優しく断る。その目は先程と違い、哀情に満ちていた。

「マスター、どうして………」

 少女小さな声でそう呟く。もしも今いる空間にもっと雑音があったら聞こえないほど。それほど小さな声だった。

「私、一緒にいたい人を見つけたの。だから、戻れない」

 一緒にいたい。その単語を聞いて慶彦はドキッとした。自分のことを一緒にいたいだなんて言われたことは多少はある。しかしこの年になってしかも異性から言われるのら初めてであった。それ故に、場違いな感情を慶彦は抱いてしまった。

「どうして! マスターは、あんなに人間といることを……」

「黙って」

 一歩踏み出し、必死に深淵を説得しようとする少女。けれど、深淵の一言で少女は一瞬にして黙り込む。そこには今までに見たことがないほどの怒気を放つ深淵がいた。

 再び、沈黙が流れる。

 慶彦は、一体どうしていいのか悩んだ。

 彼女達の繰り広げる会話。その内容が何も分からない。

 帰ろうと言った少女。その少女が差す帰る場所とは一体どこなのか。深淵はどうして帰ることを拒むのか。そして、深淵はなぜ怒っているのか。

 慶彦には分からないことだらけだった。

 深淵と過ごすようになってから、既に2週間が過ぎた。

 その中で慶彦は深淵に対してほとんど、彼女についての過去を知ろうとしなかった。深淵も同様に慶彦の過去を知ろうとせず、お互いに今の状況が当たり前のように過ごしていた。

 些細な出来事で知り合った慶彦と深淵。2人はまるで親戚にいる家族のように仲良く過ごしていた。

 けれど、そこには今、明確に過去を知らないことの代償が浮き彫りになっていた。

 深淵になんと言えばいいのか。あの少女になんと説得するのが正解なのか。

 慶彦は悩んだ。そして葛藤した。今ここで自分が口を出すべきなのか。それとも2人の出す結論を見守るべきか。

 確実にのけ者にされている状態の慶彦。一体どうすればと逡巡しているその時、あの少女が口を開く。

「…………マスター」

 少女はうつむいた状態のまま、言葉を繋げる。

「私達の役割、それはあの山を守り続けること。………だから、ごめん。マスター」

 少女は右手を軽く振る。するとその手にはどこから取り出したのか、黒色の槍が握られていた。

「力の使い方、私はちゃんと教えたはずだよ」

 深淵が怒りを隠しながら少女に語りかける。

 力の使い方……。その言葉を聞いて慶彦は気づく。おそらくあの槍も、深淵が使っていた非人間技の一種だと。

 それで、どこからともなく一瞬で槍が手元に出現したのだろう。そう推理し、慶彦は危機を察知する。

 おそらく、このままあの少女は深淵と戦い始めるつもりである。帰らないと意地を張る深淵を強引に連れ帰るために。

「お前このままじゃ……!」

 慶彦は焦り、声を出す。このままでは最悪の展開になる。2人が戦い始め、どちらかが倒れるまで戦いは続く。それだけは、どうしても避けたかった。

「…………」

 深淵は何も言わない。それにその場から動かない。

 その様子を見て慶彦はより焦燥する。必死に頭をフル回転させ、あの少女が武器を手放す方法を考える。

 その時に見た深淵の顔は、少し焦っているように、悲しんでいるように、怖がっているように、そして何より、苦しそうだった。

 少女は槍を構え、真っ直ぐに深淵を見つめる。

「待ってくれ!」

 その仕草を見た瞬間、慶彦は反射的に声を出していた。

 慶彦による妨害が入り、少女は慶彦を見つめる。

「何考えてんだ! とっととその武器を捨てろ!」

 慶彦は怒鳴る。半ば本能的な言葉だった。

「………」

 少女は何も言わない。ただ、とても複雑そうな顔をしていた。彼女もまた、深淵同様苦しい思いをしているのかもしれない。

「お前にとって、こいつは大事な奴なんだろ! だったらそんなふざけた手段で連れ帰ろうとするのはやめろ!」

 あの少女が言っていた『マスター』。それはおそらく彼女なりの深淵のことを差す呼び方のはずである。

 だとすれば、あの少女にとって深淵は大切な人物であることに間違いなかった。

 だからこそ、2人を戦わせたくなかった。

 あの少女のことを、慶彦は何も知らない。それでも、友人同士である可能性が高い2人が互いを傷つけあうのは、絶対に見たくなかった。

「……だって……、だって……」

 少女の手から槍が落ち、少女は膝から崩れ落ちるようにして床に手をつく。

「……役割が………」

 少女はボロボロと泣き出す。床にシミをたくさん作っていく少女。

 急な展開に慶彦は戸惑う。

 深淵に助けを求めるべく深淵の方をちらっと見てみると、先程の変わらない様子の深淵がいた。

「……………」

 とりあえず、泣き止むのを待つことにした。



 それから数分後。

 ソファにあの少女を座らせ、その少女と対面するように深淵を座らせる。

 慶彦は見事粉々に割られたガラス扉をどうしようか悩みながら割られたガラスを集めていた。

 ガラス特有のジャラジャラという音を鳴らしながら回収する慶彦。外からは鳥のさえずりが聞こえるが、この時ばかりは少し鬱陶しく感じた。

「…………マスター」

 泣き止み、少しは落ち着いた様子の少女が口を開く。

「私は……どうすれば…いいの……」

 弱い声で、深淵に答えを求める。

「私は、帰らない。だから、あの山は1人で守って」

「でっ……でも」

 少女が戸惑い、それを口に出す。それは相当焦っている時に出る戸惑い具合だった。

「わがままなのは分かる。だけど、お願い」

 先程までと違い、威勢がなくなった深淵。けれどその代わり、深淵はしっかりとあの少女と会話をし、要求を提示するようになっていた。

 あの短時間で、深淵にもあの少女に対する態度への変化があったのだろう。今の深淵は穏やかな顔をしていた。まるで、余裕を取り戻したように。

「……私1人じゃ、力不足。山は守りきれない」

「………そうだよね」

 まるでお通夜のように黙り込む2人。折角上手い具合に丸く収まると思った矢先、これである。

 慶彦ははぁとため息をつき、口を開く。

「さっきから山とか守るとか、何の話なんだ?」

 状況がつい数十分前ならば聞けなかったであろう質問。今の空気感ならば、2人が互いに敵意を発していないため、大丈夫だと思ったのだ。

「そっか。慶彦は知らないんだ」

 この手の話題について1番情報を持っていない慶彦。すると、それにしっかりと気づいて深淵が説明を始めてくれる。

「あの山はね、私達の領地なの。だから光の者達に取られないよう守らなくちゃいけない。それで、ずっとこんな状態なの」

 領地。光。なんとなくで全てを察する慶彦。

 分かりやすくいえば、深淵と初めて出会ったあの山。あの山は深淵達の領地だから、守らないといけない。けれど深淵があの山にいない今、戦力不足で危機的状況。ざっとこんな感じだろう。

 光の者達。この世の中で、表があるから裏があるとはよく言ったものだ。闇側に属する深淵。そして未知の存在、光。

 人間社会と同じように、彼らも彼らで戦っていたようである。

 領地を広げるだか奪うだが、そんなちっぽけな理由でよく争い始めるものだ、と慶彦は思った。

 けれど、人間と深淵達は違う。きっと何かしらの、そっち側の事情というものがあるのだろう。

 それ故に、慶彦は今の深淵達が悩んでいることへの対策案を考えることにした。

 何個か方法が思いついたが、1番いいと思ったのは1つだけだった。

 慶彦は深淵を指差し

「お前がたまに山を様子見しに行けばいいんじゃないか? そしたら家にいれるし山の様子も見れる」

「それいい案。そうしよう」

 少女も手をパンと叩き慶彦に賛成を示す。

「えぇ〜面倒くさいよー。あそこまで行くの」

 深淵は不服を漏らす。

「山なんてすぐ行けるだろ? 行ってやれよ。あのガキのために」

「ん〜慶彦が言うなら………わかったよ」

 深淵は不満があるようだが、なんとか了承してくれる。

 その様子を見て慶彦と少女は安堵する。慶彦は問題が解決して。少女はいい代替え案のおかけで。

 負担は全て深淵にいくことになるが、あの少女との会話からして、深淵があの山から抜け出してきたような話し方だったのが、このくらいは我慢してもらうしかなかった。

 なんとかこの一件は解決し、話し合いで済ますことが出来た。

 この事実が、なにより慶彦には嬉しかった。

「契約成立。私は帰る」

 少女はソファからおり、ガラス扉の前に立つ。そして慶彦達に対して背を向けた状態のまま、言葉を紡ぐ。

「マスターが来るの待ってる。それと、またここ来る」

 バッと背中から漆黒の翼を生やし、飛び立っていく。

 まるで大型のカラスだな、と慶彦は思った。

 嵐のように襲来し、嵐のように去っていった少女。名前はなんだったのだろう。好きなことは? なぜ深淵をマスターと呼ぶ?

 知りたい、聞きたいことがたくさんあったが、その少女がいない今、それはまた今度の機会である。

 それよりも大切なこと。

 慶彦は深淵の方を振り向き、深淵の下まで歩み寄る。

「1人で抱えるなよ。お前のそばには、俺がいるんだから」

 いつもアホっぽく笑顔ばかりの深淵。けれど、今日の深淵は、出会ってから初めて見るつらそうな表情をしていた。

 そのことが慶彦は心配でたまらなかったのである。

 それだけ告げ、慶彦はその場を離れようとする。けれど、出来なかった。

「慶彦っ」

 慶彦が離れようとした瞬間に深淵が抱きついたからだ。

 突然のことで慶彦は困惑する。まさか、こんな展開になるとは思ってもいなかったのだ。

「私、怖いよ」

 慶彦に抱きついたまま、そう語る深淵。

 慶彦は抱きついている深淵の顔を見ることが出来ないが、深淵が泣いていることは、容易に察することができた。

「何が怖いんだ?」

 頭を撫でてやりながら慶彦は聞く。その時に、もしかすると深淵はさっきまで強がっていたのかもしれない、と慶彦は思った。

「現実を見るのが、怖いよ」

 いつも元気な深淵が弱音を吐くのを、慶彦は初めて聞いた。



 午後8時

 慶彦は自室のベッドで横になっていた。

 あの後聞かされた深淵の過去。それは慶彦にとって想像以上のものだった。

 深淵にとっての、あの山の存在。それはあの少女の言っていた通り、守り続けること。

 領地として手に入れたあの山を、他の奴らに奪われないよう、守る。

 深淵達が闇とするならば、その逆の存在、光。

 その光の存在達が度々領地を奪おうと攻撃を仕掛けてくる度に、深淵は戦って追い返していた。

 けれど、もともと戦うこと、争うことが嫌いな深淵は300年前に出来た弟子、暗黒。つまり今日ガラスを割った少女に全てを任せ、逃げ出してきたそうだ。

 逃げ出した回数はこれが2回目で、今回は約100年ぶりだという。

 そして深淵が逃げ出してきたその日、その時間帯に偶然慶彦と出会い、お試しという名の契約を結んだ。

 未だにあの契約が本当にお試しなのか、慶彦は知らない。

 そして逃げ出してきた約2週間。暗黒が深淵を連れ戻すために、ガラスを割って来た。

「はぁ」

 慶彦はため息をついた。まさか深淵にそんな壮絶な過去があるとは思わなかったのである。

 これから深淵はまた元気になるのだろうか。

 慶彦はそんなことを心配しながら、窓越しに見える夜空を眺めた。



 同時刻

 深淵は割られたガラス窓を渡り、外に出ていた。

 ベランダの手すりは鉄製で冷たかったが、吹いている風は優しく、気持ちよかった。

 点々と星が瞬く夜空を見上げ、深淵はふと思う。

 本当にこれで良かったのだろうか、と。

 彼女はまだ、言わなければいけない秘密がある。

 それは自分ではどうしようもないこと。

 最悪の場合、彼の命に関わること。

 だから言わなくてはいけない。伝えなければいけない。

 けれど、出来なかった。深淵には、それを言い出すことが出来なかった。

 おやつの時間まで話を聞いてくれた慶彦。彼にこのことも言わなければと思った。

 それなのに、出来なかった。

 それを言ってしまったら、彼の死を認めてしまうような気がするから。可能性を、潰してしまう気がしたから。

 

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