アドリア捜査3日目 過酷な張り込み

 今日から張り込み捜査を開始する。


 張り込みといえば、

 車中とか、

 物陰に隠れてとか、

 ボロアパートの一室を借りて……とか、

 不便な場所でターゲットの監視をおこなう過酷な捜査というイメージがある。



 だが、この張り込みはかなり快適な環境である。



 ホテルの一室だ。

 セミダブルなのであまり広くはないが、そもそもホテルとしての品位は高い。


 木造の柔らかい質感は部屋の狭さを感じさせないし、

 ベッドやソファの質は良いし、

 各種かくしゅ備品も丁寧に用意されているし、

 ルームサービスの対応も迅速で好感触。

 生活に不便することは何一つなかった。


 張り込みとしては、これ以上ないほど快適な環境。



 ……のはずだが、レオンにとっては苦境だった。



(ああ、くそ、だめだ――――っ、匂いがよすぎる!)



 干したての布団みたいに暖かくて、

 焼き立てのパンみたいに甘くて、

 もぎたての果実みたいに清々しい……、

 脳みそがほだされるような心地よい芳香。


 それでいて、体の芯が熱くなって、動悸がはやって、血がたかぶるような、

 いたずらに情欲をあおるセンセーショナルな幽香ゆうこう


 そんな捉えどころのない匂いが、狭いセミダブルの部屋に満々と広がっている。



 息を吸えば、安穏あんのん猥雑わいざつが同時にやってきて、体の中で喧嘩をする。


 少年の理性は、すでに満身創痍まんしんそういだった。




「――レオン、……ねえ、レオンってば!」


 肩を揺すられて、ハッと我に返る。

 シィナがムッとしながらこちらを見上げていた。



「もー、さっきからずっと呼んでたんだよ?」

「あ、ああ。悪い……、どうした?」


「もうすぐお昼だよ。どうする? ルームサービスでお食事頼む? それとも、どっちか部屋にのこって、もう一人が買い出しに行く?」

「そうだな……。買い出しに行こうか」


「ん。じゃあ、あたしが行ってこよう。レオンってば、なんか調子悪そうだ。あたしが買い出しに行ってきてやるから、レオンは部屋でゆっくりしてなよ」

「ちょ、ちょっと待て。俺が行ってくる!」


「え? でも……」

「大丈夫っ、大丈夫だから。任せてくれ!」


 せっかく気を利かせたのに……と不貞腐ふてくされるシィナをおいて、レオンはそそくさと部屋を出て行った。


 今は、一刻でも早く、外の空気を吸いたい。

 あのまま匂いに当てられていたら、気が変になりそうだった。




 ***




「はあぁぁ……」

 少年の深いため息が、アドリアの澄んだ空気に溶けていく。



 外に出ると、少女の甘い匂いにかわって、エルフ族特有のにおいが空気いっぱいに満ちていた。


 新緑を撫でるそよ風のような爽やかさと、古い木の根の土臭さがまじったようなにおい。

 この街に入ったときからひんぱんに感じていたにおいだ。



 ただ、いま改めてこのにおいを嗅ぐと、個人によってにおいの感じられ方が微妙に違う気がした。


 街全体にはエルフのにおいが一体となって満ちているが、すれ違うエルフ一人一人に意識を向けると、それぞれにおいが少し違う。



 やがてレオンはその傾向を掴んだ。

 肌の色や髪の色などでにおいの特徴に偏りがあるのだ。


 たとえば色白の肌で金髪のエルフは、やわらかい草木のイメージがつよく、ときおりピリッと刺激を感じるにおい。


 褐色肌で赤髪のエルフは、硬い土のイメージがつよく、奥深くにはどろっと濁ったような重みを感じるにおい。



 エルフにはいろんな部族があり、その血統によって肌や髪の色が異なっている。


 すなわち、レオンは今、エルフの部族ごとのにおいの差まで嗅ぎ分けられているということだ。

 以前はこんなふうに嗅ぎ分けることなんてできなかった。エルフはエルフとして、一種類のにおいとして認識していたのだが……。



(嗅覚が前よりも良くなってる……?)



 犬歯に、尾てい骨に、そして嗅覚。

 ここ数日で、自分の体に急激な変化がおこっている。


 このまま変化がすすめば、どうなるか……。

 レオンは不安でたまらなかった。




 ***




「一日、ホテルの裏口を監視してたけど、VIPな客はこなかったねー」


 すでに外は暗い。

 夜間のパーティだとしても、こんなに遅い時間に招待客を入れることはないだろう。マジックパーティがおこなわれるのは今夜ではなさそうだ。



「えへへ、お部屋でのんびりしながら張り込みできるなんてサイコーだ。ねえ、レオン?」


 くるっと振り返って、相棒に同意を求めるが、レオンは上の空で天井を眺めていた。


「レオン? おい、レオンってば」

「――え? あ、すまん」


「なんだよレオン、疲れてんのか? べつに疲れるようなことしてないでしょ、まったく。……今日は早く寝ようにゃ。ゆっくり休んでリフレッシュしろよ」

「あ、ああ……」


 しかし、ベッドに入ったからといってリフレッシュなんてできやしない。また夜通し、匂いに惑わされるのだ。


 昼も夜も。

 もはやレオンに安息の地はなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る