第2話 流れ流れて

「……………はっ」


 嫌な夢を見た。

 夢の中で私は見上げるほどの大きなクマに組み敷かれて、生きたまま食べられてしまうのだ。

 目が覚めたいまでも、クマがお腹に食らいついているシーンがスロー映像のように頭の中で再現できる。

 

 どれだけ叫んでも手で顔を叩いてもクマに私の意思が伝わることはなく、おもちゃのように噛みつかれて引きずり回され、食いちぎられたお腹からはグロテスクな何かがこぼれ出し………………うーん、気分が悪くなってきた。もう忘れよう。

 

 それにしても、いつのまに眠ってしまったんだろう。よほど寝相が悪かったのか、服が脱げかかってお腹が丸出しになっている。おまけに裾がほつれて穴が空いていた。踏んだり蹴ったりだ。

 起き上がって服を整えていると、すぐ近くからゴロゴロという地鳴りのような音が聞こえた。目をやると、そこにクマがいた。

 

「………………夢……ですよね……」


 顔から血の気が引いていくのが自分でもわかった。恐怖心のせいか、目の前のクマは夢で見た姿よりもさらに大きく見える。

 いや、あれは夢だから関係ないはず。でも、これはたぶん夢じゃない……。ほっぺをひっぱると、にょんと伸びた。痛い。

 

 幸い、というべきか、クマはいびきをかいて眠っている。いまのうちに遠くに逃げれば大丈夫……大丈夫なはず。

 私は足音をたてまいと慎重に足を運んだ。足元がよく見えるので、小枝をパキッと踏み鳴らすようなドジはしない。

 クマと離れたくて真っ直ぐに歩く。どこに向かっているのかなんてわからない。

 空には変わらず真っ青な月が輝いている。



「ふう……」

 

 だいぶ歩いた。

 もうクマに見つかる心配もないだろう。大きな木の幹に隠れるようにしゃがみこむと、どっと疲れがわいてきた。

 休んでいると、鳥や虫の声にまじって雨のようなざーざーという音がかすかに聞こえる。水の音だ。近くに川があるのかもしれない。

 

 少し休んでから重い腰を上げて、音に向かって歩いていく。

 やがて、森が途切れて大きな川に突き当たった。水量は多く流れも早い。

 あたりは轟音のような水音に包まれている。川の流れの先に目を向けると、途中ですっぱりと切れたように遠くの景色が見えた。すごい音が聞こえているので、滝になっているのかもしれない。

 私は川のそばまで近づいて手をひたしてみた。

 

「つめたっ」


 水の冷たさはしびれるほどだった。手ですくって飲んでみると、その冷たさが疲れた体にしみわたる。もう一口飲むと少しだけ元気が回復したような気がした。

 

「この水、すっごく美味しい……!」


 もう一口、もう一口と、水をすくう手が止まらなくなる。喉が乾いているわけでもないのに、飲んでも飲んでも飽きがこない。美味しい水だ。

 夢中になって飲んでいると、水の轟音をかき消す地鳴りのような音が後ろから聞こえた。

 なんだろうと思って振り向いた。森の中から真っ黒な影が私のことを睨みつけて唸っている。

 

 あのクマだ……! 私を追いかけてきた? どうして。

 後ずさろうにも、後ろには急流が流れている。逃げ場がない。

 どうしよう、なんて考えている間もなく、クマは私めがけて突進してきた。

 

 恐怖が全身をかけめぐる。なぜか既視感があった。このあとに起きることが私には想像できる。いや、覚えている。

 夢で見た光景がフラッシュバックする。巨大なクマにおもちゃのように転がされ、抵抗も虚しく生きたままお腹を食い破られる――

 あれは夢? それとも現実?

 

 確かなのは、いま私が追い詰められているということだ。このまま動かずにいたらクマに捕まって食べられてしまう。

 逃げなきゃ。どこに?

 迷っている暇なんてない。

 私は激しい川の流れに身を投げた。身を刺すような冷たさに全身の肌がぎゃあと悲鳴をあげる。流れも早すぎて泳ぐどころじゃない。それに、クマからは逃げられたけど、この先はきっと――


 上流で激しい水しぶきが上がった。クマが川に飛び込んできたのだ。黒い巨体は水に流されることなく、川底に足をつけて走って向かってきた。

 嘘でしょ!?

 こっちは溺れないようにするのが精いっぱいなのに、前方には滝、後方にはクマが迫ってくる。どっちに行っても絶体絶命だ。

 けど、滝のほうがクマよりはマシ!

 

 なにもわからないけど、一か八か、滝に向かって少しでも泳いでいく。

 やがて激しい水しぶきのあがる川の切れ間が目に入り、私は流れる水とともに空中に放り出された。

 やった、クマから逃げ切った!

 

 落ちていく私の目に、まぶしい光が飛び込んできた。はるか遠くにそびえる山の向こうから朝日が昇り始めている。眼下の森や川に光がさして、きらきらと輝いてみえた。

 

「きれい……」


 思わずつぶやいたものの、私はその間も落下し続けていた。とんでもない高さの滝だったらしい。感動してる場合じゃなかった。

 地面がだんだん近づいてくる。真下は湖のように広い滝壺になっているけど、すごい高いところから落ちると下が水でも助からないって聞いたことがある。

 運を天に任せよう……。

 

 私は空を見上げた。日の光に照らされた水しぶきの中に虹が見えた。

 

 

 

 

「ぷはっ」

 

 生きてる!?

 水面から顔を出して息を吸った。川の中にいる。とんでもなく水の流れが早い。渦にまかれるみたいに水底に引きずり込まれた。

 洗濯機の中にでもいるみたいだった。上へ下へと水流にもまれて腕を動かすことすらままならない。

 

「っ!?」

 

 川面に突き出した岩にぶつかった。硬い岩がお腹にぐにっとめり込んで、せっかく吸いこんだ空気を残らず吐き出した。痛みよりもなによりも、息のできない苦しさに気が遠くなる。

 水が口から流れ込んできた。苦しい……! 空気、空気がほしい。

 光が見えた。上へ、手をのばす、もうすぐ――水面に――

 

 

 

 気がつくと私は水面にぷかぷかと浮かんでいた。

 頭上に青い月の光が見えた。いまは夜なのか。ずいぶん流されてきたみたいだ。

 川の流れは穏やかになっていた。これなら泳げる。ただ、青一色に染められた世界では、どこまでが川なのか陸地までの距離がつかめなかった。

 

 私は力をふりしぼってまっすぐに泳いだ。岸辺にたどりついたころには精も根も尽き果てていた。水にぬれた服と髪の毛がやたらと重たくて、地面にうつ伏せになって倒れ込む。

 水中で冷え切った体には、地面の小石すら温かく感じられた。

 

 

『――――』


 ぼんやりとした意識の中、誰かの声がかすかに聞こえた。

 音がくぐもって、何を言っているのかわからない。体を揺さぶられている。手足が動いてくれない。

 やがて体が持ち上げられた。どこかに運ばれてるみたいだ。触れたところがとても温かくて、私は気持ちのいい眠りに吸い込まれていった。

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