モブくん、わたしをはなさないで。一緒にいて。

夕日ゆうや

第1話 離さないで。

 雨降りしきる五月の春空は、厳しい空模様をしていた。

 校舎の屋上。

 俺は彼女の手を捕まえてはなさない。

 屋上の端で彼女が飛び降りた瞬間、俺はそこにいた。

 すぐに手を伸ばし、彼女の自殺を止めるため、彼女の手をとった。

「はなして! わたし、もう嫌だ。考えたくない」

 雨と一緒くたに落ちる静かな雫は彼女の頬を塗らしていた。

 紫紺の瞳、薄紫な髪を肩口で切りそろえた相川あいかわしずく

 美少女と言っても差し支えのない顔立ち。

 性格は大人しく、陰キャな分類になるだろうが、悪くはない。

 引っ込み思案なところも彼女なら美徳としてとらえられる。

 一歩引いた奥ゆかしい文学少女。

 そんなイメージが先行する。

 だが、そんなイメージも男子がつけたもの。

 女子からしてみれば、嫉妬の的になる。

 事実彼女は友だちがいない。

 友だちの彼氏を奪うから、らしい。

 男の身としてはそもそもそんな奴と付き合うな、と言いたいが。

 俺とて、そのを傍観してきた身。

 今更手を差し伸べるなんて、馬鹿げたことだ。

 見て見ぬ振りをしていた結果がこれだ。

 相川を自殺まで追い込んでいた。

 しっかり、彼女の傷をえぐってきたのだ。

 そんな俺も同罪だろうが、少しでも希望を持って欲しいとも思う。

「そうだ。今度、相川さんの好きなところにつれていく。だから離すな!」

「いや。わたしは誰とも関わりたくない。みんな嫌い!」

 すでに集まっている野次馬どもは手伝う気はないらしい。

 屋上の端。

 しかも雨の中、彼女の命をつなぐのは俺の両手だけ。

 相川の右手だけでつながっている命。

 このままじゃ。

「わたし、生きている価値なんてないもの」

「そんなことない! 俺は、俺は……相川さんの素敵なところを知っている」

「そんなはずない。わたしは自分が嫌い。もう死なせて」

「何言っているんだよ。毎朝早く来て、水槽の水を替えたり、勉強をしているだろ!」

「……! はな、さないで……!」

 俺は知っている。

 相川の魅力を。

 彼女に惚れた腫れたがあったからこそ、彼女を助けたいと思ったのかもしれない。

 後悔している。ここまで彼女を追い込んでしまったことに。

 雨と汗で手が滑りそうになる。

 なんとか引き上げようにも足に力が入らない。

 このままでは彼女どころか、自分の身も危ない。

 救急車の音やサイレンが鳴っている。

 野球少年である強羅ごうらくんから告白され、さらにいじめが酷くなったと聞く。アイドルのような強羅だったが、告白して失恋した。

 そんな姿を見て、相川はワガママだ。強羅くんが可哀想。

 そんな乱雑な言葉ばかり並べるバカどもが多い。

 だが、相川には彼との接点がなかった。フラれて当然だ。

 アイドルだかなんだか、知らないが、それを好まない人も多い。

 それがなんだ。

 じわりと涙を浮かべる相川。

 もう泣き腫らしたと思っていた瞳が再び揺れる。

 つるっと、手が滑って相川の右手が抜ける。

 下に待機していたレスキュー隊がネットを広げ、小さく華奢な相川を受け止める。

 ほっと安堵し、俺は身体の力が抜ける。

 身体が滑りそうになり、ヒヤリと肝を冷やす。

 どうにか持ちこたえて、屋上の中程に進む。

 死ぬところだった。

 その言葉を噛みしめて、俺は急いで中庭に向かう。

 相川のいるところに向かう。

 彼女がどうしているのか、生きていることを実感させたい。

 そう思った。


 野次馬を駆け抜け、俺は一階にまで一気に下る。

 雨粒の霧が晴れて、視界がクリアになっていく。

 雲の切れ間から差し込む陽光が、淡く突き刺すように降り注ぐ。

 俺は見えてきた救急車に向かう。そこには相川の姿が見えた。

 ネットで受け止めたあと、暖かいお茶を受け取ったらしく、相川は今も泣きながら飲んでいる。

「相川!」

 俺はその頬をビンタする。

「こら。止めなさい!」

 救急隊員が慌てて止めに入る。

 何をされたのか分からないといった様子の相川。

「お前、死んだら痛いもないもないんだぞ。生きているから、痛みも、喜びもあるんだろ!」

「こら、刺激しない」

 じわりと瞳が滲み、ワンワン泣き出す相川。

 ふわふわな髪が今は雨で濡れて綺麗な頭の形にそっておろしてある。

「あなた、名前は?」

 相川の声と分かると、俺は顔を上げて、にこりと笑みを浮かべる。

「俺は石田いしだしん

「また、学校で」

 小さく呟くと、救急隊につれていかれる相川。

「君、屋上で助けてくれた子だね。事情を聞きたいし、怪我も酷い」

「え?」

 俺は自分の身体を見て、驚く。

 血が滲み、擦り傷がいくつもある。

 救急隊に連れられ、俺も病院に向かうことになった。

 海里みのり先生が青ざめた様子で駆け寄ってくる。

「私も同席します」

「しかし、先生」

 救急隊は苦い顔をしている。

「いいでしょう。私の生徒ですもの」

「はい」

 そう言われてしまえば、何も言い返せないのが救急隊の痛いところ。

 救急車が発進すると、海里先生は俺を見て微笑む。

「すごかったわ。よくやったわね」

「別に……」

「石田君は無口で、なよなよしたイメージがあったけど、ごめんなさい。そんなことなかったわね。私、信じていたわ」

「やめてください」

 俺は褒められ慣れていない。

 それは俺のやや複雑な事情があるからだ。

 だから余計に干渉してくる先生もいる。

 病院に着き、海里先生はすぐに相川の元に駆け寄る。

 午後の授業は全部おじゃんか。

 内申点をとって大学に行きたかったが、こんなことになれば授業には出られまい。

 内申点下がらないといいのだけど。

 まあ、サボりじゃないし、人の命には変えられないか。

 自分を納得させると、俺は治療を大人しく受ける。

 絆創膏を幾つか貼り終えると、相川の姿を見ようと医師に相談する。

「刺激しないようにしたいのだが……」

 困ったように眉根を寄せる医師。

「俺は彼女の無事を確かめたいだけです」

「でも彼女の精神状態は良くない。極度の萎縮と、精神不安がある」

 それを聞いてますます青ざめていく。

「今日のところは帰った。保護者を呼んでいるから、あとは先生たちに任せない」

「……はい。分かりました」

 俺は渋々、承諾する。

 病院の待合室で待つこと数分、施設の者がやってきた。

 両親に捨てられた俺には行き場がなかった。

 だから施設に引き取られ、ようやくまともな教育と生活を送れた。

 そんな俺でも誰かの役に立ちたい。

 人としての尊厳を頼りに生きてきた。

 捨てる神あれば拾う神あり。

 とは言うものの、自分が他よりも劣っていると思える。

 命は平等と叫ぶ者の言葉も分かるが、事実として命には格差がある。

 俺がそうであるように。相川がそうであるように。

 命の重さには違いがあり、それに沿って生きていくしかないのだ。

 でも叫ぶことで平等に扱う価値感を養うことができる。

 それに関してはありがたいと思っている。

 望まれて産まれたわけではない俺が、望まれて産まれた彼女を助けたのだ。

 ようやく俺は彼女と同じステージに立てた気がする。

 相川がこれからどんな道を歩むのかは分からないが、俺は応援していこうと思った。

「お疲れ様。よくやったね」

 みんなのお母さんである仁美ひとみさんが駆け寄ってくる。

「まあ」

「今日はなんでも食べたいのでいいよ」

「じゃあ、野菜炒め」

「遠慮しなくていいのに……」

 仁美さんはふくれっ面を浮かべて、前を歩く。

 言葉なくとも言いたいことは分かる。

 車で迎えに来てくれたのだ。

 ありがたい話ではある。

 こんな俺に価値を見いだしてくれたのだから。

 人は誰かに支えられなければ生きてはいけない。

 何かを信じてなければ生きてはいけない。

 それは人によって様々に違う。

 宗教、両親、友だち、恩師、科学。

 様々なものを信じて、正しいと思うからこそ、人の多様性も産まれるというもの。

 俺だって友だちはいるし、仲間もいる。

 だから俺は頬を伝う雫をぐっと指で拭うのだった。


 明日は相川に会いに行こう。

 そして自分のことを許してもらおう。

 彼女からしたら、名前も知らないモブだったのだかもしれないけど。

 それでも伝えなくちゃ変わらないこともあるから。

 一人、救えればそれで俺はまた頑張れるから。

 また生きたいと思えるから。

 満点の夜空が広がるこの光景を、彼女も見ているのだろうか。


 その夜。

 学校では臨時の保護者集会が行われ、仁美さんも出席したそうだ。

 俺は施設で仲間とゲームをしていた頃だ。

 警察も乗り出したと聞いたが、俺には実感のない話だった。

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