ほんとうは悪役なんてひとりもいなかったグリム童話
星宮ななえ
第1話 アジャラカモクレン (死神の名付け親)
なんだよ死神。
お前、まだいたのかよ。
言ったよな。
俺がここまで来たのはお前のおかげでもあるけど、俺の力でもあるって。
あぁ、そうか。
憎しみのが優ったのか。
なら仕方がない。お前の好きにすればいい──。
俺が生まれ育った家は、そりゃぁお世辞にも口が裂けても裕福とは言えない。しみったれた田舎町の片隅で商われている、金を稼ぐセンスのひとつもないオンボロ自転車屋だ。
「うちは、自転車操業の自転車屋だからな」
と、くそつまらない冗談のようなことを本気で言っていた父。
なぁ親父。それはな、無計画だからだと思うぞ。
情が最優先の安い工賃で色々と請け負ってよ、大安売りのサービス精神もいい加減にしろ。しかもこれまた無計画に子供ばっかりぽんぽん作りやがって、六人兄弟だなんて笑えない。それだからいつだって金なんて無くて、親父もお袋も昼夜を問わず働き詰めだってのに、腹一杯飯を食べることだって出来ないんじゃないか。
ほら、お袋の手を見てみろ。真っ黒でひび割れだらけだ。
親父は——負け犬ってやつだな。
そんな負け続きの人生なんて俺は真っ平ごめん。幸い俺は頭がいいから、ちゃんと勉強をしてさ、奨学金でいい大学に行って、パリッとしたスーツでも着て安泰の一流企業にでも勤めるさ。
なぁ親父。そうしたら、その金でうまい焼肉でも腹一杯食べようぜ。
それでお袋にも高級のハンドクリームと、いい服と靴も買ってやるんだ。
楽しみにしててくれよ。
だから俺は毎日必死で勉強をした。そのおかげで成績はいつも学年でトップだったし、全国テストでも五本の指に入るくらいだった。
自転車屋の三男坊は、この町で一番の利発な男だって、町民からもてはやされたもんだよ。そんな息子を持って、親父もお袋も鼻が高かったことだろう。
でも中学に上がったばかりの頃、俺は突然、親父に頭を下げられた。そしてこう言われた。
「養子に行ってくれないか」
養子、だと……?
俺は、全く意味がわからなかった。
どうして俺が。
話を聞けば、どうやら少し前から、俺のこの明晰な頭脳を買いたいと子供がいない遠縁の親戚夫婦が、どうか養子縁組をさせてはくれないかと申し出てきていたそうだ。その家は先代から病院の経営をしているのだけれど、後継ぎがいなくて困っていたんだとよ。
その頃、相変わらずの自転車操業な我が家は、ついには足を出し始めていた。そんな現状だから家計を支える為にと兄貴たちは、大学に進学はせず早々と働きに出ていた。
——そうか、養子先のその家は、金は腐るほどある家だから、俺が養子に行くのなら少しくらい援助もお願い出来るだろう。そうしたら弟たちも少しばかりは楽できるかもしれねぇな。
わかった。それなら俺も一肌脱ぐしかねぇ。
でも、情けねぇ。
情けねぇよ親父。
あんた、子供を売るのかよ。
まぁ、いいさ。俺も男だ。甘えたことなんて言わねぇ。
俺は言われた通りにその親戚の家の養子になり、家を出た。
それからは、勉強勉強勉強……本当に毎日勉強しかしてねぇな。他の思い出なんて何もねぇや。とにかく俺は、他人様の家で、やけくそ気味に勉強をした。
なにしろ俺は、何がなんでも医者にならなくちゃならない。
まぁ、俺なら無理なことじゃなかったよ。
俺は無事に医大を出て、医者になった。
親父にそれを報告しに行くと、目を赤くして喜んでたよ。
「人様の為に立派に働くんだぞ」
だってよ。馬鹿みてえ。
しかし医者って、思っていたよりも体力も気力もいる仕事なんだな。
すっげぇ忙しいし、神経も擦り減る。みんなよく平気な顔でやれるよな。頭おかしいんじゃないか?
まぁ、そりゃそうか。人の生き死にを決めちまうようなもんなんだから。おかしくなきゃやってられない。辛い仕事だよ。
ある日、同期のひとりが俺に言う。
「そのうちな、死神が見えるようになるらしいぜ。そうすると少し楽になるってよ」
何言ってんだよ、こいつ。ほら、やっぱり医者って頭おかしい奴ばかりだろ。
でも、そいつの言ったことは嘘じゃなかった。
暫くすると、俺にも死神が見えるようになったんだ。
青白い顔をして、正気のない虚な目。そんな気味の悪い奴がいつでも俺と一緒にいるようになった。
それでそいつは、死神だけあって人の生き死にが見えるから、俺にそれを教えてくれるんだわ。
確かにそれからは少しだけ、日々の業務は楽になったよ。
何故って?
まぁ、俺の担当した患者が死んでも、最初から死ぬのがわかっていれば、そういう運命だったと——仕方がなかったんだと思えるからね。
だから死神とバディを組んでからの俺は、深く気滅入ることもなく、淡々とした日々と過ごしていた。
全ては死神が決めたこと。俺に責任はない。
そんなある日のこと。
まだ若い、十六歳の少女が俺の担当患者になった。死神に聞けば、どうやら、その少女は死の運命だ。
しかし、そうだとわかっているのにその親が、何度も何度も頭を下げて、娘をどうにか助けてくれと俺に懇願してくるんだ。
そりゃぁ、俺も出来ることなら助けてはあげたいさ。
でも死神は、頑なに首を横に振る。
お前が言うなら仕方がないさ。
こればかりは仕方がないことだよ。
「私どもが出来ることは、もう何もありません」
俺が無機質にそう言うと、途端に少女の両親から罵詈雑言が飛んできた。
「あんたには血も涙もないのか! 人でなし!」
人殺し、とまで言われたよ。いったいどういうことだろうな。
必死で勉強して努力して、俺は人殺しになったのか?
あぁ、全くやっていられない。
なぁ死神。人間の世界ってのは見ての通り大変なんだよ。
わかってくれるか?
いや、わからなくてもいいさ。
ほとほと、俺は医者という職業に対して、精魂尽き果てていた。
慌ただしい毎日。洪水のように押し寄せる患者。淡々とこなさなければならない山のような業務。
ふと、のんびりとした時間が流れていた田舎の自転車屋を懐かしく思っていた時——ちょうどそんな頃のこと。
親父が、俺の病院にふらりと訪れた。
何年振りだろう。親父は、なんだか少し小さくなっていて、目尻の皺がだいぶ深くなったようだ。
「よう。今日は検診に来たんだよ」
聞けばどうやら、暫く前から胃が酷く痛むのだという。
痺れが切れたお袋に「いい加減、病院に行ってきてください」ときつく言われて、病院嫌いの親父が、しぶしぶ診察をしにきたのだ。
「元気にやってるか?」
そう聞く親父の顔の方が、酷くやつれていた。
親父の検査結果は、癌だった。
もう、だいぶ進行してしまっていた。
死神は言う。
「こいつはもうだめだね。手の施しようがないよ、諦めな」
瞬間、湯沸かし器の如く俺の頭に血が上るのが面白いほどわかった。
──おまえ、ふざけるなよ。何の為に俺は今まで、今も、医者をやっているっていうんだ。
俺は諦められなかった。
だから初めて、死神の忠告を無視した。
「俺が絶対に治してやる」
俺は親父の治療に、ありとあらゆる色々な手を施した。
親父はその間、体を切り刻まれて、意識朦朧とし、薬を飲んでは苦しんだ。
「立派になったなぁ」
その間も譫言のように親父はその言葉を幾度も俺に言う。
ふと気が付けば、俺の目に映るのは様々な治療をして体力をすっかり奪われて、力なくベッドに横たわる骨と皮だけになった親父の姿。
「なぁ、俺はもういい……。その時間で他の誰かを助けてあげてくれ」
親父は弱った体で、そう俺に伝えた。
いや、もうやめてくれと懇願していたのだ。
俺は、その言葉にゆっくりと頷く。
それは俺が初めて聞いた、親父の我儘でもあった。
俺は親父の意思を尊重して、治療をやめた。
そのあと親父に残された時間は、ごく僅かだった。その僅かな時間も、体力を奪われた親父に出来ることは、ただベッドから窓の外の空を見上げるだけだ。それでも親父は言う。
「お前の仕事を見ながら、こんなにゆっくりしていられるなんて、贅沢だなぁ」
それからすぐに、親父は死んだ。
死神は、怒っていたよ。
「ほら見たことか。どうせ死ぬなら楽に死なせてやればよかったんだ」
己の我儘で、わずかな灯火を消さないことだけに縋り付いて、親父を苦しめたのだと。
親父の四十九日も終わった頃。
俺は、ひどい不眠症に悩まされていた。
死神はあれからずっと俺に怒っている。
俺は死神に尋ねる。
「まだいたんだな。もう俺のことなんて見限ったのかと思っていたよ。わかってる。お前は俺を憎んでいるんのだろう?」
死神は無表情のまま、ただ佇んでいる。
そうだな。何も言わないのが答えだ。
あぁ、もうすぐ夜が明ける。また一日が始まる。
もうやめてしまいたい何もかも──
「俺は負けたんだな」
そう呟くと一瞬、死神が笑った。
あぁ、わかっている。そっちに行くのは簡単なことだ。だから、もう許してくれ。
俺を許してくれ——
その時、唐突に携帯の着信音が鳴り響いた。爆音で響くその音に、俺は我に返る。
うるさいな……こんな時間に誰だよ。
液晶画面に目を向ける。
相手はお袋だった。
「はい……なに、こんな時間に、どうしたの?」
お袋は、どうやら「頭が痛い」と言って、俺に助けを求め連絡をして来たようだった。こんな時間に電話をしてくるのだから余程のことだ。
「頭が痛い? どんなふうに?
……わかった。今すぐ行く。落ち着いて、玄関の鍵を開けて待っていてくれ」
返答を聞いて、嫌な予感しかしなかった。
案の定、家に着くと、すでにお袋は倒れていた。
──もうやめてくれ!
死神よ。俺より先に、お袋まで連れて行かないでくれ。
俺が悪かった。俺はお前に全てを押し付けていた。
死神よ。俺はどんな罪も受け入れる。心から謝罪する。
だからもう、俺の前から消えてくれてもいい。
お願いだ。どうにかお袋だけは、俺の手で助けさせてくれ。
その日。俺はお袋を病院へと運ぶと、死神の顔を見ることもなく、すぐに自らの手で手術をした。
「さぁ、火を消して」
俺は蝋燭の火をふぅっと消す。暗闇。からの陽気な音楽。
「お誕生日おめでとう! パパ」
娘が小さな手で拍手をする。
妻が、せっかくだから記念の写真を撮ろうとカメラを構える。
「おばあちゃんも一緒に!」
お袋の手を娘が引く。
お袋の手術は成功した。くも膜下出血だったが、対応が早かったおかげで助けることができた。後遺症もほとんどなく、経過も順調だ。
お袋は手術後、意識を取り戻すと俺にこう言った。
「助けてくれて、ありがとう」
俺は首を横に振る。当たり前のことをしたまでだ。
「ちょっとだけ、三途の川でお父さんとあった気がするわ」
お袋はそんなことを言って、ふふふ、と笑う。
「ずっと、言うなって言われてたんだけどね。お父さんあなたの将来を案じて苦渋の決断で養子に出したのよ──。あなたはとても賢い子だったけれど、うちでは、いい教育を受けさせてあげられないから」
俺はただ、黙って頷く。
「いつも自慢してたわ。俺の息子は、賢さを人の為に使える仕事に就けて、大したものだろうって。人の生死を任される、とても辛い仕事だけれど、人の為に頑張ってるんだって。だから私も、そのおかげで助かったわ」
そう言うと、お袋は俺の顔を優しく包む。
「でもあなた、ずっと顔色が悪い。まるで死神みたいな顔をして。とても疲れているのね。あなたも少しは休みなさいね」
俺は迂闊にも、お袋の前で子供のようにわぁわぁと声をあげて泣いてしまった。
お袋はそんな俺の頭をそっと撫でた。
「人の為に生きて、人の為に尽くす──。それが自分とっての救いにもなる。お父さんがよく言っていたわ」
俺は負け犬どころか、勝負すらしていない臆病者だった。
目の前で消えていく命に対して目を背けて、ただ逃げていた。生と死に向き合うことをずっと避けていた。
俺が診ていたのは病気だけで、患者のことなんて見ていなかったんだ。
本当はこんなに情けない息子なんだ。悪かったよ、親父。
でもこのままじゃ、あの世で会っても顔向け出来ねぇ。
だからせめて俺の灯火が消えるその日までは、力の限り救える命を救い、生き抜くことにする。
きっとそれが、灯火が消えてしまった多くの者への弔いにもなるだろう。
その日、妻の撮った写真に死神は写っていない。
俺にそっくりなあいつは、いつの間にかいなくなっていた。
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