3-バスに揺られて

「先に帰る」


 修司は背後を振り返って言う。と同時に停留所にバスが滑り込んできた。


「お前目当ての子がたくさん待っているんだぞ」

「おい、マジかよ」


 彼らが驚いた顔で修司を呼び止める。


「用事を思いだした」


 修司は彼らに言い捨てた。彼は朝好の傘を奪い、自身のと同じように閉じた。雨で服が濡れるのを厭わず、卒業式の日みたいに、朝好の腕を掴んでバスに乗り込んだ。


「本当に行くつもりなの」


 大股で前を進む修司の広い背中に問いかけた。車両は奇跡的に空いていた。修司が一番後ろの席で立ち止まり、強引に朝好を窓際の席に座らせる。彼が隣に腰を下ろし、朝好にだけ聞こえる声で言う。


「あんなの行く気なかったからお前がいて丁度良かった、ああ疲れた、もうこれ以上聞くなよ」

「わ、分かった、黙ってる」


 バスが発車した。車窓が流れていくと、道に立ち尽くした同級生達の呆然とした顔が通り過ぎる。悪いことしたと言う思いと、修司を独占できる喜びに、朝好は少しだけ口元を緩ませた。

 朝好が沈黙すると、隣で修司が大げさなため息を吐いた。


「俺の質問くらいは答えろ、俺が話せと言ったら口を開けろ」


 修司に視線を移し、朝好は必死に頷いた。無茶苦茶な注文に不平を鳴らしたいのに、修司の機嫌が悪くなさそうだから、それだけのことで一喜一憂してしまう。


「どこに住んでる、お前、東京の大学に行ったんだろう、俺もここを出て東京にいる」


 朝好が自宅のアパートの最寄り駅を伝えると、「俺と近いじゃん」と修司の口角が上がった。


「なんで今日ここに来た、ずっと、ぼっちだったくせに」


 修司はこちらを見ずに前方をぼうっとした顔で眺めていた。その横顔を朝好は食い入るように見た。いまだけは許してください。と、朝好は頼りなく声を下げた。


「えっと、親から今日は帰ってきなさいと言われたんだ、この後実家に帰る、親がご馳走作って待ってくれているから、もう逃げ場はない、本当は帰るのが嫌だった、でも参加したという既成事実を作らないと親を心配させるから」

「なにが嫌だったんだよ、どうせぼっちが恥ずかしいだけだろう」


 修司は口を開けば朝好を傷つける言葉を吐く。


「一人はいいものだよ」

「そういうのは虚勢を張るって言うんだ」


 それだけは修司に言われたくない。朝好が反論すると、修司は倍にして反撃してくる。昔から変わらない彼の手厳しい言動に、朝好は呆れ果てた。


「なんで一人でいたら駄目なんだ」


 朝好が言い返した。修司が物珍しそうに眉を上げた。


「恋人の一人もできないだろう」

「そうだね……時折寂しくなる」


 一拍置いて、修司に肩を小突かれる。その衝撃に、彼からの接触に、朝好は息をするのも忘れた。


「お前、童貞だろう」


 修司は下品だし、不躾な男だ。


「野崎くんには、どうでもいいだろう」


 朝好が突き放すと、修司は雨で濡れた髪をかきむしる。


「ふざけるな……」

「ごめん、言い過ぎた」


 朝好が訂正すると、修司は子供みたいに機嫌を直した。


修司はどうして自分に付き合ってくれているのだ。会話を途切らすことなく、朝好の歩調に合わせてくれる。そんなことをされたら、今度こそ勘違いしてしまうではないか。目的の駅に着くのはまだ時間があるのに、もっと道が渋滞して、バスが遅れてほしいなんて願ってしまう。


「お前は人付き合いが下手だからな」


 修司とは久しぶりに再会したのに、まるで昨日別れたみたいに、空白の時間を感じさせない。


「なんで、僕のことを知っているの」

「ぼっちの特徴だろう」


 修司はコートのポケットに手を突っ込み、腰をずらす。彼の履く革靴の先端が、朝好の靴に触れる。


「一人でいる人が皆そうだとは思わない、それが快適だからだよ、でも僕はたまに人恋しくなる」


 朝好は自分の張り詰める心臓の音をうるさく感じた。修司は足をどかさなかった。


「自分勝手だな、好きなときに構ってくれとか、それで相手にされず人のせいにするんだろう」


 今日の修司はよく喋る。


「僕は人を傷つけるくらいなら一人を選ぶ、それがエゴでもね」


 修司は鼻で笑う。

 それを朝好は静かに見つめた。これだけ朝好が見ているのに、目障りだと怒られないのが不思議だ。


「来るの遅かったんだな」

「あんまり早く行っても開場まで外で待たないといけないから、二つ離れた駅前でゆっくりしてた」

「開場前ギリギリでお前が入ってきたから、余計に目立っていたぞ」


 馬鹿かよ、と修司が言う。


「もういいよ、過ぎたことだし」


 朝好は手持ち無沙汰だったから、シートに両手を置いた。

 修司がおもむろにポケットから手を出し、朝好の手の甲に触れさせた。彼の湿った肌触りが懐かしい。また触るなと怒られるから、朝好は手を引っ込めようとした。


「俺のこと、少しは思い出したか」


 修司に手首を掴まれる。

 それだけで朝好は、目の奥から突き上げてくるものがあった。前歯を重ねて顎に力を入れたのに、頬が涙で濡れた。彼の太ももの上で手を絡めた。それが何を意味するのか、彼が何を求めているのか理解できない。それでも、あまりのうれしさで手を振り回したくなった。


「馬鹿みたいだとか笑ってもいい、友達にも言い振らしてもいい」


 朝好は一息吐いて、修司に思いの丈をぶつけた。


「今日ここに来たのは、野崎くんに会いたかったから、……いつも僕の中に野崎くんがいた、大学にいても、バイト先でも、その帰り道でも、家に一人でいても、ずっと野崎くんと一緒にいた。家の鍵にね、君から貰ったキーホルダーを付けてるんだ、そうするといつも野崎くんが近くにいるみたいで、いないのにいるみたいで、もうわけがわからなくなって」


 修司の白目に水の膜ができた。それを見たら罰が当たるような気がして、朝好は前の乗り口に目をやった。バスが停車してぞろぞろと人が乗り込んでくる。


 後ろのシートが埋まったから、朝好は声を潜めた。


「心の中に野崎くんがいるから、僕は孤独にはならないんだって、ひどい自分勝手な妄想だね」


 朝好はぐすっと鼻をすすった。修司が何度目かの盛大なため息を吐き出す。


「なんで卒業式の日に告白してこなかったんだ」

「フラれるのは目に見えていたから、それに行動する勇気はなかった……なんか自信満々だね」


 鼻水が垂れるから顔を上げ、空いた手で鼻をこする。


「俺に見られていて、気持ちが悪いとか、見るなっ、って言ってこなかっただろう、それだけでさ、もう脈ありだと思った、ただそれだけだ、俺はただ受け身でしかいられなかった」


 毎秒、毎分が奇跡に思えてくる。こんなにうまい話があるだろうか。神様ありがとう。


「本当に僕を見ていたんだ……うれしい」

「お前って本当にわけわからない、真っ直ぐ過ぎて、こっちが振り回されているみたいで」


 こちらこそ調子が狂う。


「僕と友達になりたかったの?」


 そう、朝好が言う。と、修司は繋いだままの手を上げて、朝好の手の甲に唇を触れさせた。ざらりとした舌で肌を舐められる。この時になってようやく、彼は自分を見てくれた。

 ああ、と朝好は全身に歓喜が湧き上がる。


「こうしてもか? 朝好くんは相変わらず天然だな」


 修司の顔に笑みが浮かぶ。初めて彼に名を呼ばれた。それは神様の気まぐれでもいい。

 朝好は彼の手を引き寄せて、その太い手首にそっと口づけした。


「好き」


 朝好は言った。胸がうるさく高鳴る。涙が頬を伝う。

 バスが駅前に着いても、修司と視線を絡ませた。車掌が「早く下りなさい」と言うまで、馬鹿みたいに見つめ合っていた。

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