第九話 旅立ちの夜明け

「具合はどうだ、シズク」

「兄……、さん……」

 ベッドの上から弱々しく響くシズクの返事は、お世辞にも元気そうには見えなかった。夜も更け切った寝室はしんと静まり返っていて、一人だと寂しくて落ち着けなそうだ。

 明日に備えて休もうと思っていたけど、眠っている間にシズクがどこかに行ってしまいそうで、俺は数時間ごとにシズクの様子を見るためにに寝室に来ていた。

 雨雲病が移るから寝室にはあまり立ち入るなって言われてるけど、目に見えて弱り切っているシズクの姿を見ると、放っておけなかった。

「枕元に薬と水を置いておくから。咳がひどくなったら飲んでくれ」

「はい、ありがとうございます」

「俺は少し出かけてくる。すぐに父さんが帰ってくると思うから」

 寝室を出ようとすると、細い手が俺の腕を掴む。振り返ると、シズクが起き上がってまっすぐにこっちを見つめていた。もう手の甲まで痣が浸食していて、目をそむけたくなるほどの痛々しさがあった。

「安静にしてないとだめじゃないか。何か必要なら用意するから」

 さっきまで蹲っていたシズクはいつの間にか起き上がり、碧い瞳でまっすぐにこっちを見つめていた。まるで何かが乗り移っているような、ゆらりと揺れてどこかに消えて行ってしまいそうな。

 その姿に見入っていると、シズクはあり得ない言葉を口にした。

「……行くんですよね、地上に」

「なんで地上の事を!」

「小さい頃、母さんに地上の話をしてもらったことがあるんです。なぜ私と母さんだけが雨雲病にかかっているのか。それは、雨雲病が地上の病気だからです」

 まさか、母さんは地上の人間なのか。シズクの言っていることを受け止めきれないでいると、腕を掴むシズクの力が強くなる。

「あの時と同じ顔をしています。嵐の中、ジェシーのために外へ出た時と同じ、恐怖を目の前にしながらも他人のために体を張ろうとしているような、そんな顔を」

 あの時俺がどんな顔をしているのか知っているのはシズクだけだ。そして、俺が家を出た後にシズクがどんな顔をしていたのか知っている人間は、誰もいない。

 病気で苦しんでいる中、一人になるのがどれだけ怖いだろう。ましてや、俺が誰も帰ってこれない地上に行くなんて。

「いや、ここでシズクを看てるよ。父さんが帰ってくるまで、あの時みたいに手を握ってるから」

 地上に行くのは、十年前みたいに勝手の分かってる森の中を見に行くのとはわけが違う。どんな恐ろしい世界が待っているか分からない。それに、シズクを一人にしたら、シズクを支えている気力の糸が切れてしまうような気がした。

 予想に反して、俺の言葉にシズクは悲しそうな顔を浮かべていた。

「兄さんは世界中の景色を見るのが夢だったじゃないですか」

 それは違う。俺は、外に出られないシズクに外の景色を見せてやりたかったんだ。たとえ俺が島の外に出ても、そこにシズクがいないと虚しいだけだ。

「私のせいで、兄さんが森の中にあるこの小さな家に縛りつけられているような気がしていたんです。だから、私は……!」

「無理にしゃべらなくていい。今は休んでくれ」

 シズクがなんて言おうとしていたのかは分からない。だけど、その先を聞いたらいけないような気がした。今まで水面下で保ってきた何かが折れてしまいそうな。

 ベッドに体を預けると、シズクはか細いながらもさっきまでと比べて落ち着いた声音で話し始める。

「私は知っているんですよ。兄さんが学校に行かなくなったのは、私の病気が悪化したからだって。私に難しい本を読み聞かせするために他の子供よりも遅くまで学校にいたのに、気づけば兄さんは家にいることが多くなっていました。昨日だって、他のライダーさんのお誘いを断っているのを見たんですよ」

 シズクを不安にさせるなんて、ドラゴンライダーどころか兄失格だ。俺はシズクの笑顔に希望をもらっていたのに。

 シズクを置いていくより、二人でいた方が百倍マシだ。家の外に出れば俺には話し相手がたくさんいる。街の人や、シスターや、他のドラゴンライダーとも仲がいい。だけど、家から一歩も出られないシズクと一緒にいてやれるのは俺だけなんだ。

「俺は今の生活に不満なんてない。いつまでも続けばいいと思ってる。それだけなんだ。だから俺は……」

「それなら、なおのこと兄さんは地上に行くべきです。お医者様から聞いたでしょう? 私の余命は長くて数か月。短くて、一週間。それは全身が雨雲に覆われるか、肺炎が治らず手遅れになるかの差でしかありません。不治の病である雨雲病と長年ともに生きてきた私にはわかるんです」

 シズクが言うなら、本当の事なんだと思う。シズクの身体の事なんだから、本人が一番よくわかってるはずだ。だけど、そんなこと受け入れられるはずがない。

「俺や父さんや診療所のおっちゃん以外にも、島のみんなに言えば何でも協力してくれる。だから、本当かも分からない御伽話に頼るより、みんなで一緒に戦おう」

「命の花は確かに御伽噺ですが、雨雲病が地上の病気というのは御伽噺ではなく事実です。この島に雨雲病を治す手段がないのは、この島に雨雲病がないからですよね。ですが、雨雲病が発生する地上なら」

「雨雲病を治す手段がある……?」

 母さんが地上から来たっていうなら、地上にも人がいて、集落があって、雨雲病に詳しい人間がいてもおかしくはない。そう考えれば、少なくとも見込みのない博打じゃない。だけど、もし俺の帰りが遅くなったり、何かあったらシズクの気力を保っている糸は切れてしまうかもしれない。

 やっぱり、俺はここにいる。そう言おうとすると、シズクは苦しそうに微笑んだ。

「兄さんが助けてくれると分かっていれば、私は何か月だって、何年だって頑張れます。だから、兄さんはそれまでに雨雲を払って、私を外の世界に連れて行ってください。最初で最後の、お願いです」

 そんな根拠なんてどこにもない。だけど、俺を信じてくれるっていうことは分かる。なら、今度は俺がシズクの事を信じてやる番じゃないのか。

「私は、少し眠くなってきました。兄さんがそばにいてくれたおかげで不思議とよく眠れそうです。もしかしたら、起きたら治っているかもしれません」

 そう言って、穏やかな顔で眠りについた。

「……そんなバカな話、あるわけないじゃないか」

 ただの風邪じゃあるまいし、不治の病が寝たら治ってるなんてそれこそ御伽噺だ。

 だったら、俺が御伽噺を現実にしてやるんだ。そして、寝て起きたら雨雲病が治っていたシズクに、地上で起こった話を聞かせてやればいい。それが俺の夢だったじゃないか。

 窓の外に視線を向けると、カーテンの隙間から朝の日差しが差し込んでいた。

§

「……ふう、必要な物は大体揃ったな」

 シズクが眠りについた後、俺は父さんの倉庫から地上で必要そうなものを選別していた。食料はかさばるから現地で調達するとして、それに使う道具――弓やロープなんかは絶対必要だ。それに、危険な動物――例えばドラゴンなんかに襲われたときの武器にもなる。ドラゴンを攻撃したくはないけど、空で大型のドラゴンに襲われたら、戦う力のないジェシーの代わりに俺が戦わないと。

 倉庫の扉を開けて外に出ると、いつものように小屋で眠っているジェシーが目に入る。小屋の上にはいつも小鳥が止まっていて、そこだけのどかな雰囲気だ。ジェシーの近くは襲われないことを学習してるのかもしれないな。

 小鳥たちには悪いけど、そこの白いのには大事な用があるんだ。

「起きてるだろ、ジェシー。そろそろ行くぞ」

 声を掛けると、ジェシーはのそのそと名残惜しそうに小屋から出て、くあ、と大きく欠伸した。今から危険な地上に行くとは思えない緊張感のなさに不思議とこっちまで気が緩みそうだ。

『こんな早くに行くの?』

「明日になれば父さんが帰ってくる。絶対に止められる」

『誰も帰ってきた人がいないんだよ? きっと、すごく危ないんだよ』

 多分、これが最後の忠告だ。こんなところで怖気づくなら、最初から行かない方がいい。

「命の花が咲いてるようなところだ。きっと、すごくいいところだから誰も帰らないんだ」

 ジェシーが呆れたように身を震わせても、俺の決意は変わらない。俺だって、自分が馬鹿なことをしていることは分かってる。だけど、一度確かめたいんだ。本当に、世界は広いのか。世界一のドラゴンライダーが世界の事を何も知らないなんて、それこそ笑いものだからな。

「ほら、行こう」

『危なくなったら帰るからね?』

「大丈夫だって。ちょっと地上まで行って、花を取ってくるだけだ。自然だろ?」

 ジェシーは呆れたように体を震わせた。俺には、シズクには時間がないんだ。

 白い背中に飛び乗って、いつものように空へ向かって指を差す。こんな早朝に警備隊に見つかれば絶対に怪しまれる。なら、どうすればいいかはこの空の様に明白だ。

「ジェシー、うんと高く飛べ!」

 その声を置き去りにして、目を開けていられないくらいの風が全身を包み込み、小屋だけじゃなく、森が豆粒くらいの大きさになるほど高く飛び上がる。いつも買い物に行く街も今では掌くらいの大きさだ。それなのに、この島は眼前一杯に広がっている。ジェシーに乗っていっても、島の端まで一時間近く掛かる。これが生き物だなんて、信じられなかった。真下には肥沃な大地と活気のある街並みが広がっている。商店街も教会も、小さすぎて見えないくらいだ。たくさんの人や動物や植物がたった一匹の生き物の上で暮らしてると考えるとなんだか不思議な気分だった。

 空気が明らかに薄くなり、風がいつもより冷たく感じるほど高い。そして、いつもよりもずっと広い世界が周りに広がっている。それなのに、空の端っこも見える気がしなかった。

「……なあ、世界の果てってどうなってるんだろうな」

 誰もいない上空で、ふと気になってつぶやいた。街や人が見えなくなるほど高く、空気も薄い雲の合間。本来、聞いているのは風や鳥くらいだ。大空の一人旅。静けさはあれど寂しさは無い。何故なら、相棒ジェシーと一緒だから。

『いきなりどうしたの? レイン』

 返ってきたのは、幼い少年のような高い声だった。耳からじゃなく、頭に響く声。その正体は、俺を背中に乗せて大空を飛ぶ純白のドラゴン――ジェシーだ。純白の羽毛に包まれた翼で空を泳ぎ、気候すら操る力を持つと言われる伝説の存在、飛竜の子供。まだ人の背丈と同じくらいの大きさだけど、力強く空を飛ぶ姿は立派なドラゴンそのものだ。

「俺は世界一のドラゴンライダーになるんだ。世界の果てくらい見ておきたいと思ってさ」

『世界の果てまでなんていけないよ。すぐに帰らないといけないんだから』

「そんなに広いなら、いつか行ってみたいな」

 生まれてからずっと故郷の島から出たことがない俺にとって、外の世界はあこがれだった。それに、危険だからって世界から逃げ続けていたら世界一のドラゴンライダーになんかなれるはずがない。

 ジェシーは呆れたようにため息を吐くと、白い翼で一際強く羽ばたいた。

『……世界の果ては、ここだよ』

「その心は?」

 質問が返ってくると思わなかったのか、ジェシーは上を向いて考え始める。言っても聞かない子供を窘めているような、そんな大人みたいな雰囲気があった。

『……そうだね。例えば、ここから真北にずっと行くと、どうなると思う?』

「そりゃあ、世界の果てに着くんじゃないか?」

『そうだね。同じ方向にずっと行くんだから、いつかは世界の果てに行き着くはず。そう思って試してみた知り合いがいるんだ』

「知り合いって、ドラゴンの?」

『うん。故郷で一番強いドラゴンでね。世界の果てを見てくるって言ってたんだ。でも、ずーっと帰ってこなかった。みんな、死んだと思ってた』

「それで、ドラゴンはどうなったんだ?」

 純粋な興味から尋ねると、ジェシーは思い出すように上を向いた。

『みんなドラゴンの事を忘れてたんだけど、三年後に急に帰って来たんだ。みんな驚いてたけど、本人が一番驚いてた』

「寂しくなって、無意識に故郷に向かってたのかもな」

 ジェシーはゆっくりと長い首を横に振る。

『そのドラゴンは北に向かっていただけだったんだ。少なくとも故郷に戻ろうなんて考えなかったし、真逆の方向に向かっていった。なのに、気づいたら元の場所に戻っていた』

 確かに、考えたらおかしな話だ。なんで同じ方向に向かっていったのに、ドラゴンは元の場所に戻って来たんだろうか。ドラゴンのスピードで何か月もかけて離れたら、目印がない限り元の場所に戻れるわけがない。空の上でも迷わないドラゴンであってもだ。

「……つまり、世界の果てなんてないってことか?」

『夢見るだけ無駄だってこと。世界は、意外とそんなもんだよ』

 そういえば、ジェシーは島の外から来たんだったか。きっと、俺よりもずっと世界を知ってるんだろうな。

「そいつは良い。つまり、誰も世界の果てを知らないってことだろ?」

『まあ、そうだけど』

「一番強いドラゴンでも戻ってくるまで三年かかるくらい広いんだ。だったら、世界の果てなんかより面白いところがあるかもしれない。俺は、それが見たくてドラゴンライダーになったんだ」

 ジェシーは何か考えてるみたいだったけど、すぐに白い体を震わせた。

『じゃあ、いつか連れてってよ。そんな楽園に。ボクだって、それが見たくてレインについていくことにしたんだ』

 ジェシーはそう言って、より一層強く羽ばたいた。

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