第32話 ウンズィヒバー

「い、いや、それが……あの時は夜で、酒を飲んで酔ってたから、あんまり覚えてねぇんだ」

「でも、目が覚めたら金があって、夢じゃなかったって気づいて、それで……」

「なるほど。もういいわ、ベルナルト」

「はい」

 ベルナルトさんは立ち上がってナイフをしまったが、すぐに男をにらみつけた。

「このことは警察にちゃんと知らせておきますので、そのつもりでいてくださいね」

「ぐっ……」

 最後ににこりと笑みを向けてからベルナルトさんが歩き出す。

「それじゃあ、まずは街へ戻りましょう。それから急いでイシュドルフです」

「ええ」

「はい」

 オレはジークさんとともに彼を追って塔から出る。


 聖地を離れた途端、あんなに咲いていた花は次々に枯れていった。

「土地が豊かだったのは石板の力だったみたいね」

 と、ジークさんが言い、オレはあらためて重みを噛みしめる。他の聖地もきっと、こんな風にして失われたのだ。

「……仕方ないこととはいえ、心が痛みます」

 景色は様変わりしてただの廃墟になってしまった。中心に立つフルス尖塔せんとうもまた、今にも崩れそうに見えた。

「すべてが解決したら、返しに来ればいいのよ。そうすればきっと、元通りになるわ」

「はい」

 そうだ、今はそのためにも急がなければならない。心を痛めている場合ではないのだ。

 あの時石板を託されていなければ、あの男たちに壊されていた。世界秩序の崩壊が進み、冗談ではなく滅亡へ向かっていたかもしれないんだ。

 ――絶対に阻止すると心に決めて、今はミルガの街へと急いだ。


 イシュドルフへ向かう馬車の中、ベルナルトさんが「それにしても」と、つぶやいた。

不可視ウンズィヒバーなんて、妙な名前ですね」

「当然、本名ではないでしょうね」

 と、ジークさんが返し、オレも口を開く。

「魔猫を使ってるみたいだし、自身が姿を現すことがない、つまり見えないからってことですよね」

「うーん、そのまんますぎるな」

「でも見えないのは厄介だわ。ウンズィヒバーが何者か分からない上に、手がかりは魔猫しかないのよ?」

 確かにそうだ。魔猫に関する手がかりもなく、情報を本部に伝えたところで調査してもらえるかどうか、実に不安である。

「いえ、手がかりならもう一つありますよ」

 と、ベルナルトさんが言い、オレとジークさんは同時に彼へ注目する。

「水の精霊様の話からして、石板を壊さないと世界秩序は崩壊しない。つまり、あちらはまた石板を狙ってくるはずです」

「そうだったわね。ということは、いずれは接触してくる可能性がある」

「またどこかの小悪党を雇うでしょうが、それなら今度はちゃんと捕まえればいいんです。そして石板、ひいてはハインツを守り切れればいいんですよ」

 ベルナルトさんがにこりと微笑んでくれたが、オレは笑えなかった。

「やっぱり、重たいです……一族の使命が、まさか世界を守ることだったなんて」

 うつむいてため息をつくと、隣に座っていたジークさんが肩を抱いてくれた。

「大丈夫、イシュドルフには頼りになる人たちがたくさんいるわ。必ずウンズィヒバーを捕まえるから、それまでの辛抱よ」

「はい……」

 どうしてこんなことになってしまったのかと、内心で悲しくなる。オレはただ穏やかに先生と魔法雑貨屋を続けていられれば、それだけでよかったのに。


 イシュドルフへ着いたのはすっかり夜も更けた頃だった。

「この時間だと、本部もすっかり消灯して……ませんね?」

 まっすぐに国軍本部へやってくると、建物には煌々こうこうと明かりがついていた。

「何だか様子がおかしいわ」

 と、周辺を見回すジークさん。

 敷地内と外を軍人がしきりに出入りしていて、落ち着かない雰囲気だ。騒々しくはないのだが、異変が起きているのは確実だった。

「何かあったんでしょうか?」

 不安になってオレがそう言うと、聞き覚えのある声がした。

「ジーク!」

 と、駆けてきたのはヘルマンさんだ。その手には何故か一匹の猫を抱いている。

「もう帰ってきてたのか」

「ええ、ちょっと事情が変わって。それより、いったい何があったんですか?」

 と、ジークさんがたずねるとヘルマンさんは答えた。

「やつら、魔猫を使ってたんだよ」

「え、魔猫?」

「魔猫?」

「魔猫って……」

 オレたち三人が戸惑うと、ヘルマンさんが言う。

「どうかしたか?」

 代表するようにジークさんが説明を開始する。

「あたしたちが聖地へ行ったのはご存知ですよね? 実はそこで水の精霊様と会ったんです。それで、石板が何者かに狙われていることを聞きました」

「石板?」

「世界秩序の証であり、石板が壊されると秩序が崩壊するそうです。実際に他の聖地にあった石板は破壊され、すでに世界に影響が出ているそうで、何者かが世界の崩壊を企んでいる、という話でして」

 ヘルマンさんは口をぽかんと開けて固まってしまった。

「ハインツは水の精霊様に石板を守るよう、託されました。その直後、ナイフを持った男たちに襲われて……えーと、詳細は省きますが、その男たちが言っていたんです。魔猫を通して指示をされた、と」

「待て待て、嫌な予感がするぞ。まさか、そいつの名前はウンズィヒバーだったりしないよな?」

 はっと息を呑む。

「ウンズィヒバーです、大佐」

 ジークさんの返答にヘルマンさんは半ば困惑しつつ、早口で事情を説明した。

「俺たちの追っていた組織はウンズィヒバーに買収されていたんだ。そいつの指示でイシュドルフに何匹もの魔猫を放って、魔法使いたちの情報を収集していたんだよ!」

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