藤原忠家の憂鬱〜とある古典の舞台裏〜

土岐三郎頼芸(ときさぶろうよりのり)

藤原忠家の憂鬱

 今は昔、後冷泉ごれいぜいの帝の御代のこと。藤原忠家ふじわらのただいえがまだ殿上人のみぎりとなれば永承四年(1049年)頃のことだろう。煌々こうこうと月が輝く晩に、忠家は父親である権大納言ごんのだいなごん藤原長家ふじわらのながいえの元を訪れていた。


 忠家は父の長家とはかなり距離をとって下座で胡坐あぐらいて座っている。


「忠家。無粋であろう。かかる月が美しき今宵、そちは何故なにゆえわれのもとに参ったのじゃ。女子おなごと良き雰囲気になるにうってつけの夜ではないか」


「父上、吾はその女子の所為せいで実に嫌な目に会い申した。吾はむなしゅうございます。この俗世に吾はもはや何の価値も見出せはしませぬ。それゆえ出家しようと思い、今宵こよい吾は父上に別れを告げに参った次第でござりまする」


 忠家は暗い顔でこうべを垂れて言った。


「なんだとっ」


 長家は夜中にも関わらず思わず大声を出してしまった。長家にとっては寝耳に水の話である。長男である道家みちいえ亡き今、藤原ふじわら北家ほっけ御子左流みこひだりりゅうの跡継ぎは嫡子で次男である忠家であった。その忠家が家を継がず出家するというのだ。話は穏やかではない。


「忠家、いったい何があったのじゃ。何故そちが出家せなばならぬのじゃ。父にとくと話してみよ」


 長家はできるだけ穏やかな声で息子に問いかけた。それでも忠家は理由をなかなか話そうとはしなかったのだが、長家が根気よく説得したので小さな声でぽつりぽつりと話し始めた。


「吾は先程まで恋愛体質でかつまた大層人気のある女官と二人きりで今宵の月をでておりました」


「おお、やるではないか。さすがはが息子」


「その女官と互いの肩が触れるほどの近くに座り月を眺めていたのです。吾は確信しました。『良い雰囲気だ。これはイケる』と。そこで吾は女官の肩を抱いてぐっと引き寄せたのです」


「ふむふむ。それからどうしたのじゃ」


「すると女官は『嫌よ、そんなおイタは』などと言って吾の手からのがれようと身体をよじったりじたばたしたりしました」


「まさかその女官の言葉を鵜吞みにしたのではあるまいな」


「吾もそこまで阿呆ではござりませぬ。あれはただの逃れるふり。全然力は入っておりませぬ上に流し目で下から見上げるあの表情は明らかに誘っておりました」


「ふむ。それでは何も問題なかろうが」


「ところが、ところがそのときに、つい力を入れた余りに……」


 忠家はそこで言葉を区切ったきりなかなか話を続けようとはしなかった。長家は嫌な予感が頭をもたげてくるのを抑えることができなかった。


「まさかとは思うが……そちはその女官に手を掛けてあやめてしもうたのか」


「とんでもござりませぬ。父上、吾は、吾は何も致してはおりませぬ」


 忠家は必死になって頭を振った。だが長家は追及の手を緩めない。これはもはや忠家が出家をするかどうかでは済まず御家の存亡につながる一大醜聞スキャンダルになりかねないのだ。


「そちでなけれ誰が致したというのだ」


「その女官自身でござりまする」


「その女官が意のままにならぬ為に自ら死を選んだとでも言うのか」


「ああ、その可能性もあるやもしれませぬが……」


「そちというやつはぁ」


 長家は忠家を殴ろうと思わず右の拳を振り上げたが、


「少なくとも吾の前では死んではおりませぬ」


「なぬ。それはどういうことじゃ」


 その拳の動きを止めざるを得なかった。


「父上は何か誤解しておるようでござりまするが、吾はその女官を殺めてもおらぬし、目の前で死なれてもおりませぬ。言ったではござりませぬか。吾は何も致しておらぬと。むしろ嫌な目に会わされたのは吾でござりまする。あの女官の所為で」


「ええい、回りくどい。その女官はそちにいったい何を致したのじゃ」


「吾が抱き寄せようとしたときに、逃がれるふりをしていた女官が大きく身をよじったときについ力を入れた余りに……」


「つい力を入れた余りに……」


「吾の顔に向けて一発どでかい屁をかましたのでござりまする。しかも凄まじく臭い一発を」


「はあ?」


「男としてこれ以上の屈辱はござりませぬ。ものにせんとした女子から顔面にあのような臭い屁を浴びせられるなど、もう情けなくて情けなくて生きておるのが嫌になり申した。されどここで短慮を起こして自死するのも親不孝というもの。さらば、出家して父上や御家のためにわずかなりにとも徳を積まんと欲した次第にござりまする」


 そう言うと忠家は深々と頭を下げた。


「そちは本気か」


「本気でござります。本気と書いてマジでござりまする」


「うむ。わかった。では、ちこう参れ」


「ははっ」


 忠家は頭を下げ胡坐あぐらいたまま父である長家のほうにいざり寄った。


「も少し、もう少し近う参れ」


「ははっ」


 忠家は頭を下げたまま更にいざり寄る。


「ふむ。こんなところか。忠家。頭を上げい」


「ははっ」


 忠家が頭を上げると長家が笑いながら怒っていた。


「ふざんけんじゃないぞこの野郎!」


「父上、竹中直人もその芸はもうめったにやらないかと」


「うるさい、このバカチンがあ~!」


 長家は忠家に向かって走りよると、左足で忠家の胡坐を掻いた脚を踏みつけて右膝蹴りでこめかみをぶち抜いた。


 実に見事なシャイニング・ウィザードだ。


「あべしっ!」


 忠家は板の間を転がされた。頭を振りながら立ち上がった瞬間今度は正面からヤクザキックが顔面に向けて飛んできた。


「アホンダラゲ~!」

 

「ひでぶっ!」


 忠家は半回転して向こう向きに倒れた。うつぶせで頭を抱えてうずくまる忠家に追い打ちをかけるように、長家の容赦ない踏みつけ攻撃ストンピングの嵐が襲う。


「なあにが徳を積まんと出家するだぁ、このダボ! 女子おなごに屁ぇをかまされただなんて情けない理由で出家なんかさせられようか、このボケナスがぁ!」


「父上、痛い、痛い。本気で痛い。ギブ、ギブ、ギヴァ~ップ!」


 ようやく長家の足蹴が止んだ。その長家が忠家の胸倉をつかんで引きずり起こした。


「そちは藤原ふじわら北家ほっけ御子みこ左流ひだりりゅうの跡取りじゃ。勝手な理由での出家は許さん。女子おなごだって生き物じゃ。屁ぇもこくわい! そんな下らんことを気にするな! きょうめならば別れたらいいだけの話じゃろが! 相手が下手へた売ったから言うてなんでそちが出家せなならんのじゃ! ホンマに意味不明じゃ! こりゃあ鍛え直さんとあかんの。吾の言うこと、ちゃんとわかったか?」


「ええと……」


「答えは聞いてない! 返事はイエスかハイじゃ!」


「は、はい!」


「そうか。わかったのならばよろしい。吾も思わず気が高ぶって感情的になってしまったの」


「は、はい」


「心がだったままじゃと良くはないの。仲直りじゃ。おい、たれかある!」


「ははっ。これに」


「忠家と一献やる。こないだ取り寄せたあの



 おあとがよろしいようで。

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