一章『潮の匂いが届かない』 その二十三
「友達にいいところ行くかって聞かれてついていったら行った先がキャバクラでせっかくだからと座ったら飲みまくって前後不覚になって生徒の家に運ばれて朝帰り」
私の説明を黙って聞き終えた夫が要約する。
「すべてその通りです」
「いや……攻めてるねぇー」
呆れているのか感心しているのか皮肉なのか、夫の口ぶりからは分かりづらい。取りあえず、目は丸くしている。私だって夫がそんな一晩を過ごして帰ってきたら唖然とするだろう。
じくじくと、胃と頭が重く痛く、苦しく締め付けられる。
「ごめんなさい」
「いや無事なのはよかったよ。朝寝室を覗いたらもぬけの殻だし、連絡もつかないし」
「すみません」
「許してください」
なんでそっちが先回りして言っているのか。しかしよく見ると、夫も頭痛を耐えるように眉間に皺が寄っていた。
「なんか、そっちも辛そうね」
「うん……実は、昨日はきみには負けるけど大分お楽しみしてきた……」
夫のしかめ面も堂に入っているので、二日酔いがよほど効いているらしい。なにこの夫婦。
「電車に乗ったとこまでは覚えてるけど、こっちの駅に着いてからの記憶がものっそい曖昧」
「わぁ、それ危ないよ」
私みたいになっちゃうよ。
「だから昨夜、きみが不在なことも気づかなかった。ああもう寝てるのねー、俺もお休みーで布団に転がってさ」
「なるほど……」
連絡がなかった理由も判明する。
「しかし派手に楽しんできたみたいだけど、こういうのって学校に怒られるのかな?」
「どうだろ……知られたらさすがに問題かも」
そのあたりは私でできることがないので、成り行きに任せるしかない。
「泊まった家の生徒って、男子じゃないよね?」
「違う違う。女の子」
夫が、ならいいけどと安堵する。当然だけど夫は、そこになにも疑問を抱かない。
私が女の子に手を出すとは、発想自体存在しないらしい。
……もちろん、出さないけど。
「しかしそんな夜中に家族がよく入れてくれたもんだ」
「ああ、その子の家は……ちょっと、色々あるの」
夫と言えども、教え子の家庭事情を気軽に明かすのはよくないだろうと濁す。
「酒臭いきみって新鮮ではあるね」
匂いに言及されて内心動揺する。お酒臭さに隠れた、もう一つの匂いに夫は気づくだろうか。
私は、慣れてきて少し嗅ぎ分けられるようになって、つい鼻が動く。
「ところで、一つどうしても聞いてみたいことがあった」
「なに?」
「その……キャバクラってどんな感じだったの? 実は行ったことなくてさ」
私たちしかいないのに、内緒話をするように夫が声を潜める。呆れつつ、少し笑う。
「女の子が優しくて、お酒が進む」
「夢見てぇな場所だな! 俺の飲んだ酒とえらい違いだ」
色めき立つ夫を見て、これだけは言わないといけないと思った。
「あの、私が言うのもなんだけど……キャバクラは駄目よ、行ってはいけない」
一生ものの傷を負う恐れがあった。怖いのは、キャバクラで泥酔した私がなにをしたかは未だに分かっていないことだ。戸川さんの家での所業を超えるものは早々ないと思うけれど、通過してきたら社会的な死が待っている。
「やっぱ高いの? ていうかそんな飲んだくれてよく払えたね」
「そういえば……支払い、どうしたんだろ」
鞄の中に財布がちゃんと入っていることも確認していなかった。今更してみると、そのまま入っていてまずは安堵する。中身を確かめると、お金が減っている様子もなかった。
星さんが肩代わりしてくれたのだろうか。だとしたらまた後で返しに行かないと。
「ま、とにかく大冒険だったわけだ」
「天国から突き落とされて地獄の底まで見てきた」
夫は曖昧に笑っているけど、私からすると本心だった。地獄。あれが地獄でなくてなんなのか。付き合わされた戸川さんがあんなに優しいのが救いであり、苦痛だった。
「お風呂入って少し寝なよ。ま、無事でよかった」
夫が丸くまとめてくれた。そうする、とゾンビの鳴き声をあげながら立ち上がる。
「風呂で寝て溺れるなよー」
「うぃ」
夫についてはこれで終わったみたいで、悩みが一つ消える。その分軽くなった頭がぐるぐる揺れて、頭痛と吐き気を再集合させてきたので真面目に歩くことを強要された。
バスルームの手前の洗面所に立つと、夢から悪夢に渡り歩いた時間がようやく終わったような気がした。無気力に服を脱いで、下着に指を引っかけたところで思い出して、ぐらつく。
裸になった自分のくたびれた顔と髪が鏡に映ったところで、膝が崩れる。
「うぅぅぅぅ」
生徒に洗って貰った下着を片手に呻いて、少し泣く。
生まれて初めて実感する人生の辛さが、他の人と少し違う気がした。
月曜日の学校を待つという選択もあったけれど、そこまで耐えるのが辛かった。
一日ほぼなにもしないで休み、骨組みから緩んでいた身体がやっと整って、まともに動くようになっていた。
代わりにどっしりした心の重みをごまかせなくなったけれど。
「俺もついていこうか?」
「いえ、大丈夫。ほんとに、一人で」
トイレの下りを夫に知られる恐れがあったので、やんわり、しかし断固として拒否する。
いや夫どころか全人類に知られてはならない。できれば戸川さんにも忘れてほしい。無理に決まっているだろうあんなの。むしろこれから私の顔を見るたび、戸川さんの内心ではおしっこ先生とでも思われているかもしれないと想像するとまた身投げしたくなってきた。
その戸川さんに改めてお礼と謝罪を伝えようと、日曜日の昼前から出かけることにした。
の、前に、部屋に戒めを貼っておいた。
『断酒』
「お酒飲んだら死ぬ身体にしてほしい」
もしくは爆発する。調理酒でもこの際大事を取って爆死してほしい。そんな気持ちを込めて執筆した。化粧台の横に貼ったので、寝ているときでも目に入るだろう。でもこれを見る度に思い出したらただ自分が苦んで悶え転がるだけではないだろうか。
「…………………戒めはいつも心の中に」
剥がしてから出かけた。
戸川さんと個人的に連絡を取れるわけではないから、家にいないことも十分あり得る。分かっていても、引き返すことはない。家に戸川さんが来ることは決してないからだ。
謝罪するだけなのに、戸川さんに会いに行くのを意識すると少し、胸が詰まった。
歩幅と足の動きの速さが言い訳を潰して確信を塗り固める。
のめり込んでいる、戸川凛に。足下を見ないまま、突き進んで。
気づかないうちに、レンガがひとかけ、ふたかけ、崩れていく。
ずるずると、瓦解していく。
戸川さんの家まで来て、懸念は現実となる。呼び鈴を押しても反応がない。帰ってくるまで外で何時間も待つのは現実的ではなさそうだった。どうしようかな、と見上げて太陽に相談する。いつもどおり、そして日増しに深まる熱。太陽はいつも変わらない、世界が荒れても。
悠々自適だ。
私も流れに囚われず、ただの教師でいたかった。
おしっこ先生。
「ふ…………ふ」
頭を抱えながら悲鳴を上げてその辺を走り回りたくなる衝動とこれからもしかして一生付き合っていかないといけないのだろうか。人生にやり直しが効かないことを我が身で痛感する。
人の家の前で叫ぶのはもうやめたので、駅の方へ足を延ばしてみることにした。
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