第9話 色街の純情②

 今から三時間ほど前のことだった。


 この日、ディノは朝から《モーディス商会》の建物一階の正面玄関に近い部屋で寛いでいた。彼の仕事は建物内に入ってきた不埒者を叩き出すか捕らえることだ。

 以前は《アナグマ警備》から警備員を雇って行っていたが、突然の災難で《アナグマ警備》は会社を畳むことになり、一時的に警備員が不足していた。そのため今はディノが警備員の代わりを務めている。彼はモーディスの護衛と正面玄関の警備を二日毎に交代で担当しており、警備の仕事をする日は比較的気楽に過ごしていた。


 ディノが部屋で新聞に目を通していると、会長秘書のリーヴスがやって来た。


「ディノさん、会長がお呼びしております」

「モーディスさんが? 分かった」


 昨夜の一件についてだろうかと思いながらディノはリーヴスに連れられて最上階の会長室へと向かった。


 会長室に入るとベイリー・モーディスが笑顔で出迎えた。


「やあディノ、昨日はご苦労様」


 ベイリー・モーディスは四十代の利発そうな顔つきの男だ。背は高く、ディノよりやや小さいくらいで、顎に髭を生やしている。灰色のスーツは皺ひとつなく、彼の男らしさを際立たせていた。


「店の前で起きた争いについては既に聞いている。例の事件とは無関係のようだね」

「そうですね。俺の目から見ても関わりあるようには思えません」

「ただ、《炎麗館》の前で起きたというのはいけないな。ただでさえ事件の噂が広まりつつあるというのに……妙な邪推をされたら困る」


 モーディスは深刻そうに言った。


「そのせいでミレイさんも養子縁組を断っているんですよね」

「まあね。尤も、あの子は最初から断るつもりだったみたいだけど。妹と弟だけ引き取ってくれたらいいと言っていたから」


 モーディスがミレイたち四人を養子として引き取る話を持ちかけたのはおよそ三ヶ月前のことだ。

 現在リンデン家はミレイとアネッサの収入によって支えられている。ただ、アネッサは高等学校に通いながら空いた時間で働いているだけなので、大きな収入源とはなっていない。家計の中心となっているのはミレイが娼婦として稼いだ金だ。その中にはリザによる心づけも含まれている。


 リンデン家の現状を知ったモーディスは、ミレイと三人の弟妹を引き取ることを提案した。彼としてはかつての同級生の面影のある娘が娼婦に身をやつしていることは見過ごせなかった。

 この話はミレイたちにとって非常に都合の良いものだった。アネッサは魔術師として高い素質を持つことから学費は全額免除となっている。しかし、今後リックとクーロが成長した場合、十分な学費を捻出できるかは分からない。また、不測の事態に備えての貯蓄も必要だ。裕福なモーディスの庇護の下で暮らせることは経済的不安から脱出する助けとなることは間違いなかった。


 ところが、ミレイは弟妹たちが引き取られることには賛成したが、自分に関しては反対した。それは弟妹たちにとっても、モーディスにとっても思いもしなかった決断だった。

 その理由についてミレイは、娼婦となった自分と一緒にいることは謂れのない誹りを受ける原因になりかねないと言った。

 近隣ではミレイの職について広まっていて、好奇や同情の視線に晒されることは日常茶飯事だった。それでも子供たちが気丈に振る舞っていけるのは家族間の信頼関係が固いことと、ラッセル・ロイヤーが親身になってくれていることが大きかった。

 ミレイは自分の存在が重しになることを良しとしなかった。彼女は自分だけは今の生活を続ける道を選んだ。

 無論、これに対してアネッサもリックもクーロも揃って反対した。そして、姉が養子縁組の話を受けないのなら自分たちも受けないと言い出した。ミレイは三人を説得しようとしたが、未だに話し合いは平行線を辿っている。


「養子縁組の話も片付いていないのに妙な事件まで起こって……これ以上何かあっては堪らない。特にミレイさんの身辺は気をつけなけないといけない。というわけでディノ、君に頼みがある」


 ディノは雇い主が次に口にする言葉が自分にとって最悪のものだと予感した。そして、彼の悪い予感は見事に的中した。


「君には今日から私の護衛を外れてミレイさんの護衛についてもらいたい。君の能力は昨日の事件でよく分かった。魔術師二人を素早く制圧してみせた腕前は評価に値するし、その後の対応も適切だったそうだね。ミレイさんも頼りになると褒めていたそうだし、君になら任せてもいいだろう」


 ディノは真っ青な顔で叫んだ。


「いやいや、待ってください! 俺が抜けたら護衛の仕事はどうするんですか? ダミアンだけじゃ心許ないでしょう。そうだよな?」


 ディノはモーディスの他に部屋にいた護衛のダミアンへ助けを求めた。

 だが、ダミアンは軽く首を振って言った。


「構わねえさ。お前の代わりならもう当てがあるんだ。ほら、《アナグマ警備》から来てたロシュがいただろ? 会社が潰れて路頭に迷っていたのを会長が拾って今日から入ることになったんだ。ここの仕事には慣れてるから問題はねえよ」

「勿論君一人に二十四時間体制で護衛させるわけじゃない。君の担当は昼だけで、夜はロシュの他に雇った数名に担当させる。しばらくは私の護衛にはつかなくていいから、安心して専念してくれ」


 逃げ道を塞がれたディノは頭を抱えた。




「――ということなんだ」

「それで来ちゃったわけ? 本当に断り切れなかったの?」

「いや、俺が女性が駄目だってことモーディスさんは知らないから……」


 レイクとディノはベンチに並んで腰かけていた。ミレイはレイクと交代する形で弟たちとボール遊びに興じている。ディノが新たな護衛任務について説明した後、レイクはディノと男二人で腹を割って話そうと考えた。ディノも胸の内を曝け出す場が欲しかったのか素直に頷いた。


「難儀だなあ。護衛ならできるだけ一緒にいないと駄目でしょ。ミレイが家にいる時はどうする気?」

「そうだな……部屋の前で張り込んでおくか。三階なら外壁を上がって来る可能性は低い。部屋の前なら不審者が来ればすぐに気づけるだろう」

「傍から見れば君が一番の不審者ってことを除けばね」


 レイクはこの哀れな青年が濡れ衣を着せられるのは忍びないと思った。

 ベンチにぐったりと背中を預けディノはぼんやりと空を見上げた。


「もう抵抗するのは諦めた。どうせ昼の間だけだと割り切って臨んだ方が幾分か気は楽だ」

「それにしてもそのモーディスって人は随分過保護に思えるね。いくら知り合いの娘のためだからってそこまでする?」

「……いろいろと思うところがあるんだろうな。なんでもミレイさんのお母さんはモーディスさんにとって初恋の人だったそうだ。ミレイさんにはお母さんの面影があるから放っておけないんだろう」

「ふーん……」


 レイクは弟たちに笑みを投げかけるミレイの姿を眺めた。第一印象は弱々しく陰気であるが、家族愛が強く意外に頑固な性格であるというのがレイクのミレイに対する感想だった。


「ところで、お前はどうしてここへ?」

「実は俺も《炎麗館》のオーナーに事件が早く解決できるように手を尽くしてほしいと頼まれたんだ。帝都警察に伝手があるからいろいろとね」

「ああ、ブラウエルって名乗った時にまさかと思ったけど、やっぱりブラウエル侯爵家の人間なのか」


 ディノは納得すると、レイクへ探るような目を向けた。大貴族の家に生まれた人間との距離感を測っているようだとレイクは思った。


「何かあった時は頼ってもいいか? 腕っぷしには自信があるがそれ以外はあまり得意じゃないんだ」

「勿論いいとも。その代わりと言っちゃなんだけど、君の話も聞きたいな」

「俺に? 答えられることならなんでもいいぞ」


 不思議そうな顔のディノに、レイクは満足そうに微笑んだ。

 彼の瞳は探し求めている獲物を見つけた狩人のように光っていた。




 マールはミレイと別れた後、そのまま色街へと真っ直ぐ帰った。昼間の色街は夜と比べると人は少ない。喧騒の消えた街中をマールは歩いていった。


 《炎麗館》の建物が視界に入った時、マールは店の前に一人の男が立っていることに気づいた。彼女は《炎麗館》へは行かず、その手前にある角を左に曲がった。そのまま平然として歩いていると、背後から誰かが迫って来る気配がした。


 マールは立ち止まると、背後に来た男へ文句を言った。


「店の真ん前まで来ないでよ。私と会ってるところを誰かに見られたらどうするのよ?」

「だったら店に電話でもしろって言うのか? “おたくのマールさんとお話したいんですけど”って」

「会いに来るのはいいけど目立つ真似は止めてって言ってるのよ」


 ベイリー・モーディスの秘書リーヴスはせせら笑った。


「男の影があるって噂されるのか困るか?」

「冗談は止めて。それで? 何しに来たのよ」


 リーヴスは笑うのを辞めて、真顔になった。


「今ミレイ・リンデンの様子を見に行った帰りなんだろう。どうだった?」

「弟二人と遊んで過ごしてるわ。それからレイキシリス・ブラウエルも一緒にいる。ああ、あんたの所の用心棒もさっき来たところよ」

「レイキシリス・ブラウエルねえ。警戒する必要なんてあるのか? “道楽レイク”なんて云われるような奴だぞ?」


 リーヴスは実家を追い出された道楽者と軽んじられるレイクを危険人物と認識することはできなかった。金は持っているが良い噂をまったく聞かない男。そんな男が近くにいて何を恐れるのかと。


 マールは彼の浅はかさを咎めるように言った。


「あのババアと協力関係を結ぶような奴よ。色街で仕入れた情報はババアからあいつに流れてるんだから。あいつも裏で何やってるか分かったもんじゃないわ」

「親が帝都警察の長官だもんな。ひょっとして秘密の捜査とかしてるのか?」

「そこまでは知らないけど絶対に油断しちゃ駄目ってことは確かよ」


 マールはレイクが何をしているのか具体的なことは何も知らない。だが、あの楽天的な顔の下に秘密を隠していることは知っていた。彼は色街で見てきたどの男よりも得体のしれない不気味さを持っている。何よりあのリザ・チャンドラーの協力を取りつけるというのは相当だ。警戒する理由はそれだけで十分だった。


「とにかく私があんたたちに情報を流していることは絶対にばれないようにしないと」

「お前の情報は役に立った。目的を果たすまではよろしく頼むぞ」


 リーヴスは懐に手を入れると札束を取り出し、マールに手渡した。彼女はそれを素早く鞄の中に放り入れた。


「それじゃあ私は戻るから」

「ああ、じゃあな」


 リーヴスはマールの横を通り過ぎていく。マールはその後ろ姿が見えなくなるまで見つめていた。それから何事もなかったかのように元来た道を引き返し、《炎麗館》へと入っていった。


 


 ディノがミレイの護衛を開始してから五日が経った。

 レイクはこの間にリックとクーロの信頼を勝ち得ることに成功した。レイクが顔を見せる度にリックとクーロは歓声を上げるようになり、様々な遊びをせがむようになった。

 この日のレイクは魔力操作の訓練を兼ねた簡単な遊びを教えることにした。掌に魔力を集中させた状態でボールを掌に乗せ、そのまま魔力を放出することでボールを高く上げる。これが少年たちには好評だった。


「わあ、凄い!」


 クーロが空高く打ち上げられたボールを見てはしゃいだ。ボールは二十メートルほどの地点で上昇を止めると、重力の力を借りて落下する。やがて、最初に乗っていたレイクの右手へと吸い込まれていった。


「とまあ、こんな風に魔力を放出する方向性と力の量を加減すればボールを壊すことなく打ち上げることもできるってわけだ」

「俺も頑張ったらできる?」

「できるよ。才能の良し悪しは人それぞれだけど、努力すれば誰でもできる」


 単純ながら魔術を使った遊びというのは子供には刺激的だった。リックは興奮して早速真似を始め、クーロも遅れてはいけないと別のボールを使って練習を始めた。


「……凄いですね。私も学校で魔術を学んでいますけど、レイクさんの魔力操作は初心者の私から見ても高度な技術を使ってるって分かります」

「僕も仕事柄魔術師と何人も会ったことがありますけど、ここまで見事な人はそういませんよ」


 今日のボール遊びには観客が二人いた。リンデン家の次女アネッサと、ラッセル・ロイヤーだ。

 アネッサは学校から帰ってきた後、弟と遊ぶレイクを見つけ興味本位から傍へやって来た。ラッセルは今日一日仕事でオーリン区まで行っており、その帰りにリンデン家に寄った。彼らは既にレイクと顔見知りで、魔術の遊びを観たいと言うとレイクは快く了承した。


「本当に良いものを見させてもらいました。勉強になります」

「魔術師を目指す後輩に手本を見せられたなら良かったよ」


 アネッサは医療魔術師を目指している。彼女が持つ魔術の素養ならどんな仕事にでも就くことができたが、彼女は真っ先に医療の道を選び、他の候補には見向きもしなかった。

 その理由は両親の死にあることは、身近な人間であれば誰もが知っていた。リンデン夫妻は交通事故に巻き込まれてこの世を去った。事故後の怪我の対処が間に合わなかったのだ。医療魔術師による治療が施せていれば助かったかもしれないと、後に病院の医者は語った。それがアネッサの方向性を決定づけた。


 アネッサは週に三日、《ロイヤー工業》で働いている。この会社では魔術器具を製造しており、その中には医療魔術師が用いる器具も含まれていた。ラッセルは病院に勤務する医療魔術師と親しく、彼自身も治癒魔術に関する知識が深い。彼の元で働くことができるのは、金を稼ぐことと勉強と人脈作りを並立できてアネッサにとって都合が良かった。


「治癒魔術は水属性に適性の高い魔術師ほど得意な傾向にある。水属性の魔術なら片手間に教えられるよ」

「……その、お願いしてもいいですか? 払えるようなお金はないんですけど」


 アネッサの瞳には、学びを得るチャンスを逃したくないという気持ちが爛々と輝いていた。

 ラッセルはその思いを汲み取り、力強く言った。


「お金なら僕が代わりに払います。アネッサが立派な魔術師になる手助けができるならいくらでも出しましょう」


 ラッセルの声には強烈な感情が宿っていた。


(おっと、これはもしや?)


 レイクははたと気づいた。そして、アネッサとラッセルの顔を交互に見る。ラッセルがアネッサへ向ける顔には親しみが籠っていた。


(成程ねえ。ミレイはこのこと知ってるのかな?)


 レイクは今この場にいないミレイのことを考えた。




 ミレイは近くの商店街へと買い物に出かけており、隣にはディノの姿があった。買い物を終えた二人は並んで帰路に就く。荷物はディノが自ら進んで持つことにし、彼の左手は買い物袋で塞がっていた。


「ミレイさん、モーディスさんの養子縁組の話ですが……」


 ディノは細心の注意を払いながらデリケートな話題を投げかけた。


「あまりこういうことは言いたくありませんが、今の仕事を続けるよりモーディスさんの下で新しい仕事に就くべきだと思います。安定した暮らしができるまでモーディスさんも金銭面で支援すると言っていますし、弟さんたちが成長した後にお金に困ることもないでしょう」


 ディノはミレイへの苦手意識が徐々に薄れつつあった。長い時間一緒にいることで慣れが生じた結果だった。他の女性相手ではこうはいかないが、それでも確かな改善であった。

 その結果、ディノは護衛対象のことをよく意識するようになった。彼女の生活を観察し、彼女がどんな考えを持って生きているのかを考えるようになったのだ。そして、ディノはミレイが何故養子縁組の話を断り続けるのか疑問を抱いた。

 この話はミレイにとって利益のある話だ。自分も家族も救われるのだから選択しない理由はない。娼婦としての経歴が足枷になると彼女は言っていたが、それが一番の理由だとディノには思えなかった。他に理由があるのを隠しているのだと。


 ミレイの表情が陰った。追及されたくない話であったことは明らかだった。


「……ディノさん、気づいてますか? アネッサとラッセルさんのこと。あの二人は恋仲なんですよ。はっきり口にしたことはありませんけど」

「アネッサさんとラッセルさんが……」

「あの二人、仕事以外の場でも時々逢ってるそうです。どんな話をしていたかは分かりませんけど、たまたま近くを通った人が“いつかミレイさんにはっきり伝えよう”とラッセルさんが言っていたのを耳にしたとか。多分そう遠くない将来に結婚するんでしょう」


 ディノは考えた。アネッサは姉とは対照的に明るくはきはきとした性格だ。ラッセルは若くして工場を経営する商才ある男。

 アネッサは工場で働き、ラッセルと接する機会が多い。ディノから見ても二人の関係は良好だ。また、ラッセルはリンデン家の現状を気にかけている。それはただの親切心からだろうか?

 ディノは先日ミレイを家まで送った時に見た彼女の鋭い目を思い出した。


「私、アネッサに少し――ほんの少しだけ嫉妬しているんです。私はラッセルさんのような人には巡り会えないと思ってるから。私は生きるために、家族のために身体を売ったのに、アネッサは魔術師の才能を認められて、その上大切にしてくれる人もいる。どうしてこんなに差があるんだろうって考えるんです。私が一番年上で、あの子たちを守る責任があるから損を引き受けなきゃいけないから? それとも私が暗い性格で人から好かれないから? 私を救いたいとは思わないけど、アネッサなら救いたいのかって」


 ミレイは自嘲した。彼女の言葉は慟哭のようだとディノは思った。


「酷い話ですよね? アネッサは私を支えるために頑張っているのに、私はあの子のことを妬んでいるんです。だから、これから先あの子を嫌いになるんじゃないかと思うと怖いんです。モーディスさんに引き取られたら幸せになれるって皆言いますが、私はそう思いません。幸せに暮らしている自分がまったく想像できないんです。多分ずっとアネッサへの嫉妬を抱えながら生きていくでしょう」

「だから、養子縁組の話を断ったんですか? 嫉妬心を抱えたまま一緒に暮らすくらいなら、いっそ離れて一人で暮らした方がましだと思ったんですか?」

「そうです。馬鹿げているでしょう?」


 その声は震えていた。ディノははっとしてミレイの顔を見る。いつの間にかミレイの瞳には涙が溜まっていた。


(自分が幸せに暮らしている姿を想像できない、か)


 ディノの脳裏に幼少期から現在に至るまでの記憶が次々に浮かんだ。

 故郷の町、生まれ育った家、母親と弟、瘦せ細った父親。

 それらがミレイの言葉とピースが噛み合うように嵌まった。


(この人は俺と同じことを・・・・・・・考えていたんだな・・・・・・・・


 ディノは気合を入れるように背筋を伸ばした。


「……気休めにしかならない言葉ですが、俺にも分かります」

「どういう意味です?」


 彼の声が胸の痛みを肺から押し出すように強張っていた。その不自然さを感じたミレイは訝しそうに眉を寄せた。


「俺は同じことをしたんです。家族が嫌で実家から逃げてきたんですよ」


 ミレイが息を呑んだ。彼女は若き用心棒の瞳が憂いを帯びているのを初めて目にした。


「俺の実家は帝国北西部の小さな町にありました。大した産業もない探せばどこにでもあるような鄙びた土地です。うちは先祖代々続く農家で長男の俺は家を継ぐことが半ば決まっていました。それが堪らなく嫌で仕方なかったんです。俺は子供の頃から腕っぷしが強くて、同年代の子供の中では負け知らずでした」


 それは子供に童話を読み聞かせるような口調だった。憂いを帯びた瞳に郷愁の色が加わった。


「昔から町を出て一旗揚げたいと願っていたんです。こんな町で一生過ごしても碌な人生送れないに決まってるって。その気持ちが強くなったのは十歳くらいの時でした。町の外れに三級魔獣の群れが出没したことがあって、その時に町の大人たちが総出で退治しに出かけたんです。俺はこっそり大人たちの後をつけて魔獣退治を見学しました。そこで引退した元騎士が剣技と魔術を駆使して魔獣を倒す瞬間を見たんです。それがとても凄くて、自分も将来軍人にでもなって成り上がろうと考えたんです」

「やはり男の子は騎士や魔術師に憧れるんですね」

「ええ、男の子はそういう分かりやすい“強い人”が好きなんです。で、両親に家を継がず町を出たいと話したら大喧嘩になりましてね。よくある話です。世の中そんなに甘くないとか、お前は井の中の蛙だとか散々言われましたね。俺はどうしても我慢できなくてその日から家出を計画し始めました。そして、十五歳の時に町を飛び出したんです」


 ディノは力自慢を活かして骨の折れる仕事の手伝いをした。その頃から既に魔力操作の技術は一端で、彼が手伝うと言えば皆喜んでくれた。その駄賃として幾許かの金を受け取り、それを自分の部屋の床板の下に隠したのだ。

 金が溜まるまでの間、ディノは町の大きな本屋へ遠出して魔術の教本を漁った。特に必要としたのは身体強化の魔術に関する本だ。両親に隠れてこっそり買ったその本を手垢がつくほど読みふけり、肉体を鍛えることに時間を費やした。

 十五歳になって初めて迎えたある春の日、ディノは夜が明ける前に必要最低限の荷物をまとめて家を出た。暗い空の下、慣れ親しんだ木造の家と家族に無言で別れを告げた。


「町を出た後は北部最大の都市であるベルデイルを目指し、そこで力仕事をしながら日銭を稼いで一年ほど暮らしていました。最初は軍の採用試験に挑戦したんですが、筆記で落ちてしまって仕方なく勉強をやり直していたんです。そんなある夜、仕事から帰る途中にごろつきが商店を荒らしている現場に遭遇しました。店の主と何か揉めていたみたいで、逆上して暴れ出したみたいでした。俺はそいつを止めようとして割り込んだんですが、相手は激高して掴みかかってきて……黙らせるために殴ったんですが、運の悪いことに当たり所が悪くて死んでしまったんです」


 ごろつきは顎に一撃を食らった後、背中から倒れた。その際に頭を商品の棚に思いきりぶつけてしまい、手当ての甲斐なく死んでしまった。

 ディノは失敗したことを悟ると、店主に警察を呼ぶように指示した。


「俺は過失致死で逮捕されましたが、俺が殴った時に偶然近くにいて駆けつけたランバー侯爵の次男坊が俺の弁護をしてくれたんです。アリウスというんですが、そいつのお陰で罪に問われずに済みました。後になってランバー侯爵家に礼を言いに行ったんですが、何を思ったのかアリウスは俺を護衛として雇うと言い出したんです」


 アリウス・ランバーは奇特な若者であり、ディノは少し話しただけで彼のことが気に入った。アリウスはディノの体術と魔力操作の技術を見抜き、また事後に冷静に警察へ通報して大人しく縄についたことから人格面でも信用の置ける人間と判断したと語った。

 ランバー侯爵は息子が突然連れてきた男を見ても、ああまたかと言いたそうな態度だった。アリウスが自ら見定めた人材を拾うことは珍しくなかった。


「俺にとっては願ってもない話でした。腕っぷしで身を立てるのが望みでしたから、飛びつきましたよ。アリウスが提示した条件は破格でしたし、侯爵家が所有する訓練施設で鍛錬を積むこともできるのは魅力的でした。探し求めていた夢への切符が目の前に転がり込んできたようなものです。それから三年経つ頃には、すっかりアリウスの腹心として侯爵家内の地位を得るようになりました。侯爵家の私兵の中で一つの隊を任されてましたよ」

「大出世じゃないですか! それなのに何故今は帝都にいるんですか?」

「……辞めたのはほんの一年前です」


 その声は低く、哀しみに溢れていた。


「隊を任されるようになってベルデイルでは名の知れた男になった頃です。その噂を実家の弟が聞きつけたみたいで、俺に手紙を送ってきたんです。内容は親父が病に倒れたというものでした」


 手紙を読んだ時、ディノは数年ぶりに父親の顔を思い出した。子供の頃に喧嘩したこともあって、町を出てからは無意識に存在を頭から消し去っていたのだ。


「家を出てからは一度も連絡をとっていなくて、家族がどんな状況か全く知らなかったし知りたくもなかった。ただ、今までと同じように畑を耕して平凡な日々を過ごしてるんだろうと漠然と思っていたんです。でも、そうじゃなかった。親父はその二、三年前から身体を悪くして伏せるようになり、畑も弟が継いだそうです。もう永くないから、せめて最後に会ってほしいと書かれていました」

「……逢えたんですか?」

「幸いにも死ぬ数日前に間に合いました。家出したことを咎められるかと思ったんですが、お袋も弟も、ベッドに横たわる親父もただ呆れた顔をして出迎えてくれたんです。それがちょっと恥ずかしくて、しばらく言葉を交わせませんでしたね。親父はランバー侯爵家で雇われたことを褒めてくれましたよ。夢を叶えたなと」


 父親の姿はディノの記憶と比べてまったくと言っていいほど変わっていた。畑仕事で鍛えられていた手足はすっかり痩せ細り、顔は蒼白く、艶のあった髪は短く刈られ萎びた草のようだった。


「最後に親父とお互い腹を割って話し合いました。その時初めて知ったんですが、親父も若い頃は家を出ようと考えたことがあったそうです。傭兵として身を立てて、いつか一級魔獣を討伐して帝国全土に武勇を轟かせるなんて考えてたと。俺と似ているでしょう? 親子ですよね。でも、自分の限界を知って諦めて……町で一生を過ごすことを選んで、お袋と結婚したって。だから、俺のことが羨ましいと言いました。まさかそんな言葉をかけてもらえるとは全然予想もしていなかったから、柄にもなく泣きました」


 その四日後、ホールデン家の大黒柱は息を引き取った。ディノは父親の安らかな死に顔を見て、彼の人生に思いを馳せた。


「親父を看取った後、俺はベルデイルへ戻りました。それからすぐにアリウスに暇乞いをしました」

「どうして?」

「親父が死ぬ前に語った夢を代わりに叶えてやりたいと思ったんです。家族皆に心配かけましたし、せめてその分だけは働いて返すのも悪くないかなと。それをアリウスに相談したら背中を叩いて送り出してくれましたよ」


 アリウスは友人であり腹心でもあるディノの門出を盛大に祝った。ディノが出立する時には餞別として多額の金を持たせようとして、ディノは思わず断ろうとしたほどだった。


「帝都に来たのはアリウスの勧めです。ここは人が多く、情報が集まりやすい。強大な魔獣が出没した際は救援要請がかかることもあります。ああ、先日ベルデイルが晴天流のヴァイス・ベスナーに救援を頼んだことは知ってますか? そういう仕事に関わる機会を目当てで来たんですよ。実際数年前にも帝都に一級魔獣が現れて、リン・クレファーが功績を立てたことは有名ですからね。帝都に来てからはまた用心棒として売り出して……しばらくして《モーディス商会》に雇われたというわけです」


 長い話を語り終え、ディノは両手を広げた。


「とまあ、俺の話はこれで全部です。要するに何が言いたいかっていうと――恐らくミレイさんはアネッサさんと別れても、結局後悔するだろうってことです」


 真っ直ぐ曇りのない言葉はミレイの心に突き刺さった。刑を宣告された罪人のような気分だった。


「貴女は善良な性格の人です。家族思いでアネッサさんもリックもクーロも貴女を愛している。貴女は嫉妬することはあっても憎むことはできない人間だ。悪意を秘めて生きていくのに向いてないんです。アネッサさんと縁を切っても、後になってその判断を自分勝手だと自責するでしょう」

「……じゃあ、どうすればいいんですか?」

「養子縁組の話を受けたらどうですか? 目の前にある希望をあれこれ理由をつけて拒絶することもないでしょう。まずは安定した生活を手に入れて、それから未来を計画するんです。俺の場合はそうでしたし、後から家族と話して蟠りも解きました。ミレイさんもそうしたらどうですか? 貴女は周りのために自分を抑えるような人です。でも、もう少し我儘になっていいと思います」

「我儘……」

「尤も、これはあくまで俺の例を言ったまでです。貴女は貴方のやり方で進める方がいい」


 ディノはそう言うとミレイの少し先を歩く。今更ながら他人の生き方に説教したことが恥ずかしくなった。


 既にミレイに対する意識は変わっていた。ディノにとってミレイ・リンデンは、自分と似た悩みを持つ、心を開ける女性となっていた。

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