第2話 暴れ馬②

 リンとマオが《黒い羊》を出たのは夜の十時を回る頃だった。

 春とはいえ夜になると気温は下がり、リンは身体を震わせた。

 辺りの建物もほとんど灯りが消えている。人通りもまばらで、時折魔導機関を搭載した最新式の自動車が静寂を切るように走っていく。店から漏れる光と街灯が暗闇に映えていた。


「それじゃあ、またね」

「ええ、また今度」


 大学の正門に面した通りまで辿り着くと、そこで二人は互いに別れの言葉を告げた。

 ここから二人の帰路は正反対に分かれる。

 リンはクレファー邸のあるオーリン区の方角へと足を向ける。


「気をつけて帰ってくださいね。夜は危ないですから」

「実際に夜道で襲われた奴が言うと説得力あるわね」


 リンは帝都の各地で様々なトラブルを解決して信用を勝ち取った反面、恨みも多く買っていた。

 彼女は既に五回命を狙われたことがある。その中に夜道で襲撃されたことは二回あった。

 一番新しいのが半年前で、男ばかり八人がかりでリン一人に襲いかかってきた事件だ。この内三人ほどが拳銃を持っていた。

 この時もリンは単身で相手取り、無傷で勝利した。敵方は三人が死に、残り五人は逃走している。


「確か半年前にアンタにやられた奴って傭兵上がりのごろつきだっけ? 最近帝都に妙な連中が流れ込んでるっていうし物騒よね。アンタなら誰に襲われても大丈夫とは思うけど、くれぐれも気をつけなさい」

「はい、ではさようなら」


 リンは手を振り、踵を返して歩き始めた。

 大学の敷地沿いの道をしばらく歩き、リンはふうと大きく息を吐いた。


(理解者、ですか)


 リンは胸の奥でマオから言われた言葉を思い返した。


 リン・クレファーと言う人間はこの時代に生まれた英雄であった。

 比類なき武を持ち、人を慈しむ心を持つ。

 物語の登場人物が如く偉業を成し得た人々の羨望を集める存在だった。

 そして、同時に孤独であった。世界に遍く浸透する常識はリンを称賛する傍ら、彼女に社会通念から隔絶された理解し難い存在という烙印を押した。

 世界にとってリンは自分たちの想像の範疇で語るべき人物ではなかった。それを過去のリンも良しとした。著しい不利益をもたらさないのであれば構わなかった。

 現状はその結果なのだろうとリンは思った。彼女の傍に立つ人間は誰一人としていない。マオの言うようにそれを無意識に甘受していたのだろうと。

 そして、孤独を友人とした代償ツケを今払おうとしていた。


(今からそんな人間を求めたとしても――まず無理でしょうね)


 リンは夜空を仰ぎ、小さく嗤った。

 勉強が得意なリンでもこの積み上げられた課題の山を清算するには時間がかかりそうだった。


 思考の海に溺れながらリンは南へ向かって足を進めていく。

 やがて商業地区の端に位置する大通りへと出た。通りを渡るとイスメラ区最大の公園であるパール公園の敷地が広がり、公園からさらに南西へ進むと住宅街がある。住宅街の方へ進めば間もなくオーリン区だ。

 パール公園は帝都の市民公園の一つであり、住宅街と商業地区に挟まれていることもあって公園内の道を通勤通学に利用する者が多い。リネス大学の運動部の学生が公園内の施設で練習に励んでいる姿も日常的に見られる。

 リンは少し考えてからパール公園の中を通り抜けることにした。

 公園内の舗道の脇には等間隔で街灯が立ち並び、進むべき道を照らしている。リン以外に人の姿はなく静かだ。風もなく、虫の鳴き声もない。このまま道なりに進んでいけばすぐに住宅街へと出るだろう。

 しかし、リンは進路を変えてまったく違う方角へと進み始めた。

 リンが辿り着いた先には広場があった。中央に噴水が鎮座し、そこから円を広げるように開けた空間があり、円の端には芝生と樹が生い茂るスペースがあった。


 リンは噴水の前で立ち止まると、徐に振り返った。


「……私に何か御用ですか?」


 リンの視線の先には木々があった。

 問いかけても何の反応も返らず、ただ時間だけが過ぎていった。

 それでもリンは目を逸らそうとしなかった。


 やがて、一本の樹の陰から一人の男が姿を見せた。顔を黒い布のような物で目元以外を隠しており、小柄でほっそりとした身体つきだった。


「……いつから気づいていた?」

「マオと別れる直前です。最初は路上強盗目的と考えましたが、どうも気配からして素人ではないように思えました。もしやまた誰かが私を狙うつもりかと推測したんです」

「気づいていたのに逃げるか、人を呼ぶかしなかったのか?」

「まさか、人を呼べば諦めて逃げるでしょうし、逃げたところでまた来るでしょう。それより人のいない場所まで連れて行った方がお話しできる・・・・・・と思いましたから」


 リンが最も危惧していたのはマオと一緒にいる間に攻撃されることだった。リンが狙いであるならマオを人質にすることも考えられ、もしそうなれば対処は難しくなっていた。そのためマオと別れるまでリンは警戒を怠らなかった。その後、リンの後をつけてきたのを確認してようやく一息つくことができた。

 リンは誰も巻き込まぬように人気のなさそうでかつ広い場所のあるパール公園へ尾行者を誘導することにした。そして今、この広場で男と対峙することを決めた。


「俺も無関係の人間を巻き込むつもりはない。むしろこんな都合の良い場を用意してくれて感謝する」

「お礼は要りませんよ」


 リンは慎重に男を観察した。

 立ち振る舞いに隙がない。声は平坦で、感情を完璧に抑制していた。

 男の全身を薄く覆う淡い橙色の魔力が揺らぐことなく安定している。

 それを目にしてリンは感心した。


(これは手練れですね。ソル殿下にも決して劣らない腕の持ち主です)


「随分余裕だな」

「はい、荒事は慣れていますから」

「噂通りの“暴れ馬”か」


 男は鞘から剣を抜く。

 リンも肩にかけていた鞄を無造作に放り投げると剣を抜いた。


「一応訊いておきましょう。何の目的で私の後をつけたんですか?」

「恐らくお前の想像しているとおりだ」


 両者が睨み合う。互いに無言のまま相手の動きを見ることに集中している。指一本の僅かな揺れすら見逃すまいといった気迫が場を支配していた。


 先に動いたのは男だった。魔力で身体強化された脚力を以って一気に距離を詰めてきた。

 男が剣を振るう。刃の軌道はリンの首筋から胸にかけて線を描くようだった。


 だが、男の剣がリンの肉を貪るより先に彼女の剣がそれを止めた。互いの刃が硬質な音を鳴らす。

 リンは間近に迫った男の瞳の中に強者特有の静けさを見た。男もまたリンの瞳に夜の海を思わせる暗い青を見た。


 リンが大きく飛び退いた。男は追撃をすることなくその場に留まり、じっと見据えていた。

 噴水の傍に距離を開けて相対する二人の息遣いを、噴水から流れ出る水の音が覆い隠した。


(一切の迷いが見られない。人を斬ることに慣れていますね)

(剣の腕は第三皇子をも上回ると聞いていたが……これは今まで誰も仕留められなかったのも無理はない)


 リンは男が人を殺すことに躊躇いがないことを見抜いた。場数を踏んだ者の気配。しかし、傭兵など戦場で生きてきた者が放つ気配とは異なる。男の剣は戦場で人を殺すためではなく日常で人を殺すために磨かれたものだ。


 一方、男は平静を装いながら内心の興奮を抑えていた。リンの噂は耳にしていたし決して侮ってなどいなかった。

 だが、実際に体感した彼女の力量は男の予想を超えていて、そして矛盾していた。恐ろしく力強く、同時にたおやかだ。まるで花が風に揺れているような無害さを垣間見た。それが錯覚だと理解するには一度剣を交わすだけで事足りた。

 リン・クレファーはか弱い女性の出で立ちの中に竜を潜ませた女である。そんな感想が自然と男の胸中に浮かんだ。


(長引かせるのは不味いですね)


 リンは少し考えた後、剣を縦に構えた。そして、柄を握る手に魔力を込め始める。柄の部分が青白い光を纏い、それが刀身まで伸びていく。


 それを見た男の目が細められた。


(魔導剣術か……)


 男は事前にリンの戦闘技術に関する情報を網羅していた。リンは武人として名高い第三皇子に勝利するほど武を修めた才媛であり魔導剣術の達人としても知られている。

 魔導剣術は剣に魔術の効果を乗せて振るうという言葉だけなら至極単純であるが、剣術と魔術双方を高い水準で修めた者でなければ十分に扱えないことから使い手は全体として少ない。中途半端に修めただけなら剣術か魔術いずれか単体で用いる方が余程強いからだ。

 そして、男が知る話によれば第三皇子に勝利した際にリンは魔導剣術を使っていたとされている。


 男は警戒を最大にしてじりじりと後ろに下がった。彼は魔導剣術の使い手と戦ったことはない。しかし、剣の腕が同程度なら魔導剣術を使える方が有利であることを知っていた。


(俺は魔導剣術など器用な真似はできん。剣と魔術を複合させるのは精緻な技術だけでなく集中力を要すると云う。俺は今の身体強化を維持するだけで精一杯だ。しかし……魔導剣術を使うなら向こうの方が消耗が早くなるはず。回避に徹して隙を窺うのが良さそうだ)


 魔導剣術と真っ向から打ち合うのは不利だと考えた男はリンの息切れを待つことにした。リンが勝負を急いでいるならその焦りを狙うのが吉だと考えた。


 リンは男が徐々に下がっていくのを見ても動かず、剣を構えていた。

 そして、ゆっくりと前へ足を踏み出し――駆けだした。


 来る、と男が思った時には既にリンが前方で腰を屈め剣を振るっていた。急所を狙う一撃ではないとすぐに分かった。生け捕りを狙い足を斬ろうとしているのだと。


 男は至って冷静に対処した。横薙ぎに肉を切り裂こうと描く太刀筋を跳躍で避けた。


 そして、宙から男は目撃した。虚空を裂いた太刀筋に青白い残像が追随していたのを。それはリンの剣に宿っていた魔力と同じ色だった。


(あれは――)


 魔力は属性によって色が異なる。青白い魔力は水属性の証だ。水辺に近い場所であれば水属性の魔力を得やすい。噴水の傍もそういった場所に該当する。


 それはリンにとって都合の良い偶然だった。


 次の瞬間、男は目を見張った。

 リンの太刀筋に残っていた青白い魔力が突然膨らんだように見えたかと思うと突如として氷の塊が生えるように現れた。水属性の魔力にリンが一手間付け足して生み出した氷だ。それがとてつもない速さで広がっていき、着地する寸前の男の脚を掴み取った。

 

「あ!」


 男は思わず叫んだ。顔が半分覆われていても驚きと悔しさが浮かんでいるだろうと分かる声だ。脚を氷から引き抜こうとしたり氷を破壊しようと試みたりしたが無駄だった。


 リンは上手くいったと言わんばかりに微笑んだ。

 水属性の魔力を利用でき、攻撃を避けられても魔術効果による追撃が可能であり、なおかつ敵を拘束することに有用な技。

 リンにとって理想的な条件を備えた案は、彼女の思い通りに嵌まった。


(あとは昏倒させてしかるべきところへ引き渡すとしましょう)


 リンは今後のことを考える。男は明らかに堅気の人間ではない。何者かに雇われた暗殺者の類だろうと推測した。必ず警察へ引き渡して背後関係を調べなければならない。


 時間にしてほんの僅か。リンが思考に意識を落としたその一瞬を男は見逃さなかった。


 男が右腕をリンへと真っ直ぐ向けたのと、リンが思考から現実へと戻ったのはほぼ同時だった。

 左手に剣を下げ、何も持っていない右腕がリンを狙っている。

 リンはその行動が何を意味するか分からなかったが、すぐに気づいた。

 男のたぶついた袖の中から四角形の物体が覗いていた。

 今度はリンが目を見張る番だった。


 袖の中の暗器から細長い何かが高速で射出された。

 針だ。街灯の光を浴びて鈍く輝いている。

 それはリンの額目がけて進んでいく。

 リンが初めて見せた虚を突いた男の切札が功を奏しようとしていた。


(これは――)


 避けられない、とリンは思った。身体強化されたことで視力も反応速度も向上している。今にも己の命を奪わんとする小さな刺客をはっきり認識しつつも彼女の脳は回避も防御もできないと判断した。


 そして、針がリンの目と鼻の先まで到達し――何かが横切った。


 集中しなければ拾えないほどか弱い金属音が鳴ると同時に、リンへ迫っていた針が消失していた。


「え?」


 リンと男が揃って間抜けな声を漏らした。共に何が起きたのか理解できなかった。

 そして、リンの立つ位置から少し離れた地面に小石が転がった。公園内を探せばいくつも見つかるような何の変哲もない石だ。

 しかし、今はその小石に緑色の魔力が宿っていた。風属性の魔力である。それがリンの眼前を横切った物の正体であり、針を弾き飛ばしたのだと両者が悟るまで時間はかからなかった。


「まったく物騒極まりない」


 リンは突如として聞こえた声に思わず振り向いた。


 男が立っていた。


 何故今まで気づかなかったのかと思うくらい二人に近い位置に立っている。どれだけ戦いに集中していたとしても気づかないはずがない。だが、現に二人とも今初めて男の存在を認識した。その事実が一層二人を困惑させた。


 街頭に照らされた彼の顔は、まるで気心の知れた友人と出逢えたかのような微笑みを湛えていた。薄茶色の髪が光を反射して白く輝いているように見える。

 リンはその姿を見て身震いした。それはある種の戦慄に近かった。

 男は自然体で一切殺気や闘志を放っていない。だが、リンは男が漂わせる言いようのない気配を確かに感じ取った。それは本能的な畏怖を沸き立たせる。リンは過去にこのような感覚を味わったことがなかった。その感覚の正体が、つい一時間ほど前に聞いた道楽者の噂と相反する男の佇まいから生じる印象のずれに起因するとは気づかなかった。


「レイキシリス・ブラウエル……」


 リンはただ男の名を呟くことしかできなかった。


「夜道で淑女を襲うなんて穏やかじゃないね。こうして横から手出しされても文句は言えない」


 レイクの口調は《黒い羊》で聞いた時のような軽薄さがあったが、今はそれがどこか恐ろしく思えた。

 リンより先に我に返った男がレイクへ向けて右腕を掲げた。再び針が袖の中から射出される。レイクはそれを物珍しい品でも観察するかのような表情のまま軽く腕を振るった。その動きを強化された視力を以ってしても捉えきれなかったことにリンはまたも驚愕した。


 レイクの右手にはいつの間にか刀が握られていた。刀に防がれた針が落ちる。レイクはじっと男から視線を離さない。次に何かしようとすれば腕を斬り落とすつもりだと男は察した。


 ここに来て男は逆転の目が完全に潰えたことを知った。彼は意を決したように大きく息を吸った。

 そして、呻き声を上げ崩れ落ちるように上半身を倒した。凍らされた脚が固定されているため前屈みになるような姿勢だった。


 リンは慌てて男の元へ駆け寄った。


「いけない! これは――」


 リンが男の上半身を抱えると、男の口から血が垂れた。手足はだらんとしていて力が抜けていた。


 男の息は既になかった。


 リンは男の顔を覆っていた布を外し、その顔が赤黒く爛れているのを見て息を呑んだ。虚ろな眼球がリンを見つめていた。


 背後へ寄ってきたレイクが男の死に顔をしげしげと眺める。


「自決したね。肌の変色からすると呪毒か」


 呪毒は魔術によって精製される毒物であり、その名が示すように呪いに等しい存在である。基となる属性に応じて様々な毒を自在に作り出せるが、あまり使い手がいない。


「迂闊でした。すぐに対処すべきだったのに……」

「そう言うな。君は十分にやったんだ」


 またしても失敗したと悔やむリンをレイクが慰めた。

 レイクの雰囲気は《黒い羊》で会った時と同じに戻っていた。リンの中から先程の戦慄するような感覚はもう消えていた。


 リンは立ち上がり咳払いをした。


「お礼がまだでしたね。御助力いただきありがとうございます」

「礼は不要だよリン・クレファー嬢。あんな場面に出くわして助けに入らないのは男じゃないからね。君とマオが店を出て少し後に俺も出たんだけど、こっちの方へ来たら妙な物音が聞こえてきたから様子を見ようと思って来たんだ。そうしたら君とこの男が戦っているのが見えてね。間に合って本当に良かったよ」


 リンはレイクの言葉で確信した。《黒い羊》で出会った時に感じた見定めるような視線は錯覚ではなかったのだと。彼はあの時既にリンの素性を知っていたのだ。


 レイクは死んだ男へもう一度視線をやった。顔面に広がった爛れは元の顔を分からなくしていた。常人であれば直視するのを嫌うような遺体をレイクは顔色一つ変えずに観察し始めた。

 そして、男の首元へ視線を落とした時、レイクの瞳が獲物を定めた獣のように光った。


「一先ず警察に連絡しようか。俺たちだけじゃどうにもならない」

「そうですね……」


 リンはほっと息を吐いて肩の力を抜いた。


 どこかで車の走る音が聞こえた。




 午後十一時過ぎ、バー《鳩の巣》の経営者ケレス・グレイズはトライド区の繁華街を一人歩いていた。

 グレイズは数十分前に煙草を切らしたため、この時間でも開いている雑貨店へと赴き煙草を買って帰るところだった。

 この時間は繁華街の賑わいも消え、所々で誰かが騒ぐ声がするだけだ。路上の脇には建物の壁にもたれかかって眠りこける酔っ払いや、女の身体を撫でまわす男の姿があった。グレイズはそれらをつまらなそうに眺めながら冷える空気の中を歩いていった。


 やがて、グレイズの視界に《鳩の巣》の看板が見えてきた。白い鳩が描かれた洒落た看板の下に店の裏手へと続く道がある。グレイズは足早にその道へと入ると、その奥の従業員用通用口を開いた。

 屋内に入ると温かな空気がグレイズを出迎えた。通路の正面に廊下を掃除している従業員がグレイズを見つけて声をかけた。


「ああ、グレイズさん。旦那がお呼びですよ。帰ってきたらすぐに事務所へ来てほしいって」

「旦那が? 分かった、すぐ行く」


 グレイズは廊下の突き当りを曲がり建物の一番奥へと向かった。

 『事務所』と書かれたルームプレートが貼られた扉を潜ると、正面奥の黒いオフィス用デスクと手前の来客用テーブルが目に入る。グレイズの共同経営者であり事実上のトップであるロイド・プライムは自分のデスク前に置かれた革張りの上等な椅子ではなく、来客用のガラステーブルの前に設置された茶色のソファに座っていた。

 ロイド・プライムは今年で五十五歳になる白髪交じりの男だった。まだ溌剌と働けそうな活力に満ちた顔つきであるが、今はその顔に皺が刻まれ厳めしさを与えていた。


「旦那、今夜は少し冷えますね。春先だからって油断するとすぐに風邪引きそうだ」


 グレイズは気安い口調でプライムに声をかけた。グレイズの方がプライムよりずっと年下であるが、二十年来の付き合いがある二人は年の離れた良き友人として関係を築いていた。

 プライムは声をかけられても無言のまま腕を組み一言も喋らなかった。グレイズは無視されても怒ることなくプライムの様子を窺った。グレイズの経験上、何か厄介事が起きた時にプライムはデスクの椅子ではなくソファに座り考え事をすると知っていたからだ。


「どうしました? 深刻そうな表情かおしてますが」


 グレイズは棚から酒を取り出しグラスに注ぐと、それを持ってプライムの対面に腰かけ相手の言葉を待った。


 問いかけの後たっぷり時間をかけてプライムは口を開いた。


「……例の仕事のことだ。さっき見張りにつけてた奴から連絡があった。ダールが仕損じたらしい」


 呑気に酒を口に含んでいたグレイズはぎょっとして思わず吹き出しそうになった。彼は慌てて酒を呑み込むと前のめりになった。


「仕損じた? ダールがですか?」

「ああ、リン・クレファーには傷一つつけられなかったそうだ。それに途中から向こうに若い男の加勢が入ったらしい。それで結局どうにもならなかったとのことだ」

「それじゃダールは逃げ帰ったんですか?」

「いや、どうも逃げられないと踏んで自決したらしい」


 グレイズははただただ驚くしかなかった。クリフ・ダールはグレイズが知る暗殺者の中でも特に優秀な男であった。

 寡黙だが仕事は確かで、表の稼業であるガラス細工の職人としても頼りにしていた。過去に仕事を失敗したことなど一度もなく今回も無事に遂行できるだろうと考えていただけにグレイズの驚愕と落胆は大きかった。


「そうですか。口数は少ないが腕の良い奴だったのに」

「“暴れ馬”の名は伊達じゃないってことか。こりゃ骨が折れそうだな」


 最初リンの殺害を依頼された時、相手が帝都で一番強い女だとしても殺せるとプライムは絶大な自信を持っていた。相手は戦闘の天才だがこちらには人殺しの天才が揃っている。自分の得意分野に持ち込んだ戦い方であれば後れを取ることはないと考えていた。

 しかし、それは誤りであったと思い知らされたのが先程ダールにつけていた見張り役からの報告だった。リン・クレファーは相手が誰であろうと手を抜いたり軽んじたりする人物ではなかったのだ。


「参りましたね。ダールがやられるのは想定していませんでした……」

「俺だってそうだ。こいつは想像以上に難しい仕事だ。とはいえ、このまま引き下がるわけにもいくまい」


 プライムは先日この部屋で依頼人と話したことを思い出した。

 何が何でもリン・クレファーを始末しろと頭に血が上った様子で依頼した男。プライムはその男が気に入らなかったが金払いは良かったため引き受けた。


「リン・クレファーに見張りはまだつけてるんですね?」

「ああ、あの女は一度敵対した相手に容赦しないことで有名だからな。金も権力も持ってる家だし報復に手を伸ばしてこないとも限らん」

「面倒なことにならなきゃいいんですがねえ」


 グレイズはぼやきながら酒を一気に飲み干した。




『アンタ昨日大変だったみたいねえ。もう噂になってるわよ』


 翌朝、リンは自分の部屋に置かれた電話でマオと話していた。リンは起床した後すぐに着替える習慣があったが、この朝は珍しく寝間着のままだった。リンは自分だけ朝食の時間を遅らせるようメイドへ指示し、すぐにマオへ電話をかけた。マオは自分の予定を放り投げリンのために時間を割くことに決め、リンは親友の心遣いに感謝した。


「噂? もうそんなに広がってるんですか?」

『リンが警官から話を聞かれているところを公園近くの主婦が見てたみたいね。アンタの顔は知られてるから朝になってすぐ井戸端会議で話題になったみたい。朝起きたらお母さんが言ってきたのよ――“マオ、リンさんが昨夜パール公園で暴漢を殺したって!”』


 随分忙しい奥様方だとリンは苦笑した。


 暗殺者が自決した後の展開に大きな波乱はなかった。

 レイクが公園前の公衆電話から警察に通報し、しばらくして警官たちが駆けつけた。彼らはリンとレイクが身分を明かすと態度が一変した。クレファー伯爵家とブラウエル侯爵家の名が並ぶと大抵の人間は萎縮する。この警官たちもその例に漏れなかった。特に法を司るブラウエル侯爵家の名が強かった。

 その後、暗殺者の遺体を調べるも身元を示す物は何も持っていないことが分かった。財布もなければ家の鍵もない。まるで素性を暴かれる恐れのある物を徹底的に排除したようであった。代わりに持っていた物といえば袖の中に隠した暗器だけ。内部に数本の針が仕込まれ、魔力を流し込むことで発射する機構を持つ魔導器具の一種だと判明した。

 暗殺者の身元は突き止められなかった。顔が呪毒により爛れたため判別できなかったのだ。

 リンとレイクは警官から事情聴取された後に解放された。


『家に帰った後どうだった?』

「お母様に窒息しそうになるほど抱きしめられましたよ。ギルトレットが引き剝がすのに難儀していましたね」

『妖艶な大女優も家では子煩悩の母親ね』


 帰宅した直後、リンは母親のアレッシアから強烈な抱擁を受けた。いつまでも子煩悩の母親は警察から事件の連絡を受けて、リンが帰宅するまで忙しなく歩き回っていたとガーランドは娘に語った。リンを抱きしめたアレッシアはそのままぐりぐりと頭をリンへと擦りつけ、いつまでも離さないのでガーランドの命でギルトレットが無理に剥がすことになった。


『ところで、アンタの他に“道楽レイク”も現場にいたってマジ?』


 マオがレイクの名前を出した途端、リンの顔に緊張が走った。


「ええ、私が危ないところを助けに入ってくれました。彼のお陰で無事だったと言えます」

『あのレイクがねえ。ちょっと見直したかも』


 リンはゆっくり深呼吸すると本題を切り出した。


「実はですね、彼のことでマオに訊きたいことがあるんです」




 午後になってリンは邸を出た。向かった先は邸から北へ進んだ所にある高級住宅街だ。

 オーリン区は魔導機関時代の到来に合わせて大規模に再開発された地区であり、富裕層向けの高級住宅が地区中部と北部に集中している。クレファー邸が建つのは中部の住宅街であり、リンが北部の住宅街へ赴くのは今回が初めてだった。

 目的地はブラウエル侯爵家の別邸。即ち、レイクの家である。


「ここですね」


 リンは手帳に書かれた住所へ到着し、そこに建つ邸を見上げた。

 貴族の別邸としては小さいように思える二階建ての邸は、再開発の際に建てられたと分かる近代的な建築様式だ。目を惹くのは灰色の屋根の先端部分に寝そべる竜の彫像だ。屋根以外にも門柱や柵など所々にも竜の意匠が施されている。リンは芸術への造形はあまり深くないが、丁寧な造りをしていることが読み取れた。恐らく設計者の拘りなのだろうと彼女は推測した。

 玄関先にはよく手入れのされた庭が広がり、奥には花壇が見えた。敷地内に足を踏み入れるまでは低木に遮られていて見えなかったが、花壇の前にメイドが一人立っている。手には剪定鋏が握られていた。そしてもう一人、テラスからメイドを眺める青年がいた。木製の椅子に座り、傍らのテーブルには読みかけの本が置かれていた。


 レイクはリンを目にしても驚いた様子はなかった。彼は椅子から立ち上がると昨夜見せたのと同じように微笑んだ。


「こんにちは、レイキシリスさん」

「レイクで構わないよ。友人は皆そう呼んでる」


 リンはレイクの表情に不快感が見られないことを確認してほっとした。約束もなく押しかけたのは行儀が悪いと承知していたが、それを等閑なおざりにしてでも行きたいという欲求に駆られていた。無作法を咎められなかったのは彼女にとって幸いだった。


「ところで、ここの住所はどうやって知ったの?」

「マオに教えてもらいました。正確には貴方のお友達に連絡してもらったんです」


 朝の電話でリンがレイクの住所を知りたいと頼んだ時、マオは快く了承した。マオはその後すぐにレイクと交流のある男性の知人へと連絡をとり、彼からレイクの住所を訊き出した。


「マオが連絡先知ってる男ってことはネッドかな。何の用で来たかは想像つくけど……とりあえず中に入りなよ。エレニカ、お茶の用意をお願いね」

「かしこまりました」


 レイク以外でこの邸唯一の住人であるエレニカ・ブレイズは若い主人の命に従った。

 レイクはリンを玄関へと促すと、読みかけの本を閉じて邸の中へと入っていった。


 リンが案内されたのはテラスと隣接する居間だった。ほどなくしてエレニカが紅茶と菓子を載せた盆を持ってきた。菓子はリンも知る帝都中心部の有名店のクッキーだ。レイクの勧めに応じてリンはしばし控えめな甘さを堪能することにした。


 場に穏やかな空気が流れたのを見計らったようにレイクが切り出した。


「さて、話は昨夜の一件についてかな?」

「はい、単刀直入に申し上げます。私はあの事件を独自に調査しようと思っています。そして、貴方にも是非手を貸していただきたいんです」


 レイクは予想していたと言わんばかりに頷いた。


「噂に聞く君の性格からして黙っているような性分ではなさそうだからね。命を狙われたからには黒幕を突き止めて自分の手でけりをつけたい。そうだろう?」

「ええ」

「“暴れ馬”ってのは女性の渾名にしては酷いと思ったけど、意外に似合っていそうだ」

「褒め言葉として受け取っておきます」


 レイクは面白そうな顔を一転して真剣な表情へと変えた。

 それを見て思わずリンは全身の筋肉を強張らせた。


「それで――俺に協力してほしいというのはまたどうして? 誰かに協力を頼むなら他にも当てがあるんじゃない? クレファー伯爵家ならその点候補はいくらでもいそうに思えるけど」


 リンは緊張を抑え込むため深呼吸した。マオにレイクのことを訊いた時もそうだった。彼について何かする時にリンはそうした感覚に囚われる。それが何に端を発するのか彼女は理解していた。


「昨日の暗殺者、警察はまだ素性を掴めていないそうですね」

「今のところ分かるのは年齢くらいだからね。遺体を詳しく調べれば身体的特徴から手掛かりが得られるかもしれないけど――」

「レイクさんはあの男の正体に心当たりがありますね?」


 レイクは黙った。リンは構わず話を続けた。


「遺体の首の辺りを調べた時にレイクさんは何かを見つけましたね。声にこそ出しませんでしたが目つきが鋭くなっていました。あの後私もこっそり調べたんです。すると遺体の首元から肩にかけて刺青が彫ってありました」


 リンが遺体を調べたのはレイクが公衆電話から通報している間のことだ。服に隠れて見え辛かったそれを街灯を頼りに確認すると、蔓と花の刺青だと分かった。


「幼い頃に家庭教師から教えてもらったことがあります。あれは西部の森林地帯に住む部族特有の刺青で、成人した時に彫ると云われているものです。あの暗殺者の身元を特定する有力な手掛かりになるでしょう。ですが、レイクさんは刺青について言及しませんでした。今も身元特定の手掛かりはないという体で話していましたね?」

「……参ったな」


 レイクは苦笑すると頭を掻いた。それから降参するように両手を挙げた。


「君の思っている通りだ。俺はあの暗殺者の正体に心当たりがある。ただ、口外していいような内容じゃなくてね。あの場では言えなかったんだ」

「……ひょっとして私を狙った人物の正体も掴めているんですか?」

「いや、そっちはまったく分からない。あくまで別件だ」


 レイクは顎を撫でて考える素振りを見せた。リンは彼の瞳に知的な光が宿るのを見た。


「そうだな……なあ、君は俺の協力が欲しいって言ってたけど具体的には何を求めているんだい? 暗殺者の素性を訊き出したいだけってわけでもないんだろう?」


 来た、とリンは内心跳び上がった。いい具合に話が転がったのを逃すまいとして熱の籠った口調で語りだした。


「ええと、その、レイクさんに私と一緒に行動してもらいたいんです」


 レイクは目を丸くした。


「あの暗殺者はなかなかの手練れでした。あの力量は帝都の騎士団でもそう太刀打ちできる人はいないでしょう。そして、黒幕が私を狙うのを止めないならまた誰かを送り込んでくるでしょう。しかし、次も昨日のように対処できるとは限りません。無傷で勝てたのは運が良かっただけです。次は失敗を踏まえた上で確実に私を殺せる者を選ぶはず。そうなれば私も勝てるかどうかは……」


 リンは己の強さには経験に裏打ちされた自信があった。幼少期から培ってきた肉体と技術は誰にも否定することはできない。

 だが、それでもリン・クレファーという人間は決して誰にも負けないわけではない。彼女の剣の師ヴァイス・ベスナーには未だに剣術で及ばない。第三皇子ソルも研鑽を続け追随している。他にもまだ見ぬ達人は広い帝国の地に大勢いるだろう。


「そこでレイクさんの力をお借りしたいのです。私一人では難しくても貴方と合わせて二人なら別です」


 レイクはふむと小さく呟いた。肯定もせず否定もせず興味深そうな眼差しをリンへと向けた。


「昨夜の貴方が見せてくれた技術には目を張りました。小石を魔術で強化して飛んでくる針に命中させた正確性、剣を振るう際の腕の動作。それに一見すると穏やかに思える態度なのに、貴方からは気圧されるような殺気が放たれていた。とても道楽者と揶揄されている人間の動きではない。ともすれば|私よりも強い(・・・・・・)」


 リンは昨夜の出来事を思い返した。小石を飛ばした後に現れたレイクに対して戦慄を覚えた理由は彼の強さを本能的に理解したからだった。あの時のレイクは暗殺者が何もしてもすぐに殺せるようにしていたのだ。リンはその殺気を無意識に感じ取っていた。


「だから、俺と一緒にいればどんな敵が来ようとも対処できると考えたわけだ」

「はい、そして敵を生け捕りにして情報を吐かせ、私を狙う首謀者を追い詰めるというのが私の考えです」


 広い帝都をやみくもに探しても成果を得られる保証はない。

 そこで敵が狙う獲物自分を囮にすれば信頼できる情報源が向こうからやって来るとリンは考えたのだ。


「成程ね」


 レイクは一言そう述べると腕を組み、椅子の背もたれに体重を預けた。

 リンは緊張した面持ちでレイクを見つめた。

 無茶を言ってる自覚はあった。自分と彼の実力なら策を成功させる見込みは十分にあると思っていた。それでも面倒事に巻き込むことに変わりはない。真っ当な人間なら進んで面倒事に関わりたいなど思わない。

 自分のやり方を優先して他人を振り回す。それは悪意を持って広められた彼女の噂と一致していた。


(噂の中にも真実があるということでしょうね)


 リンは冷たく己を客観視した。自分は元来そういう人間なのだろう。今まではそれでうまく回っていただけに過ぎない。いずれどこかで綻びが生じていたに違いない。


 それでもリンはレイクの力を借りたいと強い感情を抱いた。


(私は彼のような人間を初めて見た。私と同じように力を持ち、人を恐れさせることができ、それでいながら私とは違う存在)


 世間はレイクを道楽者と評す。怠惰で享楽的な放蕩息子だと。

 だが、それはレイクの本質ではない。リンは昨夜のパール公園で見た彼の姿が隠された真実であると直感していた。


 レイクはリンの顔を真っ直ぐ見つめた。

 それに応じるようにリンも見つめ返した。

 柱時計の音だけが部屋に反響していた。


「いいよ、引き受けよう」


 挑戦的な笑みを浮かべてレイクは言った。

 リンの顔に安堵の色が広がった。


「ありがとうございます!」

「ま、こちらとしても利のある話だからね。それじゃあ昨日の暗殺者の正体について俺の知ってる限りで話そうか」

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