アクジャバⅡ
空は薄く青に透き通っている。タスハリは冬の枯れ野で回っている。二人の子どもを肩に担いで回ってみせている。寒空の下、タスハリによく似た二人の子どもははしゃぎ、タスハリも日に焼けた顔で照るように笑っていた。
アクジャバ・バクシはそれをずっと見ている。この景色さえ手に入れば、それでよかった気がしていた。
季節は巡る。一巡し、二巡し、五巡する。アクジャバは空白の枯れ野を見つめている。そこにかつては幼かった、タスハリによく似た二人の少年がやってきた。サハルとサハルタイ。タスハリの息子たち。サハルが不思議そうに口を開く。
「バクシは何をご覧になっているのですか」
アクジャバは枯れ野に目を囚われたままだ。
「君たちのお父上を見ていた。君たちを肩に乗せるお父上を」
サハルとサハルタイは互いに目を見合わせる。今度はサハルタイが口を開いた。
「バクシ、父上がお呼びです」
「わかった」
アクジャバは、タスハリがいる天幕まで一人で歩く。なだらかな登りの道。小さな天幕が並んで、その向こうにタスハリの大天幕が見える。冬の草原は空気が乾いて、驚くほど冷えた。冷気は外套を通り越して、アクジャバの身体に染み入る。一年が巡るほどに、寒さが耐えがたくなっている気がする。或いはこれが老いということかもしれなかった。アクジャバも彼の人も、まだ三十半ばにもなっていなかったが。
アクジャバは大天幕の入口に立って、中に声を掛ける。
「アクジャバが参りました」
「よく来た。入れ」
アクジャバは入口を開けて、天幕の中に入る。中にはタスハリだけがいた。タスハリは髭をたくわえ、日に焼けた顔には彼の年齢以上に細かな皺を刻んでいた。タスハリが手招きするので、アクジャバは天幕の奥まで入って、タスハリのはす向かいに座った。タスハリは鞘に入った刀を撫している。
「アクジャバ、そろそろビヤラ部を攻めようと思う」
「それは、時機としてはよろしいでしょう。趨勢は既に固まっています。しかし、ビヤラ部を攻め、平らげたとて、衆人を食わせていく公算がおありですか」
この五年で、タスハリ率いるシルメン部はビヤラ部を除く草原の全ての部を平らげていた。しかし、問題になったのは、帰服させた他の部の人間を、シルメン部とともにどう食わせていくかということだった。
征服して配下が多くなればなるほど、食糧の確保が難しくなる。元々、オルホジャの草原はそこまで豊かな土地ではない。この上、ビヤラ部まで攻めては、それの繰り返しになることは火を見るより明らかだった。
「既に火の車は回っておるのだ、アクジャバ。ビヤラ部を平らげ、名実ともにオルホジャのハンになったところで、お前が危ぶんでいるように、衆人すべてを食わせるには足りない。しかし、立ち止まれば、成すところなく今いる配下を飢えさせる。それは人の上に立つ者として許されることではない」
「では、ビヤラ部を平らげた後はどうするというのですか。」
「決まっていること」
タスハリは刀の鞘に手を掛けたまま、アクジャバを見た。
「ターリークを攻め、オルホジャに近い街から落とし、それでも足りなければアルダーグを陥とす」
「……それでも足りなければどうなさいますか」
「それでも足りなければ、海の向こうまで平定しようぞ」
アクジャバを見るタスハリの目には一片の狂気もない。そして、些かの投げやりの色もない。タスハリは、本気でそれをやる気でいる。それが己にはできるのだと信じている。そして、そうしなければ、みすみす配下を飢えさせるのも確かだった。タスハリたちは、配下にした者すべての腹を満たすまで、力の及ぶ限り戦闘と掠奪を繰り返しながらこの世界を征服するしかない。
タスハリの手にも、服に隠された身体にも、無数の傷跡がある。刻まれた皺がタスハリの苦悩を伺わせる。身を燃やしながら戦い続けた五年間だった。タスハリは、アクジャバが作った物語に従って、ついに草原に覇をとなえようとしている。平定を繰り返すうち、配下の人間も、ついにはあの物語を信じた。アクジャバが作り出したあの荒唐無稽な物語を。そして、タスハリに、この草原すべてを統べるハンであることを求めた。これは、そもそもタスハリの願望だ。だが、物語がさらに彼の運命を駆り立てているのも事実だ。
アクジャバはこの頃よく考える。自分があの物語を作らなければ、こうはならなかったのではないかと。タスハリはシルメン部の長にとどまり、他の部との戦いはつづいたかもしれないが、こうまで呪われた道を行かなくても済んだのではないか。
「お前が考えていることはわかる」
タスハリとアクジャバの目が合う。この五年で初めて合った気がするほどに、真っ直ぐに互いの視線が注がれている。
「俺は生まれてこの方、悔いたことがないのだ。確かに呪われた道であろう。だが、俺は今かくあるよりも、オルホジャの九つの部が永遠に争い続けている方がよかったとは決して思わない」
タスハリは太陽と時のはたらきですっかり固くなってしまった顔で、なおも笑った。
「お前の主はハンであり、お前はハンの命に従った。故にお前が悔やむ必要はなく、お前はお前の仕事を末代まで誇ることができる」
アクジャバは俯いた。
「最後まで付いて来い、アクジャバ」
「――はい」
アクジャバの脚に涙が落ちた。
アクジャバの物語は増殖する。語られ、増え、時にかたちを変えながら、より語りやすく聴きやすく変貌し、子どもが丸く手を繋いで回る時に口ずさむ歌にさえなる。草原をさざめきのように、風に光る波のように、溢れる臓腑のように広がっていく。
炎の中で、タスハリが刀を振りかざし、勝鬨を上げる。部衆から歓呼の声が上がる。ビヤラ部は平らげられ、オルホジャの草原は一つになる。そして、タスハリはハンとして、彼が生まれた広大な草原の覇者となる。
アクジャバは、それをずっと見ている。
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