ゆゆしき身なれど

 ──世間ではいろいろ云うけれど、さかしき者はひらめきたる科白せりふしか語らない。しかれど人の口に戸は立てられぬ。肯綮こうけいあたれば、骨はちても名は朽ちぬってね。



 田宮家の帰り、結之丞は聞き覚えのある声に足をとめた。鹿島屋の垣根と小径こみちのあいだに、長い黒髪の男がたたずんでいる。西洋の外套マントと黒いスーツを着こなしているため、遠目からは異人のようにも見えた。結之丞の位置では逆光につき、男の顔までは確認できなかった。ひらりと外套の裾をなびかせ、曲がり角へ吸いこまれるように消えた。


「行ってしまった……。今の人、誰なんだろう……」


 どこかでいちどっている気がしたが、いくら考えても思いだせなかった。番頭に背負われて眠る千幸かずゆきは、囈語うわごとのように……まいあがりつれ……まいあがりつれと、くり返している。慈浪じろうとしては、眉をひそめるしかない。昔から、意識が遠のくたび、呪文のようなことばを発する千幸だが、あとで本人へ訊ねると、ふしぎそうに首を傾げるばかりで、なにもおぼえてないと云う。


 人目を避けて勝手口から若旦那を寝室へ運びいれた慈浪は、布団のうえに躰を横たおらせると、着物の帯をほどいてえりをひらき、呼吸を楽にさせた。白い肌の表皮へ、筋のように浮きでた鎖骨に目が留まる。千幸は、女中が作った食事を残すことが多かった。まるで、人間の食べものでは栄養不足であるかのように、幼いころから、いくら食べてもせていた。


「おまえはいったい、何者なにものなんだ」


 死人しびとのような顔をして眠る若旦那の存在に、番頭の心はひどくざわついた。かつて、大旦那と抄子しょうこが納屋で口争くちあらそいをしているところを横切った慈浪は、思わず扉に近づき、耳をそばだてた。



 ──そう、あわてちゃならんよ。起こるときには起こるってのが世のつねだ。──あれ、、手下てかに知られては困るのよ。わたくしはね、万にひとつでも、恩を仇で返される羽目はごめんなの。いっそのこと御蔵おくらに閉じこめて、見張りを立てるべきではなくて。


 なにを云う、それはならん。よいか、この件に関しては今輪際こんりんざい、口だし無用である。あれ、、の世話に適した男を、わざわざ探してきたのだ。なにか起きたとしても、すべての責任はあの者にかぶせるのが得策であろう。先祖より受け継ぐおたな安泰あんたいこそが、なによりも重要なのだ。……そんなうまいこと云って、あれ、、は……の子でしょう。いいの、はっきり告げてちょうだい。どうせ、わたくしは跡継ぎが産めないからだなんですもの。ええ、そうよ。すべては、わたくしが招いた結果なの。



 大旦那と抄子のあいだに、子どもはいなかった。千幸は、どちらの血筋ももたぬ養子などではなく、大旦那がめかけに生ませた息子だった。鹿島屋の跡取りを身ごもった妾は、千幸を出産後、行方ゆくえ知れずである。抄子は、妾の子に愛情を示すことはなく、赤ん坊の世話は大旦那が雇い入れた若き新右衛門しんえもんに押しつけた。


 ほかの誰でもない。ずっと、慈浪が育ててきた。今もなお、いちばん近くで成長を見まもっている。番頭にとって千幸は、生涯をすにあたいする存在になっていた。


「おまえは、おれの子も同然だ」


 鹿島屋に身を捧げる慈浪の真意は、大旦那への忠誠心によるものではない。



〘つづく〙

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