第3話蟋蟀亭にて

白銀の耐熱スーツに身を包んだボリス・エフレーモフ大佐は、広漠とした荒野を踏みしめながら歩いた。ふと空を見上げると故郷の地球からみるよりも何倍も大きな太陽が空の半分を埋め尽くしている。柔らかな陽光などという言葉は、生まれついてからここに暮らす者にとっては理解不能なレトリックであろう。太陽とは、この水星にとって強大で暴虐な支配者以外のなにものでもなかった。腕の温度計はプラス一〇〇度を指す。耐熱スーツなしでは、全身の皮膚は焼けただれ、血液は沸騰して死に至る。

「大佐、このあとはどうされますか?」

 ボリスにつきしたがって歩く副官のアンドレイ・ザエテフ中尉が声をかけた。彼はオリーブ色の軍服のみの軽装であった。袖をまくり上げ、朱色の皮膚があらわになっている。彼は地球人と水星人のハーフであった。水星人はかつて法の上で家畜とされ、その地球人との交配など起こっていいものではない。しかしそんな実態を無視した法を現実が遵守するいわれもなかった。地球人と水星人の混血はドラスティックに進んだ。特に男性比率の高い水星駐留軍の兵士たちは、それに大きく貢献したらしい。水星人の女性たちも苦しい生活を抜け出すための手段として盛んに売春を行った。その結果生じた私生児たちのあまりの多さに地球本国政府も無視するわけにはいかなくなった。またこの当時別の問題も生じていた。水星駐留軍の兵員不足である。ひときわ辺境であり、気候もおおよそ人の住むべき場所ではないこの惑星を任地にと希望する変わり者などいるはずもない。そこで苦慮の末、混血児のみ軍務とその関連業務に限り従事してもよいという法案が国会において可決された。この法案は当時としては二つの問題を一挙に解決する良案であったが、同時に水星支配の弛緩をあらわすものでもあった。最初は兵卒に限定されていたものの、いつしか佐官にのぼるものまであらわれた。専門の学校までつくられ、教養を身に着けた混血の水星人たちがあらわれた。アンドレイもそんなひとりである。

「そうだな、蟋蟀亭に行こうか。お前もどうだ」

「そうですね、ごちそうさまです」

 おごってもらう前提のアンドレイにボリスは苦笑した。しかしこの甘え上手の副官のことを彼は決して嫌いではなかった。アンドレイの方でもボリスのことを信頼しているらしく、本来水星人しか受け付けない闇の飲み屋である蟋蟀亭に紹介してくれたのも彼だ。とかく対立しがちな地球人と水星人においては、珍しい関係性であった。

闇市の一角にある蟋蟀亭は、まだ明るいというのに酔客で混み合っていた。もっとも水星の自転周期によって地球基準で八八日間昼間が続くので当然であったが。ボリスとアンドレイが席に着くと地球産のウィスキーのロックと名物の培養細胞のフリッターが注文せずとも出てきた。すっかり二人は常連である。水星産の密造酒は安いが、舌の肥えたボリスにとっては飲めたものではなかった。飲み屋の中は冷房が効いており、耐熱スーツの必要のない涼しさである。水星人は高温に耐えられるというだけで高温を好むわけではない。

「やっぱり酒は地球のものに限りますね」

 ボリスの影響で高い酒を好むようになったアンドレイが言った。もっともほぼボリスのおごりであり、悪影響は彼の家計に表れていた。

「お前もついに酒のよしあしがわかるようになったのか、生意気だな」

 ボリスは大げさに驚いたように言ってアンドレイをからかった。アンドレイも応戦する。

「上官の薫陶のおかげです」

 ふたりは顔を見合わせると大いに哄笑した。グラスも空いて、酔いも回ってきた。

「やあ、ふたりともひさしぶり」

聞きなれた声の方を見ると長身の男が立っていた。やや癖のある金髪にやさしげな目鼻立ち、そして線の細い身体。彼の名はウラジミール・アシモフという。水星人向け軍幼年学校の教師であった。

「おおヴァロージャ、ここに座れよ」

 ボリスは席を空けて、喜色満面で彼を迎えた。ヴァロージャは、ウラジミールの愛称である。

「ああ、ボーレニカそうするよ」

 ウラジミールもボリスを愛称で呼んだ。そして水星産のウォッカを注文する。彼はボリスがどれだけ勧めようともかたくなに故郷の酒をたしなんだ。かといってボリスの趣向を否定することもなく、ただ静かに笑うばかりだった。

「なあ、ボーレニカ、アンドリューシャ、どうして最近来なかったのだ?」

「ああ、忙しくてな。なんでも司令官が鉱山探索に従事している水星人に軍事訓練を施すと言い出したのだ。それで各所にまわって監督していたのさ」

「それは大変だったろう、ふたりも同胞の水星人も」

ウラジミールは、本当に気づかわしげだった。ボリスは友人の美点を再確認して、なんだか誇らしい気分になった。

「ふたりには悪いが、軍隊や戦争などというものは本来必要のないものなのだ」

ウラジミールはきれいごとをなんのためらいもなく口にする。それは出会ったころから変わらない。ボリスは彼との邂逅に思いをはせる。一年ほど前のことであった。

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