5. 障碍と、障害と障がい

 よくひとは、「障害」の害を嫌い、「障がい」とあえて表記することがある。

 理由なんて、簡単なこと。

「害=悪」のような、悪いイメージを抱きがちだから。


 けれど調べてみると、大元は「害」ではなく「碍」であった。

 元々、「障碍」と「障害」は、明治以降の一般社会でほぼ同じ意味で使われていた。

 しかし戦後の当用漢字表やその後の常用漢字表に「害」の字のみが入るなどして、「障碍」という表記は少なくなっていったとか。

(簡潔に言うなら、「難しい漢字は避けましょう」のような内容)

 障碍の「碍」(がい)であったこの字も、音で「害」にされ、今「がい」にされつつある。ちなみに数年前から、ある地方では「碍」に戻すべきだ、という試みもあるとのこと。

 その「碍」の本来の意味は「何かしたくてもできない状態」となる。

 できることが健常者と同じとは限らない、という考え方をすると、もしかしたら、最初の「障碍」のままのほうが、まだ「障害」より反感はなかったのだろうか、とも思う。


 そのように、障害は最初から意図して「害」の字になっていたわけではない。

 言葉やその意味というのは、なにかの発端でねじ曲げられることが多々ある。


 前々から、私はこんなことを思っていた。

 障害と障がい。まるで、

「見た目で毒キノコに間違えられやすいが、食べられるキノコのようだ」、と。

 その最たるキノコは「コウタケ」などと呼び「香茸」と書く。見た目は歪だがじつはとても希少で、その味は松茸を越える、とも言われている。


 それに、こうも考える。

 なにを基準にして、「害虫」はなにを指すのか。

 その時により、その用途により。

例えば。蜂には針があり、種類により危険だが、ミツバチはハチミツを獲るために飼育されている。

 ネズミは、一般では厄介者だが、研究では「マウス」や「ラット」として実験に用いられている。

 犬や猫などの動物は、人の手により

品種改良されて、種類が増えた。

 それらは全て、人間の行うことだ。


 それだけ、なにを善悪と呼ぶのかは、そう簡単には名付けられるものでもない。角度が変われば、その真逆にもなり得る。

 どうにも人間は、品種改良などと言いながら、その結果自分たちで、様々なものを縛っているようにも見える。


 ひとは「目的」や「結果」ばかりを求めるが、それら全てを明確にする必要は、はたしてどこまであるのだろうか。

 そんなことを、ふと思うのだ。

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