夕暮れ時が終わらない

けものさん

第一話『かくして凡才は今日も描く』

 結局の所、俺が君達に出来る事は何なのだろうなと思いながら、屋上から昇る紫煙を燻らせていた。


 一介の美術教師。しかもこのたった二人しか所属していない美術部の顧問をする為だけにこの高校に来ているような、画家崩れの俺が、才に溢れた若者に言える事なんて、そう多くはない。

「でもまぁ……片付けまでが絵描きの仕事って事くらいは、そろそろ言ってあげなきゃな」

 俺は吸いきった不味い煙草を携帯灰皿の中でグシャリと潰し、もう用務員と自分しか残っていないであろう高校の屋上で、煙草の煙よりかは幾らかマシな、夏の夜の生温い空気を胸に吸い込んだ。


 置きっぱなしにしてある二つのキャンバスは、今日も空模様を描いている。きっとあの二人は意固地になっているのかもしれないな、と笑いながら、いつものように対称的な二枚の絵を眺めた。

 暗がりでも明らかに洗練されている色彩は、薄ぼんやりとした月明かりを浴びてまた味わいが変わっていた。これを自分達で味わえないあたりが、あの二人が子供たる所以なのだ。

 ただ、それを創り出してしまえるあたりが、あの二人を子供だと侮る事が出来ない所以でもある。


「片や雅号まで一丁前、片や油絵の具の叩きつけ。天才も種類が違えばこうなるか」

 一人ぼやきながら、俺は二人の天才の作品に傷を付けないよう、だけれど慣れた手付きで二枚の絵をキャンバスから剥がす。

「アイツらは描く事以外何も興味ねぇもんなぁ。早鐘ハヤガネ樋廻ヒバサミも……俺はお手伝いさんかってんだよ!」

 夜空は小さく響く俺の愚痴を吸い込む。けれど夜空も煙草の煙を吸い込むよりはきっとマシだろう。

 しかし、それでも俺はこの環境に甘んじるのが幸せでもあった。


 何故なら二枚のうち一枚の絵画は、青い空というその一瞬の瞬間を丸ごと切り取ったかのような写実的な風景。絵画を、美術を愛して写実主義を貫く秀才少女の描いた絵だからだ。

 まるで、夜に青空があるかのように、光り輝いて見える。


 そうして、もう一枚の絵画は、移りゆく空の色を全て混ぜ合わせたような、色彩の連なった抽象的な風景。美術も何も知らないままただ筆を動かし続けて、自ら印象派に辿り着いた天才少年の描いた絵だ。

 まるで、描かれていない夜空があるかのように、鈍く輝いて見える。


 この二人は、将来必ず凄い画家になる。

 その凄い画家ってやつになれなかった俺が、その凄い画家になった俺の兄を見てきた俺が、ハッキリとそれを感じている。

 俺はその二人の、成長の一途を眺める事が出来る。それが妙にくすぐったくて、嬉しかった。


 アイツらには絶対に言わないけれど、始めて美術教師になって良かったなって思っていたんだ。

 だけれど美術教師として教えられる事なんざ何も無い。それでも、今日の二人のやり取りを思い出しながら、明日二人に伝えるべき事を、ゆっくりと考えていた。

「今日ももう良い飯屋は開いてねえなぁ。牛丼でも食って帰るかね……」

 あいつらは俺が叱りつけるまでいつまでもこの屋上で絵を描き続ける。昼休みも、放課後も、放課後が終わっても、夜になりはじめても。

 

――だから、二人はずっと夕暮れ時が終わらない。


 下校時刻を大幅に過ぎているのは、学校側として許されない事だ。だけれどそれが許されているのは、二人の画家としての才能を、学校そのものが認めているという事。

 一応は俺も画家崩れ。画家『ダテ真二シンジ』という名を世に残せているわけではないが、未だに毎日筆を取って、時折画展に挑戦するくらいの事はしている。

 そんな俺が指導しているという体であれば、学校としても融通を効かせてくれるらしい。


 部員はたった二人、見学に来る生徒もいるにはいた。だけれど部員はたった二人だ。

 適うわけがない、同じステージには絶対に辿り着けないと、生徒達に審美眼があろうと無かろうと、二人の絵を見て筆がへしゃげてしまうのだろう。少しだけ可哀想になりながら、俺はこの部活を特別美術部と名付けてもらい、普通の美術部を学校に作ってもらう事を提案した。


 そもそも、ステージに辿り着けないという点では、俺ですらそうだ。歳を重ねているだけで、二人の絵よりも感動を産める作品など、描けたことが無い。

 だけれど二人は、絵は描けるが、それ以外の沢山の部分が欠けている。

 秀才と天才だけは、唯一張り合えた。だけれど画家になるという事は、同時に大人にもならなければいけないという事だ。だからこそ、二人は俺から見れば当たり前だがまだ子供だ。絵の技術は敵わないが。


 今日だって相変わらず早鐘ハヤガネ利愛リアは偉そうに、樋廻ヒバサミシルシは気怠そうに、それでも目だけは真っ直ぐと前を向いたまま、俺をパシらせていた。しかし絵画の神様に愛された子の筆が止まるよりかは、暇な顧問が食べ飲み物くらいの買い出しに行った方が良いのか理にかなっちゃあいる。

「でもま、そこらへんを上手く正してやるのが大人の仕事なのかもな」

 俺は二人の絵をそっと屋上に作られた特設倉庫に仕舞う。この二人のだけにどれだけ金をかけるつもりなのだろうか、この学校は。


「夜は大人の時間、つっても、怖えな夜の校舎」

 俺は思わず煙草を取り出しそうになって、流石に誰も見ていないからって屋内喫煙はまずいだろうと、くしゃりとポケットの中で柔らかい箱を握った。屋上はまぁ、とりあえず見逃されてはいる。早鐘ハヤガネには怒られるが。

 俺はそそくさと戸締まりを済ませて、高校を後にする。

「さぁって、今日は何を描くかね」

 二人が帰った後は、少し独り言が増える。それはきっと、俺もまたあの空間を楽しんでいるのだろう。


 牛丼を流し込み、ボロ屋に帰って、火をつけない煙草を咥えながら、俺は今日も絵を描いている。

 眠る時間を削って、売れない絵を、認められない絵を描いている。

「俺も、コイツと向き合わねえとな」

 アイツらは、絵とも、アイツら自身とも向き合わないといけない歳頃だ。

 だけれど俺は、いつまでも絵だけと向き合い続けている。


 天才にも秀才にもなれない。けれど諦められない凡才の呪いが、今も俺を絵に縛り付けている。

 けれど俺は明日、二人の天才の顔を見るのが妙に楽しみだった。

 何故ならまた、あの天才達と同じ場所で、沢山の空を見られるからだ。


 それがどうにも、認知を歪ませている気がして、多少の自己嫌悪を飲み込む。

 ギュッと煙草のフィルターを噛んで、俺はキャンバスから少しだけ離れ、筆を持つ腕を伸ばして、紙を切り裂くように、一本の線を奔らせた。

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