第8話 女の憂鬱 side沙智

  はぁ〜だから嫌だったのよ、真面目すぎる男って。哲夫さんから奥さんに不倫がばれたと電話を受け、私は深いため息をついた。


 あの時キスしなければ。連絡先なんか交換しなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。そんなことを考えたところでやり直すことなんてできない。人生こんなことの繰り返し。


 でもあの日忘れかけていた女としての本能が熱く反応してしまったのは事実。初めて会ったときから、哲夫さんの熱い眼差しには気づいていた。一緒にいる私をいつも優しく見つめ、宝物みたいに大切に扱ってくれる哲夫さん。いつしかその感覚が病みつきになって、また泥沼の不倫関係に身を投じてしまった。


 決して誰かを傷つけたかった訳じゃないのに。哲夫さんを愛していた訳でもないのに。もちろんスリルやお金が欲しかった訳でもない。ただただ愛されている実感が嬉しかったそれだけ。


 そんな自分勝手な理由が罷り通らないこともわかっている。牧さんの怒りを受けとめること以外私にできることはない。


 ただ私はこんなにも愛してくれる奥さんがいるのに、私なんかに溺れ離婚までしようとしている哲夫さんが許せなかった。慰謝料を請求されたら僕に相談してくれって。どこまでお人好しなのよ。恐ろしい程一気に冷めてゆく自分が少し無情にも感じる。



─頼む。もう一度会いたい。


 哲夫さんからのメールは、あれからも毎日私のスマホを揺らしている。


─離婚しようと思う。待っててくれないか。


─もう僕がキライなのか?


─愛してる沙智さん



 もうウンザリだ。牧さんを傷つけてしまった時点でこの不倫は終了。そんなこともわからない人だとは思ってもみなかった。私からサヨナラを突きつけなければ。


 2日ほど全く返信をしなかった私は、哲夫さんに最後のメールを送った。


─今までありがとう。

 さようなら。


 哲夫さんからの返信を待たずに、私は完全にブロックして彼を拒否することにした。私のスマホにもパソコンにも哲夫さんとの写真や動画などひとつもない。さよならのスイッチを押すだけで終われる恋だった。



 こんな私にもただひとり忘れられない人がいる。この子をお腹に宿し、私は彼のもとを去ってしまったけれど、今でも彼への想いだけは変わらない。たとえ違う男の腕に抱かれても、私は誰にも愛を囁くことはなかった。


 彼は私より2歳年上の建設会社の社長。私は経理としてそこで働いていた時のことだった。人手不足もあり残業も多く、時々仕事終わりにふたりで食事に行くようになった。その頃私には年下の彼氏がいたが、社長の頼りになる男らしさとさり気ない優しさに当たり前のように惹かれていった。


 ある日私は仕事で大きなミスを犯してしまい深く落ち込んだ。取引先にも一緒に頭を下げに行ってくれた社長。書類整理も終わる頃には夜中の1時を回っていた。事務所の掛け時計の針の音がやたら大きく響いていたのを憶えている。


「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」


「もう大丈夫。お疲れさま」


 彼の大きな手で頭を撫でられた時、不覚にも涙が止まらなかった。安心した途端、緊張の糸がプツリときれた。笑いながら泣く私を彼は微笑みながら見ていた。


「困った人だ。そんな顔を見せられたら俺の理性も危うく飛んでしまいそうだよ。できることなら別の形で出会いたかった」


 そう言うとそっと私にキスをした。軽く唇に触れるだけの優しいキス。一瞬の出来事だったけれど忘れられないあの日の想い出。


「こんな形でも社長の側にいたいって思っちゃダメですか?」


 うつむく彼の横顔を見つめ私は呟いた。


「俺にはずっと相棒として支えてくれた嫁がいる。彼女を裏切れ……」


 私は彼に近づきその言葉を唇で強引に塞いだ。溢れる気持ちを抑えるのは私も我慢の限界だった。すると彼は立ちあがり、それに答えるように事務所の電気を消した。


「俺ももう引き返せそうにない」


 真っ暗い隣室の接客用のソファに私を押し倒した。彼の荒くなった吐息が首元にあたる。


「とても綺麗だ。強く抱きしめたら壊れてしまいそうなほどに」


 彼はいやらしく私の素肌に舌を這わせる。


「ねぇこのまま壊して。あなたの腕の中でなら構わない」


 あの日からずっと私の心は彼に囚われたままなのだ。彼は一度は奥さんを選んだけれど、未来はいつ変わるかわからない。私は今でもずっと彼を待ち続けているのだ。


 彼の元を離れ3年程たった空の2歳の誕生日に一度だけ送られてきたプレゼント。中にはクマのぬいぐるみと手紙が添えられていた。手紙の封を開くと癖のある彼の文字が並んでいた。


「愛する沙智。僕達の天使は元気に育っているかな?俺は今でも君のとなりにいること忘れないで」


 懐かしさと喜びのあまりぬいぐるみと手紙を抱きしめ涙が止まらなかった。


 ねぇ海斗。空は日に日に驚くほどあなたにそっくりになってゆくわ。早くあなたに会いたい。その腕に抱きしめられたい。


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第8話を読んでいただきありがとうございます。

明日も15時更新予定です。

 


 


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