重解

序節

蝉が鳴いていた。もう夏か、と身体が暖を求める。やがてそれが幾月待たずして遠のいてゆく。

 

 秒針の針が四半も回らぬ内、それは耳鳴りにキリギリスの声が混じって、私の脳が蝉の羽音へと変じた幻聴なのだと気付かされる。ハッと見開いた瞳に飛び込んでくるのは眩い光。やがて、見えてくるボヤケた輪郭に、それが点けっぱなしの電灯である事を知る。消そうという意思が働いたわけでもなかった。ただ、飛び起きる勢いに任せ、上体を起こす。すると日頃の無理がたたって、くらくらと回り始める視界があって、その次に吐き気と頭痛が一遍に襲い来る感覚。そうして、それらに耐えようと惨めに背を丸め、立てた膝の間に頭を埋める哀れな私がいた。

 

 ──嗚呼、最悪だ。

 

 態々、そんな言葉を意識の表層に浮かべずとも分かりきっている。けれど、それを改めて突き付けられる事はやはり、どうしたって痛みを伴うもの。

 

 何が最悪かなんて言うまでもない。

 

 それは先まで見ていた世界が夢だということであり、それはここが紛れもない現実であるということであり、それはまだ己が死ねずにいるのだということであった。

 

 吐き出してしまえるものならば、吐いてしまいたかった。この心に溜まったヘドロと脆弱極まりないちゃちで幼稚な思考癖を僅かな喉の痛みと嗚咽を引き換えにして、取り除けるというのならば、そうしたかった。

 

 だけれども、それは叶わぬことと知っている。ズブズブに浸って腐ったこの心は決して元には戻らず、千々と散る思考の断片は頭蓋に刺さって抜けず、これは最早どうすることも出来ぬと他ならぬ私自らが知る所なのである。

 

 傷付いたのだ。傷付いているのだ。そうして、傷付けているのだ。

 

 右腕に残る、ジグジグの醜い傷痕を見る度、世界からの拒絶を私は思い出す。長さにして五センチ少々。深く、抉られたその傷を見て、己の生が如何に人を食い物にしてきたかを思い出させる。

 

 にこやかな笑みを向けられていた、あの日の朝を今も鮮明に記憶している。ふと目覚めた時に向けられた冷めた目が脳裏を過ぎり、振りかぶられたその凶刃に咄嗟に己を庇った右腕。ただ呆然と彼女の瞳はそこに突き立ったナイフを見つめ、「どうして……?」と問う。

 

 そこにある幾多もの感情を読み取ることはそう難しい事ではなく。されども汲み取るには烏滸がましく。

 

 疲れていた。追い来る影に駆り立てられるまま妄執に憑かれて、浅ましくも諦観に浸かれている自分が如何に恵まれているかを知っていた。


 神経までも貫いて、血だけが通い、麻痺した右手は罪の証。時折、存在を主張するかのようにして痛む、これは私を生かすまいとする意志の表れ。

 

 どうせ使い物にならないのならば、切り落とせばよかったのだ。どうせ、仕留めるならば腕に生えるそれをもう一度、引き抜いてしまえばよかったのだ。或いは引き抜くべきは私の方だったのか。

 

 「苦しめて申し訳ありませんでした」と懺悔し、本来穿つべきはずだった場所に己の手で……。

 

 夢の中、彼女は笑っていた。私のいない世界で彼女は幸せだった。

 

 私が、彼女を歪めてしまった。


 悔やんでも悔やみきれぬほどの後悔を抱えて、到底生きられぬと思い、未だ生き恥を晒す我が身は肌の下で蠢く蛆虫を飼うが如く。血に混じる毒は私を生かさず、殺さず。

 

 耳元で煩いほどに鳴る心音が酷く憎たらしい。バクバクと鳴り止まぬ鼓動が今も私が怯えていることを指し示す。

 

 撥ね飛ばしていた布団を掻き抱き、その不安がひたすらに消えてしまえと願う。冬の夜はあまりにも長い。

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