十七、走馬灯
母親になる、などと、全くバカなことを言ったもんだ。息子に気に入られようと肉体改造する母親なんぞいるかっ。
桃香はさんざん走ったあと後ろを振りむいたが、閑古鳥が鳴く街路に、数枚の黄色い落ち葉が風でひらひら舞っているだけだった。ハイヒールなら捕まえてもらえたろうが、パンプスだったので、まけてしまった。足が以前の数倍も長いのに、かまわず全力疾走したせいもある。この体になる前は、その体型のせいで、疾走は習慣だった。どこへ行くにも、つい小走りになっていた。運動会が大きらいだったことを思いだした。
一樹は、たんに追ってこれなかっただけだが、桃香は振りむいて待ってもいつまでも来ないので、追ってくれなかったように思えて、悲しかった。そしてイライラしてきた。
魔法使いの店長は、二十四時間で魔法が切れて元どおりになると言い、飲めばまたこの体になれる薬のビンをくれた。この姿をもし気に入られたら、効き目が切れそうになるたびにそれを飲んで持たせようと思ったのだが、とんだ誤算だった。
ポケットから取り出して、いまいましそうに見つめる。
(こんなもん、もういらんわ!)
投げたろうかと思ったが、やめた。そんな元気はない。
またポケットにしまうと、とぼとぼあてもなく歩きだした。ホテルにはガキの姿でなきゃ戻りたくない。これをまた見られるのはいやだ。疲れて、路肩にあった低い塀に腰をおろす。汚れても、どうでもよかった。一樹が気に入らない自分なんて。
しかし事前に「あなたがグラマー好きだったら、魔法でそうしてもらうから」などと相談できたはずもないから、こうなったのはしかたのないことだ。いや、しかたなくないな。この胸もお尻も顔も、みんな一樹をうたがって、ためそうとした結果だから。
「私のこと、ほんとうに好きなの? 仕事と私と、どっちが大事なの?」みたいなセリフが、ドラマやマンガで出てくるたび、うっとおしい女だと思っていたが、今は、そうやって男を責めたくなる気持ちが痛いほど分かる。
一樹は、たぐいまれな容姿と経験をしているが、中身はいたってふつうの男だ。女心に対して、じつに鈍感である。お互いに好き好き言いあって、キスしたり変なことさえしていれば、それでオッケーだと思っている、たぶん。もしほんとうに好きなのかと聞いたら、ドラマの男のように、「もちろんだ。俺を信じろ」と笑うだけで、こっちがどんなに不安で心細いかを、考えもしないのだ。しかし、あれだけの悲惨な過去を積んで、人生について悩みぬいてきた人間なら、もう少し相手の気持ちに気づく繊細さがあってもいいんじゃなかろうか。
いや、これは性別のちがいだろう。求めるほうは自分の欲望についてゆるぎないが、求められるほうは、いつ相手の気が変わって捨てられるか、という恐怖につねにおびえなくてはならない。
そう思うと、自然に口がとがった。
(なんで、こっちがこうも損しなきゃいけないんだ)
だんだん、めんどくさくなってきた。もういいや。こんな異世界にいるからって、一人で生きていけないわけじゃなし、別れたって。生活なら、いろんな町で英雄やれば食えるし、私にだって出来るもん。
考えたら、よくもまぁ、あんなめんどくさい男の母親になろう、なんて思ったもんだ。そういえば、一樹は最初からめんどくさかった。そりゃ虐待されてきたんだから人間不信や対人恐怖もしかたないが、なかなか心をひらいてくれず、捕獲した野生動物のえさの量を少しずつ増やしてやっと信用を得るがごとく、ちょっと甘えさせるのにもひと苦労だった。この世界がこうも快適じゃなかったら、果たしてこんなに上手く彼を「落とせた」か、疑問だ。もしも悲惨な環境だったら……いや、そのほうがむしろ依存しあうから、くっつくのも早かったか。
(しかし、だな……)
桃香は顔をあげ、夕日に赤くそまる雲の海を、ぼうっとながめた。
私、ほんとうに一樹のことが、すきだったんだろうか。
さいしょは離れられないから一緒にいただけで、ぐちや泣き言も聞いてやって。そのうちにあいつが英雄になったのをいいことに、そのままずるずる――。
そりゃ、財布をとったのは悪いよ。
(あれ、なんで私、財布なんかとったんだろ……)
そういえば、あの財布は、どこにやったんだっけ。身につけてないし、たぶんカバンに入れっぱなしか、もうなくしてどこにもないか――。
いきなり涙がぶわっと出て、とまらなくなった。胸がはり裂けんばかりに痛くて熱くなり、一樹の顔が、特に笑顔ばかりが頭の中をぐるぐるした。
一樹といた多くの時間。ストレートタウンで、クリーヤで、ジャポンで、そして、ここエスクリックで。初めは、なさけなくて、たよりなくて、泣いてばっかで、赤子をあやすような思いで彼を抱いていたが、時を経るにつれて、どんどんたくましく強くなっていった。気づけば、ふつうの草食系男子くらいの力と存在感を持って、隣に立っていた。そんな記憶が、次々に走馬灯のようによみがえった。
(私、しあわせだったよね……)
ふと、口もとがゆるんだ。鉛のように重く苦しかった胸が、一気に軽くなるのを感じた。
「走馬灯なんて」
立ち上がり、スカートをはたく。
「まだまだ、何十年も生きるのにね」
そうだ、そんなもん見てちゃいけない。一樹が待ってる。行こう。
だが、歩き出そうとした背に、とつぜんドス低い男の声が掛かった。
「いいや、あんたはもう、死ぬんだよ」
とたん頭に衝撃を受け、すべてが闇になった。
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