八、親父と自分の鬱話その二
一樹と桃香は、ルルとペペに乗って砂漠地帯を進んでいた。クリーヤの最南端で、外の世界から来たとおぼしき男性の姿を見た、という証言を得たため、そこから一番近い町へ行く最短ルートを、とりあえずたどってみることにしたのである。
その問題の男性について分かっていることは、やせ型で結構年配に見えること、黒い革のカバンを下げていること、ぐらいだった。顔の特徴は、ストレートタウンで彼を泊めた宿屋の主人によると、眉が太く、目は切れ長で大きく、口を一文字に結び、終始気難しそうな雰囲気だが、話すと口調はやわらかく、ひかえめな物腰だった、という。
この「眉が太く目が大きい」というところで、一樹はある人物を思い出して嫌な予感がしたが、まさか自分と同じようにここへ来るとかありえねえ、と思い直した。
「へえ、桃香には姉がいるんだ」
ペペを進ませながら、隣の桃香に言う一樹。桃香はルルの首筋を撫でながら、うっすらした笑みを向けた。
「そう、どこか雰囲気が一樹に似てるかな。そういえば、一樹にも弟いるんだよね」
「うん、優(まさる)っていうんだけど。どっか女っぽくて、まあとにかく口数が多くて、にぎやかで。わりと桃香に似てるかもな。落ち込んだときは、あいつの明るさにだいぶ助けられたんだ。俺が普通に生きてこられたのも、あいつのおかげだと思う」
「そういえば私たち、会って最初から、妙に慣れてたよね。いきなり平気で名前で呼び合ったりして」
「ああ、そういえば……」
写真から見合いの相手をえらぶとき、どうしても自分の異性のほうの親に似た相手を取る傾向がある、と聞いたことがある。やはり自分に近しいと感じる者に、自然と引き寄せられるのだろうか。
自分たちも、お互いが血を分けた兄弟姉妹を思い出させるせいで、すぐに親密になったのかもしれない、と一樹は思った。そうでなければ、出会って間もない頃は、きわめて他人行儀に、苗字に「さん」づけで呼び合っていただろう。それが、すぐに「一樹」「桃香」だ。まるで家族である。
そう思ったとき、一樹はふと気づいた。
(俺たちって、厳密にはどういう関係なんだろうか)(……恋人?)
確かに桃香は自分のことを何度も「好き」「大好き」と言ってくれる。だが、自分はどうだ。そりゃ嫌いではないし、気は合うし、彼女のおかげで心が何度も助かったことには、本当にいくら感謝しても、しきれない。でも、それはたんに「ありがたみ」であり、自分が異性として彼女のことを好きだ、ということにはならない。いや、好きは好きなのだが、彼女に恋してるかというと、そこまでじゃない。
ただ、たとえばこっちが何とも思っていない相手に告られて、まぁ嫌いでもないから、とりあえず付き合ってみました、みたいな話はよく聞くので、そう気に病むことはないのかもしれない。気の進まない見合いを押し付けられ、最初はしらけていても、付き合っていくうちに情がわいてきた、なんてのも聞いたことがある。
桃香とは何度も同じ部屋で寝起きしているが、男女の営みが発生したことは、これまでに一度もない。こっちが泣いて、抱きつかれて、そのまま寝オチってパターンはあったが、そういうときは、こっちはそれどころじゃないほど落ちこんでいたので、変な気持ちになど、なりようがなかった。桃香が幼児体型だったってのもあるが、もし相手が、とんでもなく性欲を喚起するボディをしていたとしても、やはりダメだったろう。いや、むしろグラマーであればあるほど、こっちはますます萎縮するだけだったと思う。
だが、ぱっと見は小学生でも、桃香の中身は大人の女である。この先、俺が彼女に恋心を抱いたら、その身体にも女を感じるようになるんだろうか。
「……なあに、じーっと見て」
きょとんとして言うので、一樹はあわてて目をそらせた。
「べ、べつに。なんでもないから」
まずい、うっかり見つめていたらしい。照れて顔が熱くなったが、それは女がどうとか考えていたせいではなく、たんにぼーっとしていたのを指摘されたのが恥ずかしかっただけだ。
しかし相手はそう解釈しなかったようだ。
「ふふふ、私が可愛すぎて見とれるのも無理ないけど」と、にっこりする。「前、見てないと危ないわよ」
確かに動物に乗って移動中に、横を見ていたら、何かとぶつかるかもしれない。一樹は苦笑した。
砂漠に、けっこう大きい岩山があった。ごつごつした岩肌に、ぽっかりとあいているほら穴を発見し、今夜はそこで明かすことにした。
ところがルルとペペを岩の突起にひもでつなぎ、いざ入ろうとしたとき、穴の入り口にいつの間にか人が立っている。たったいま、中から出てきたのだろうその男は、聞いていた証言そのままの、眉の太い、やせてひょろっとした初老くらいの男だったが、一樹にとっては忘れようにも決して忘れられない人物だった。そして、ここへ来る前から、もしや彼なのでは、という漠然とした予感すらいだいていた。
男は二人を見るや目を見ひらき、二人を交代に見た。一樹の顔を見ると、懐かしむと同時に、なにか悲しむように目を細め、ひり出たしゃがれ声にも、表情と同じ深い感慨がこもっていた。
「一樹か……」
「お……」
親父、と言おうとして、止まった。彼の中にたちまち渦巻いたどす黒い嫌悪が、長年会えなかった人と邂逅した感動を駆逐してしまった。
彼は顔をしかめた。それを見て、父親はさびしげに目をそらせた。しかし黙っているのも気まずいので、桃香を見て中途半端な笑みを浮かべて言った。
「一樹の父です。息子がお世話になっているようで。ええと……お嬢さんは、どういうご関係で?」
すると桃香は、彼を見上げて、にっこりと言った。
「一樹の母の桜木桃香です。よろしくお願いします」
「はあああ――?!」
いきなりの物言いに、一樹はうわずったうめきをあげてあごが外れかかり、あわてて隣の連れに抗議した。
「な、なに言ってんだよ! 俺がいつ、お前の――」
「いいんだもーん」
相変わらず、にこやかに言う桃香。
「私、一樹のお母さんになる、って決めたんだから」
「あ、あのう、では、本当のところは……?」
父が困って口をはさむと、一樹がかみつくように言った。
「ただの友達です!……桃香、べつのところを探そう。ここは気持ち悪い」
一樹が彼女に言うと、父親はさびしげに足元を見た。
「そうだよな、嫌がられて当然だ。俺はお前を捨てて、出て行っちまったんだしな。でも今じゃ、そのことを後悔――」
「弁解すんなよ!」
ぶちキレて、指差して叫ぶ一樹。
「あの女からてめえだけ逃げやがって、よくものうのうと生きてられたな! 俺を連れていきもしないで、何を今さら弁解なんか――」
「これは断言する」
とつぜん語気を強め、言い切る父。
「俺と来たら、今の何倍も不幸になったはずだ。俺のお袋――お前には、おばあちゃんだが――あれと一緒にいて、ただで済んだはずはない。孫に、自分の母親の悪口を言わせて喜ぶような最低な奴だぞ。俺と同じに、さんざんいいように利用されて、食い物にされたに決まってる」
そして、さとすようにゆっくりと言う。
「だいたい、お母さんのことを『あの女』なんて言うもんじゃない。あいつは俺のお袋の何倍もマシだったよ」
「それでも――」
一樹はこぶしをにぎりしめ、身をかがめて震わせた。
「どんなに不幸でも、あんたと一緒のほうが良かった。一緒に食い物にされるほうが、何倍も幸せだった……!」
「か、一樹……」
思わず言葉を失う父。
「あんたと一緒に不幸になるほうが、こんなに一人で苦しむより、よっぽど良かった。だいたい、婆あとは生まれてからずっと一緒だったんだから、何を今さら。もうさんざんむしばまれて、取り返しなんかつかねえよ」
「だが、お前が十歳のときに、お母さんがお前と優(まさる)を連れて出て行ったんだから、影響ったってせいぜい十年だ。俺は五十年だぞ。
俺のお袋は、今もあっちの世界で生きてるよ。病気で寝たきりだけどな。俺が消えたもんだから、今ごろ大騒ぎしてるよ。世話係がいなくなった、ってな。
だが、それをざまあみろと思う気力も、もうない。俺は完全に終わったんだ。さんざん使い捨てられて、ボロボロで何も残っていないし、向こうじゃ何一つマシなことはしなかった。あそこは、ただの地獄だったよ。
数週間前に、自殺を考えて橋の上をうろうろしてたんだ。おまわりが来たんで、あわてて河原におりて橋げたの下に隠れ、壁に向かってしゃがんで目を閉じた。降りてくる音がしたんで、肩をたたかれると覚悟したが、何も起きない。それで目をあけたら、どこだか分からない砂漠のまんなかにいたわけさ。
最初は驚いたが、ここはいい人ばかりで食べ物もわけてくれるし、すぐに極楽だと分かった。最近、どこかの町で英雄が現れたと聞いて、また俺と同じような誰かが来たんだと思ったが、まさかお前とはな。
俺はこの世界を変えたくないんで、なるべくここの人たちと関わらないようにしてる。不自由してる人を見ても、そのまま放っておくよ。こっちはあくまで部外者だし、ここの人たちには、ここの生き方があるから、干渉しちゃまずいと思ってな。まあ、やっちまったものはしょうがないが……。
とにかく俺が言いたいのは、俺は手遅れでも、お前はじゅうぶん、やり直せるってことだ」
だが、父親の話を聞いても、息子の顔はますます険しくなるばかりだった。
「俺の母親があんたのよりずっとマシだって? じゃ、なんで別れたんだ」
「別れたくはなかったが、向こうが出ていっちまった。まあ、旦那がしゅうとめの言いなりで、そのあげく酒で暴れりゃ、嫌にもなるさ。みんな俺が悪い。すまん。でもな」
顔をあげ、毅然と見つめる父。
「どんなに正気を失って、ガラスを割ったり障子を壊したりしても、お父さん、お母さんやお前たちを傷つけるようなことは、絶対にしなかったろ?」
それを聞くや、一樹は不意に意地の悪い笑みを浮かべた。桃香は初めて見る顔だと思った。
「知らないだろうから、教えてやる。あの女は死んだ」
父の目は、さすがに見ひらいた。
「そ、そうなのか?」
「肝臓がんでな。去年の夏、やっとくたばった。あんだけ毎日浴びるほど飲んでりゃ、無理もない。もっといいことを教えてやる」
一樹の顔は、さらに悪魔のようになった。
「あんたと別れてから、あいつは男をとっかえひっかえしたけど、あの性格だ。どいつも持って数ヶ月だった。最後の奴だけが五年も持って、あいつの最期をみとったんだ。チンピラになりきれないただのゴミだったけど、なんでそいつだけ合格になったか、分かるか?
あの女が酒で包丁ふり回して暴れたとき、あごに一発こぶしをぶち込んだんだ。鼻血だらだらで、俺を『なんで助けないんだ』って責めたけど、出来るかよ。俺の何倍も出来がいい弟のほうこそかん然と立ち向かえばいいのに、俺の後ろに引っ込んで同じように震えてやがって……いや、そのことはいいんだ。
その一発のおかげで、あいつはその男に死ぬまでついていく気になったんだ。その後もいろいろあったよ。俺は殴られはしなかったけど、そのぶん口でさんざんやられた。たぶん子供を殴ったら、さすがに別れると思ったんじゃないか。
俺がそいつのせいで自殺を考えようが、あの女は最後まで別れなかった。ガンになったのも、そいつのせいだぜ。ストレスが原因だって医者が言ってたし。
それでも、あれには、あの男のほうが良かったんだ。あいつは本気でぶつかったから、信用されたわけさ。あんたみたいに、ただそのへんの物をぶっ壊して、お茶をにごすんじゃなくてな」
「じゃあ、殴ればよかったって言うのか?!」
父が少々激したが、一樹はむしろ冷ややかな目になった。
「そうだよ。全力でぶつからないと、女とは付き合えない。死ぬ覚悟がなきゃダメだ。だから俺は女をあきらめた。あの男が母親を殴るのを見て、とても俺にはあそこまで出来ない、と絶望したんだ。いくら男で腕力があるったって、相手は刃物ふり回してんだぜ。俺なら絶対逃げる。そんな自分が家庭を持って、あんたと同じことすると思うと、死にたくなる」
そこまで言うと、急に目を丸くした。父がうつむいて目をかたくつぶり、身をふるわせておえつしだしたのだ。
「すまん……みんな俺のせいだ……俺が、ずるずるとあれの言うままに付きあって結婚までしなけりゃ、こんなことには……。だがな、一樹」
ゆがめた顔をあげ、うるんだ瞳で見つめる。
「これは分かってくれ。俺は全てを母親の言いなりに生きてきた。ピアノだって、好きで弾いてたんじゃないんだ」
「ええっ、なんで――」
「小さい頃に遊びで弾いたら誉められて、それ以来、やめられなくなっちまったのさ。母親が喜ぶことは絶対にしなきゃいかん、と思い込んでいた。だから、お前のお母さんとのことは、唯一、母親に逆らった行動なんだ。たとえ女房の言いなりに結婚したとしてもだ」
見れば見るほど、聞けば聞くほどに、殺意がわいてしょうがなかった。この自分のなさは、完全に俺だ……と一樹はイライラした。
確かに婆あは、世間によくいるしゅうとめと同じように、嫁を嫌っていじめていた。またよくあるように、マザコンの父はそれに対してまるで無力だった。母親に逆らった、などと言うが、なんのことはない、母親の奴隷が一時的に女房の奴隷になって、また戻っただけだ。その情けない事実をねじ曲げて偉業に変え、必死におのれのプライドを保っている。
そんなむだな行動なら、自分こそ腐るほどやった。たとえば、母親といっさい口をきかない。唯一の反抗だった。体はすべてを相手の注文どおりにやるが、言葉だけは一滴たりともあたえまいとした。相手は、そのまま死んだ。ベッドの死に顔を見ているうちに、俺ほどのバカはいない、と思った。
これですべての糸口は消えたのだ。もう何も言えない。ただ恐ろしくて不快で、わけの分からない存在だった母親の何かをつかもうとする、あらゆる抗争はすべて終了した。もっとも、もしいま奴が生き返ったとしても、やはり何を言っても無駄だとさとって、おし黙るだろうが。
俺はお袋とは最初から、なんの関係もなかったのだ。なんの接点も、共有する世界もない。ただ向こうにとって使い勝手がいいから、使われたに過ぎない。俺は、母親にとって、ただの道具でしかなかった。
そして、それは俺以外の全ての人間にとっても同じだ。俺の対人関係の基本、「近づくと、食い物にされる」
分かりきっていたと思っていたのに、実はどこかで打ち消していた事実だった。だが、これで完全にはっきりした。父親に会い、自分が父親のコピーでしかないことを、まざまざと思い知らされたのだ。
俺には誰もいない。誰とも関係ないのは、いないのと同じだ。そうだ、俺はいない。俺には、誰もいないのだから。
一樹の顔は花のようにしおれた。絶望に沈み、背後の夕日の逆光で、たたずむ黒ずんだ石炭のように見えた。彼はふらふらとその場を離れた。桃香が父を見ると、すまん行ってくれ、の目をした。彼女はあとを追った。
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