11. 天女の献身

(〈闇籠〉に《渾》以外の抵抗を感じる。……これは何だ?)

 今となってはすっかり馴染んだ胸の痛み。闇神はそこに一つの異物を感じ取っていた。

〈闇籠〉は囚人を捕らえる檻の〈神術〉と言われるが、実際は鎖に近い。その折々の状況に最も適した形状で対象を繋いでおくのである。

 アミュに施されている〈闇籠〉は、彼女が永獄に〈封印〉される直前には球状をしていたが、今は肉眼では確認できない粒子となって空気に混じりアミュの周囲に纏わり付く形で拘束していた。

(この精気は《光》……光精か)

「御身体の調子が悪いのですか?」

 気が付けば、陶器のように白く美しい顔が覗き込んでいた。

「……大丈夫、だ」

 静かに呼吸を整えると、闇神はシーアから顔を背けた。 

 最近、至る所で自分がシーアを侍神に望んでいるという噂を聞く。噂は勿論、彼女の耳にも届いているだろう。

「体調が優れないのであれば、どうぞお休みになって下さいませ。いつも目の端でちらちらされて、正直……邪魔です」

「――お前……」

 無感動な調子で響いた最後の一言がシーアの本音らしく聞こえた。

(いっそ、力尽くで〈封印門〉から引き離すか)

 突発的な怒りで不穏な考えが湧き起こったが、すぐに頭の中で否定する。神族ですらない小娘一人にむきになってどうするのだ。それに、おそらく彼女は――。

 闇神は皮肉めかして言ってみた。

「〈闇籠〉で《渾》の神気を抑えている私が調子を崩せば、渾侍は〈神術〉を破り永獄から解き放たれるやもしれんな。そうなれば、お前の兄も脱獄しやすくなるだろう。お前の望み通りに」

「別に、私はそんなつもりでは……」

 むすっとした顔をして、シーアは背を向ける。

 しかし、虚構を操る幻神であり心の闇をも司る闇神の彼には、シーアの心中は全てお見通しだった。感情表現が苦手なだけで、彼女は本心では闇神の身を案じているのだ。

 闇神は苦笑した。自称人間嫌いらしいが、確かに人付き合いは苦手そうな娘だ。

「でも」

「ん?」

 黒髪が青く艶やかに輝いて、さらりと肩から流れ落ちた。

 重々しくシーアは瞼を伏せる。

「〈封印門〉と〈闇籠〉に隔てられているからこそ、あの子はまだ生きていられる。過酷な現実の世界や渾神という脅威から守られているのだと、思うこともあります」

「……そうか」

 これは意外な返答だった。

 シーアにとって渾侍はただの駒に過ぎない存在なのだと思い込んでいたが、どうやらそうでもないらしい。心優しい、情の深い娘だ。だからこそ、兄シャンセに対してもここまで真剣に向き合えるのだろう。

 そう考えると、シーアは思っていた程には問題児ではないのかもしれない。

「ならば御言葉に甘えて、私も休むことにしよう。あの娘を守り通さねばならないからな」

「闇神様」

 踵を返した闇神をシーアは呼び止めた。

「私、絶対に諦めませんから」

 シーアは強い口調でそう言った

 最初、何のことかと闇神は首を傾げたが、やがて思い至った。恐らくは、先日闇神が与えた忠告への返答なのだろう。

 闇神は「今更」と笑った。

「見れば分かる」

 そう言うと、闇神は青白い顔に満足げな微笑を浮かべて、幻のように空気に溶けて消えた。



   ◇◇◇



 闇神が去ってから少しばかりして、シーアは背後で足音を聞いた。

 赤い夕光に帯の様な影が射し込む。

 渾神が出現した不浄な場所に訪れるのは、シーア以外には彼女を守護する闇神しかいない筈だ。きっと忘れ物でもして取りに来たのだろう。そそっかしいことだが彼らしい。

 側で見ていて思う。人が良くて少し間が抜けていてあまり最上位神らしくない方だ。

 しかし、そういう不完全さに親しみを抱き始めていた。つくづく黒天人族は真っ当な道を望まないようだ。

 やはり、シャンセの兄妹なのだなと苦笑しながら振り向いたその時、シーアの瞳に映ったのは彼女が予想だにしなかった人物であった。

 金水晶の球のように澄んだ目が真っ直にこちらを見据えていた。

「ユリスラは……いないようだな。まだ、調子が悪いのか……」

 知らない男。だが、創造物の本能がそれを悟った。

「天帝……っ!」

 シーアは跪いた。

 神族の王を前にした緊張もあったが、世間に顔向け出来ないことをしている罪悪感から物音一つ立てられなかった。嫌な汗が掌を濡らす。

 対照的に天帝は落ち着いた足取りで近付いてくる。

 そして、眼前で立ち止まると静かにシーアを見下ろし、続いて背後にある〈封印門〉に目を遣った。

 シーアはぎくりとした。

「――これは……」

 天帝の視線を追って、シーアも思わず〈封印門〉の方を見る。けれど、意識に〈封印門〉は全く映らない。映ったのは視界の外にある天帝だけだ。

(私の罪を咎めに来られたのだわ!)

 自分はこれからどうなるのだろう。いや、自分一人で済むならまだ良い。けれど、一族はどうなる。やはり、連座して処罰されるのだろうか。

 ただただ戦慄するしかなかった。

 だが、頭上に降ってきた言葉は予想とは真逆のものであった。

「かまわぬよ」

 シーアは呆けたように顔を上げる。

「認めはしない。だが、自由に望むがいい」

 初めてまともに見る主神の顔には、ある種の諦念が浮かんでいるように見えた。

「天帝……」

 直接拝謁したのは今が始めてだったが、父や兄達からその尊大で頑迷な気性は聞いている。世間の評判も大体彼等と同じだった。

 けれど、目の前にいる天帝は話に聞いた神とは別人のようだ。

 そこでシーアは、はっと覚醒した。嘗て同じような顔をしていた者を彼女は知っていたからだ。思い至って、「ああ」と納得する。

 天帝は、彼に逆らい天界を去ったシャンセと同じように、どこかで世界を諦めてしまったのかもしれない。自分の望み描いた未来が、どれほど命懸けで頑張っても実現し得ないのだということに気付いて――。

 目線は自分に向けながらも意識はどこか遠い場所を彷徨っているその姿に、シーアは拳を握り締めてある決心をした。

 そして、次の瞬間には、溜め込んだものを吐き出すように言葉を紡いでいた。

「天帝の御意思に背き、斯様な場所にいる私に申し上げられたことではないのかもしれませんが――」

(今、自覚した)

 シーアは自分を振り返る。

 今迄自分が兄シャンセに抱いていた感情、それは後悔だったのだ。自分は裏切り者のシャンセを憎み恥じたのではない。何も出来なかった幼子の自分を憎み恥じたのだ。

 だから、今度は自分の手で変えたかった。ただ、それだけのことだったのだ。

「御心を強くお持ち下さいませ。神族の王たるポルトリテシモ神が、強く誇り高くあって下さらねば世界は揺らぎます。神族や天人族だけでなく、全ての種族が日々不安と恐怖に怯え暮らさねばなりません。ですから、どうか……強くあって下さいませ!」

 強い口調とは裏腹に、感極まって涙が滲んだ。そのままシーアは俯いてしまう。

 肝心な所で自分はまたしくじる。こんな無様な姿では、ただ相手を白けさせるだけではないか。

「……思慮の浅い天人族の小娘の分際で、天帝に意見するか。傲慢な」

 予想通り冷ややかな口調で返された。

 シーアは目から涙が零れ落ちそうになるのを瞬きして堪えた。

 すると、天帝がふっと息を漏らすのが聞こえた。

「そして、気丈な……優しい娘」

 驚いて顔を上げると、彼は穏やかな微笑を浮かべていた。

 シーアは暫くぽかんと天帝を見上げていたが、やがて身に余る賛辞に顔を赤らめて、思わず視線を逸らした。動揺が大き過ぎて笑えなかった。

「気持ちしか誇れる所がないのです。私は無力でまだ祈ることしか出来ていません」

 そう返すと、天帝は「そうか」と一言だけ呟いて黙り込んでしまった。シーアもそれ以上言葉を紡ぐことは出来なかった。

 赤い闇が次第に青みを帯びてくる。間もなく夜。黒天人族の――自分達の時間だ。

 沈黙の後、漸く口を開いたのは天帝の方だった。

「お前は少し私に似ていると思うよ」

 同じ思いをシーアも抱き始めていた。天帝は兄に似ている。そして、兄に似た自分にも似ている。いっそ自己憐憫にも見える見苦しい自己嫌悪の感情とそれを自覚してしまう愚かしさが。

 二人はお互いの思いを悟って笑い合った。情けなさに泣きそうになりながらも笑った。

 気の済むまで笑った後、今度は強い眼差しで天帝はシーアを見詰めた。

「頼みがある」

 声の調子が変わったのに気付き、シーアも笑うのを止めて聞いた。

「ユリスラの侍神になってくれないか?」

「え?」

「あれはお前を気に入っている、多分。ああ見えて、内向的な気質でな。本当に親しい者以外には近付かんのだ。それが、お前とはまともに会話も出来ているようだ。やはり、お前と私は似ているのかな。……だから、適任だと思った」

 闇神が自分を侍神に望んでいるという噂は彼女も耳にしていた。

 少し残念ではあるが、事実無根の話であることも闇神の態度を目にして分かっていた。

「自覚がないだけだよ。まったく、困った奴だ」

「ですが……」

 側近たる天人族に反体制側の最高位神への奉仕を命じるなど、露見すれば天帝の権威と信頼性が失墜する大問題だ。

「天界と一族に叛けと、天帝御自身が仰るのですか?」

 天帝は首を振って否定した。

「そこまでしろとは言わないし、拒否してくれても構わない。それを咎められる道理は私にはない。だが、本心では理解して受け入れてほしいとは思う。決して好意を口にしてはならない相手を大切に思う、お前には」

 シーアは目を見開き、彼の心中を悟る。

 過去、天帝と闇神は友人であったのだと伝え聞いたことがある。そして、きっと決別した今でも天帝は闇神のことを――。

「神戦以後、ユリスラは重責を背負わされてしまった。一柱の神が二つの《元素》を背負うことはやはり難しかったのだ。だから、あれを支えてやって欲しい。……私の代わりに」

 ――本当は自分が側に付いていてやりたい。けれど、それは叶わないから、私の分身たるお前が……。

 天帝の言葉に込められた願いをシーアは理解した。その合図に彼女は無言で頷いて、天帝の衣の裾へ口付けをした。

(私によく似た貴方。私の大切な人への想いによく似た、貴方の大切な人への想い。その為に私は世界に背き、邪神の眷族へと身を堕としましょう)

 シーアの心には不思議と一点の曇りもなかった。



   ◇◇◇



 講堂からぼんやりと外を眺めていると、視界に入れたくない物が目に入った。

 自分の運命が狂った場所。渾神が出現したあの建物だ。

 メリルが不愉快さの余り目を背けようとした時、信じられない光景が現れる。

(シーア・ヌッツィーリナと……天帝!?)

 二人は仲良く談笑しながら、建物から出て来た。

「何を話しているのかしら」

 そう声を上げたのは窓際の席で語らっていた火精だった。

 メリルは耳をそばだてる。

「まさか逢引……!」

「ないない。あの堅物の天帝に限って」

 一同が手を振る。メリルも同意見だった。

「彼女、闇侍候補の娘でしょう?」

「そうなる前に保護するんだろ? 流石に側近の種族だからなあ。あっ、でも、もしかしたら闇神に対抗して、天帝自身が侍神にするってのはありうるかも」

「そう言えばそんな噂も聞いたことが……」

 メリルは蒼白になる。

(知らないわ)

 反則だ。そもそも、天帝は今迄侍神を募集すらしていなかったじゃないか。

「今回、いろいろと有り得ないことが起こり過ぎよ。火神様も侍神の募集取り下げて、前任者のスティンリア様と交渉してるみたいだし」

「そういうこともあるさ、たまにはな」

 そこで、快活な性質の火精が珍しく赤い睫を伏せた。

「やっぱり、渾神が関わっている所為かしら。おかしなことにならなければ良いけど」

「止せよ。言葉にすれば現実になるぜ」

「でも……」

 その後も火精達は会話を続けたが、彼等の言葉は最早メリルの耳には届いてはいなかった。彼女の意識はこの時、憎い天敵が天帝と闇神の寵愛を独占しているという事実にだけ向いていた。

(そんな馬鹿なこと! あの下劣な黒天人族が、この私を差し置いてそんなことを!)

 余りにも不常理だ。あってはならないことだ。呪文のように心の中で唱え続けた。

 ふと、講堂内を見渡す。

 友達、恋人、種族の同胞同士――。とにかく講堂中の人間が皆、他の誰かと寄り添っている。本当に仲が良さそうに笑っている。一人っきりなのは自分だけだ。

 その様が更にメリルを苛つかせた。

 メリルはいつの間にか侍神候補者の中で孤立してしまっていた。本当は盗み聞きだってしたくはなかったのだが、他に情報収集する術がなかったのだ。

 白天人族の侍神候補者が他にもいれば話は違っていたかもしれない。だが、自分の障害となるであろう彼等を真っ先に排除し、白天人族でただ一人の侍神候補者となったのはメリル自身であった。

(身の程知らずにも、逆恨みばっかりして……!)

 憎々しげに他の侍神候補者を睨みつけるも、相手はまるで気付かない。

 その様子に胸の奥がちくりと痛む。しかし、それに気付いた次の瞬間、メリルは心の中で自分を叱咤した。

(何故、私が劣等感を感じるのよ。あいつ等より優れた私が、あいつ等より劣っていると感じる訳ないじゃない!)

 そんな馬鹿なことが罷り通るなら、今の世界は間違っている。一刻も早く自分が侍神になって世界を正さねばならない。

 メリルは爪を噛んだ。

(火神でも駄目。正神より上、外神の誰か)

 だが、それでは渾侍のアミュとは並んでも、闇侍となった場合のシーアを超えることは出来ない。

 そう例えば、闇神と対をなす神――


 ――光神の侍神にでもならない限りは……。


 急に視界が開けた気がした。

(愚かなメリル。どうして、その考えに思い至らなかったの)

 彼の神以上に自分に相応しい者はいないではないか。

 白き天女は笑った。からからと笑った。

(なってやればいいのよ。光侍にっ……!)



   ◇◇◇



 それより間を置かず、メリルの姿は天界随一の蔵書数を誇る天宮図書館にあった。

「何をやってるんだ、あの馬鹿者は。読書に勤しむ人種には見えなかったけれどな」

「馬鹿とか言うなって……。そりゃあ、たまには本も読むだろう。もう行こうぜ。大戦の元凶になった種族なんかと関わったら、巻き添え食らって殺されちまうぞ」

「違いない」

 メリルは机に書物の山を築き、無心に目的のものを探し続ける。いつもなら決して聞き逃さないであろう他人の嘲笑も耳に入らなかった。

 そして、一冊の古い記録書を紐解いた時にそれは姿を現した。


 ――「〈大祭剣〉について」


 神戦末期に白天人族の救世王女アイシア・カンディアーナが、渾神ヴァルガヴェリーテ討伐の為に製作した剣型〈祭具〉である。神の肉体を経由して《元素》と接続し、《元素》と《顕現》の連結を弱体化させる作用がある。

 渾神はこの〈大祭剣〉に貫かれたが為に衰弱し、長期間に渡って永獄に〈封印〉されることになったのである。

 しかし、この〈大祭剣〉は逆の能力も併せ持っていた。即ち、神と《元素》の連結を強化し神力を増大させる力だ。

(あった……!)

〈大祭剣〉は余りに見事な神繰りの〈祭具〉であった。故に神戦後は天帝の命で使用を禁じられ、白天人族の王の手によって人知れぬ場所に厳重に保管されているのだそうだ。

 だが、メリルには保管場所に検討が付いていた。所詮は身内のことだ。隠し通せるものではない。

 胸の内で自身の哄笑が響く。

(待っていて下さい、光神様。すぐに私がお救いしますから)

 そして、自分は自分のあるべき姿に戻る。万物の頂点たる存在へ。

(黒天人族の王女に地上人の小娘、火神や他の侍神候補者達。私を厄介払いしたと思っている一族の者達も。私を蔑ろにした全ての者よ、思い知るがいい。真にお前達の上に立つのが、誰であるかということを!)



   ◇◇◇



 メリルが天宮図書館から去った後、机上に置き去りにされた記録書の頁がぱらぱらと風に捲られる。

 その頁を半透明の指が抑え、そのまま本を閉じた。


 ――くす、くすくすくす……。


 掴み上げた書物に軽く口付けし、書棚の元あった場所に戻すと、女はそのまま闇に溶けていった。

 彼女の来訪を知る者は不運なことに誰もいなかった。

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