7)ゆびきりは土曜日に〈1〉

 土曜日、夕暮れの終わった時間。

 寒々しく光る街灯の下で、吐き出した息が白く煙って暗がりに消えていくのを、和都はぼんやりと眺めていた。

 狛杜公園前駅からほど近い、住宅街の一角にある小さな公園。その片隅で、キャメル色のコートを着た和都は一人、何をするでもなく待っていた。

 大通りから少し横道に入った場所にあるので、人通りはほとんどない。駅へ繋がるほうの道から、背の高い人影が近づいてくるのが見える。

 紺色のコートに黒い斜めがけのショルダーバッグを持った、塾帰りの春日だった。

「悪い、待たせた」

「ううん、大丈夫」

 小走りで駆け寄ってきた春日に、和都は首を横に振る。

 塾が終わる頃を見計らって、和都は春日に『話がしたい』とメッセージを送っていて、それからここでずっと待っていたのだ。

「話って、例の件?」

「……うん」

 向き合ったまましばらく黙っていたが、ふいに和都が大きく深呼吸する。吐き出した白い息が夜の闇に溶けてしまってから、ようやく和都が口を開いた。

「──お前は、いいやつだよ」

 春日を真っ直ぐに見つめる。

 表情はいつもと変わらず、静かなまま。それがなんだか嬉しいと思う。

「おれ、すげーめんどくさいのにさ。ずーっと色んなこと付き合ってくれて、助けてくれて。一緒にいるとラクだし、楽しいし……」

 変な時期に転校してきた自分を受け入れて、それからずっと側にいてくれた。

 中学時代に起きたあれこれが、もう随分昔のことのように思える。

 嫌なことも、辛いこともあったけれど、乗り越える時に一緒にいてくれたのは、春日だった。

「でも、やっぱりさ、」

 声が詰まる。

 ちゃんと言わなきゃいけない。

「やっぱりおれ、先生が、好きだから。ごめん」

「……うん」

「先生が何考えてるか、全然わかんないんだけどさ。でも、先生と付き合えないからってお前とそういう仲になるってのも、絶対、なんか違うし……」

 仁科の気持ちは、まだ話をしていないから分からない。

 けれど、その結果次第で決めることではない。

 これは素直な気持ちで、考えるべきことだ。

「……そうか。うん、それでいいよ」

 息を吐くように、春日はどこか満足そうに言う。

 やっぱりこの結果を分かっていて、あんなことを言ったのだ。

 和都は心底呆れたように、眉を下げる。

「本当、お前ってタイミング悪いよな」

 中学の頃、今度こそ本当に死んでやろうと思った時に、春日はいつも現れた。

 いつだって、こいつのタイミングは、サイアクだ。

「何がだ?」

「おれ、お前に『嫌い』って言われたから、諦めたんだぞ」

 中学三年の時、自分のことを好きなのかと尋ねたことがあった。

 春日があまりにも一生懸命に自分を助けるから、そういう下心を持っているんじゃないかと思ったのだ。

 むしろ、あそこまで献身されて、好きにならないわけがない。けれど即答で『嫌い』と言われて、ホッとしたと同時に失恋した。

 だから、良き友人でいようと思った。

 春日のほうを見ると、目を大きく見開いていて、驚いているのが分かる。普段何事にも動じないヤツなので、驚いた顔を見るのは久々だ。

「いや、あれは……」

「分かってるよ。『死にたがり』が嫌いだったんだろ」

「まぁ、そうだな」

 あの頃の自分は、死にたくて死にたくて堪らなかった。命を粗末にしようとする自分を、好きになるはずがないよなと、あの時は納得した。

 だからこれ以上嫌われたくなくて、ちゃんと生きようとしたんだ。

 好きでもないのに側にいてくれるのは、春日が自分を生かすために執着していると思ったから。

 見張っていなくても生きていけると分かったら、こんな自分から解放してやれるって。

 それなのに。

 盛大に覆されて、春日を好きだった時の気持ちが騒ぎ出して、混乱した。

 でも今、一番に考えてしまうのは、違う人。

「次に、誰かを好きになった時はさ。ウソでも意地でも『嫌い』なんて言うなよ?」

 和都はそう言うと、春日の前に右手を出し、小指を立てた。

「やくそく!」

 春日の驚いた顔が、ゆっくり融けて笑った顔になる。

 そして、同じように右手の小指を差し出して、小さな小指と絡まった。

 好きな人に、ウソをつかない、気持ちを偽らない、約束。

「お前はウソが上手いからな。真に受けちゃうかもしれないだろ、おれみたいに」

「……そうだな」

 好きな気持ちにウソをついて、それで喰らうしっぺ返しは誰だって痛い。

 和都は小指を絡めたまま右手を小さく上下に振ると、その手を解いて、春日の右手を両手で包むように握った。

「……ずっと、助けてくれて、ありがとね」

「友達だからな」

「そこは、親友って言えよ」

 口を尖らせて、それから笑った。

「ユースケのバーカ」

「うるせぇ」

 笑った顔で言われて、ゆっくりと手を離す。

 友達以上に好きだった気持ちと一緒に。

「……じゃあ、行くね」

「ああ、気をつけて帰れよ」

「うん! また月曜、学校でな!」

 一歩だけ後ろに下がり、そう言って笑うと、和都は春日にくるりと背中を向けて公園を後にする。

 それから後ろを振り返らずに、走って帰った。

 ちゃんと最後まで笑って言えただろうか。

 好きな人が、自分を好きではないと分かった時の辛さが痛い。

 中学の時、大きな背中で言われた時より、ずっとずっと痛い。

 走りながら、目頭が熱くなって、鼻の奥がツンとする。

 春日はずっと、先生に惹かれていく自分を見ていた。

 どんな気持ちでいたんだろう。

 それなのに、違うと言われると分かっているのに、伝えてくれたんだ。

 ──アイツ、本当にすごいなぁ。

 頭の中を色んな思い出が駆けていく。

 薄金色の夕日の中で、死にたい自分を叱ってくれた。

 濁った川に飛び込んで、死の淵から引き上げてくれたのも春日だった。

 二人きりで、この街から逃げ出そうとしたあの夜も、こんなふうに冷たくて暗くて優しかった。

 逃げ出したい自分をいつも、ひっぱり上げてくれる。

 臆病になっている自分のために、春日が背中を押してくれたのだ。

 ──おれもちゃんと、先生と話さなきゃ。

 走って走って、あっという間に自宅に着いた。

 相変わらず、この家には誰もいない。

 一人きりだ。

 そこでようやく、声を出して泣いた。

 真っ暗な家の、玄関の上り口に座り込んで。

 嬉しい気持ちと同じくらい、ありがとうとごめんなさいが溢れて止まらない。

 身体中の水分がなくなってしまうのではないかと、思うくらい泣いた。

 ようやく落ち着いて、手の甲で涙を拭う。

 ──先生に、会いたい。

 会ってちゃんと、話をしたい。

 玄関に座り込んだまま、和都はスマホを取り出すと、仁科にメッセージを送っていた。

《あいたい》

 勢いで送ってから、あぁそうだった、と思い直す。

 今日は、友達の結婚式に行っているのだった。

 慌ててメッセージの取り消しをしようとした、そのタイミングで着信が鳴る。

 発信者の名前は、仁科。

 和都はあたふたしながら『応答』を押した。

「は、はい!」

〈……どうした?〉

 落ち着いた、聴きたかった声がする。

 何のことかと一瞬混乱したが、すぐにメッセージの理由を聞かれているのだと気付いた。

「……あ。えっと、その」

 声を聞いたら自分でも驚くくらいに落ち着いてしまい、なんだか急に恥ずかしい。

「先生こそなんで。だって、今日……」

〈うん、まぁ、色々終わって三次会に行くかどうしようか、ってとこでね〉

「そ、そっか」

 そういったものに参加した経験がないので、よく分からなかった。電話の向こうからは、ガヤガヤと騒がしい音が聞こえてくるので、式場かどこかにいるのは確からしい。

 けれどこうして電話してくれるということは、そういうことが出来るタイミングなのだろう。

〈泣いてたの?〉

 涙声になっているのに気付かれたようだった。

「……色々、あって。べつに事件とか、そういうじゃないんだけど、うん……」

〈月曜からこっち、なーんか様子おかしかったから気になってたんだけど。そのことで何かあった感じか?〉

「……うん」

 仁科は何も言わないだけで、ずっと気にしてくれていたのだ。

 そこはやはり、大人なんだなぁと和都はぼんやり考える。

 電話の向こうで息を吐いたのが分かった。

〈そっか。じゃあ、泊まる準備して待ってなさい〉

「えっ」

〈んー、二十分……いや三十分くらいはかかっちゃうかな。そんくらいで着くから〉

「は?! え、ちょっと!」

〈じゃ、あとでね〉

 こちらの言い分を聞かぬまま、通話は切れてしまった。

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