炎老翁の悲哀 ~シンクロニシティのはてに~

普門院 ひかる

第1話 炎老翁の悲哀

 炎老翁えんろうおうには、三分以内にやらなければならないことがあった。


 もうパンパンだ。歳をとると、近くなっていけない。やせ我慢しても、あと3分も持たないだろう。

 来ているローブの前をはだけ、用をたそうとしたとき……。

 

 森の茂みからガサリと何者かの気配がした。

 長年の経験から、一瞬で警戒モードへ頭を切り替え、魔法の杖を携えて身構える。

 

 眼前に、雄鶏の頭部、竜の翼、蛇の尾、黄色い羽毛を持つ怪鳥が姿を現した。体高は、成人男性としては平均的な身長の炎老翁よりは、頭2つ分以上高い。


 ――くそっ! コカトリスか!

 

 炎老翁は、コカトリスと目が合った瞬間、右側の茂みへと飛び退くと、クルリと前転して受け身をとった。長年の経験に基づく、反射的動作だ。


 コカトリスは、相手を見ただけで生き物を石化して殺すことができる。ただし、これは邪視の一種で、一定時間魔力を込めて見つめる必要がある。熟練度により個体差はあるが、その時間は約1秒。その前に視線から逃れないと命がない。


(くっ! まずい! 今の衝撃で、ますます我慢できなくなった!)


 とにかく、コカトリスから逃れ、時間をかせがないと……。


 しかし、茂みを進むと、またコカトリスがいた。


 ――バカな! やつに先回りするような知恵はないはず!


 だが、よく観察すると模様が違う。もう1羽コカトリスがいたのだ。

 やつらは単独行動のはず、まさか縄張り争いの現場に遭遇したということなのか? なんたる不運!


 その場から逃走を図るが、全速力では走れない。今にも出てしまいそうだ。こらえるために足は内股となり、小走りで進む。


 その先に、さらなる悲劇が待っていた。

 さらにもう1羽、コカトリスが前方に立ちふさがったのだ。


 ――3羽で縄張り争いなど、あり得ないだろ!


 60年近く生きてきたが、これほどのピンチは経験がない。

 前門のコカトリス後門の膀胱ぼうこう……ふっ、つまらぬことわざを作ってしまった。


 ――これ以上逃げてもらちが明かない!


 炎老翁は戦うことを決意する。

 

 しかし、魔術を行使する際、魔術師は、自らの意識・幽復体アストラル ボディ星幽界アストラル レルムへと飛翔させて、活動する。このためには、人の持つエゴを究極まで薄めなければならず、意識深層の無意識と向き合うために、深い瞑想が必要不可欠だ。


(もう限界だ! パンパンで腹が痛くなってきた……)


 こんな状態で、深い瞑想ができようもない。


炎弾ファイエル ボル!」


 魔術初心者でもできる魔術しか放てない。コカトリスなど、これまで飽きるほど狩ってきたというのに……。


 コカトリスは、口から毒のブレスを吐いて反撃してくる。それを避けつつ、邪視をも避けながら、ひたすら炎弾ファイエル ボルを放ち続ける。


 少しずつだが、ダメージは通っている。


(早く倒れてくれ! 頼む!)


 気持ちはどんどんれていく。焦れて、焦れて……ようやくコカトリスがドサリと倒れた。


 それで緊張が緩み、炎老翁の股間を熱いものがジュワリと濡らした。


(まだだ! まだ、ちょっとちびっただけ。これならごまかせる!)


 だが、せっかく気を取り直した炎老翁の前に、もう1羽のコカトリスが追いついてきた。


 ――もう、やけくそだ!


炎弾ファイエル ボル! 炎弾ファイエル ボル! 炎弾ファイエル ボル! 炎弾ファイエル ボル! 炎弾ファイエル ボル……」


 人生最速の速射に思えた。


 もはや、時間の感覚が麻痺まひしている。とにかく、夢中で魔術を放ち続けるうち、2羽目のコカトリスも倒れた。


 今度こそ……。


 二度あることは三度ある。

 そこへ、3羽めのコカトリスが炎老翁の目に映る。


 彼は、絶望した。

 熱いものが股間を濡らし、我慢の限界を超えた。それは足の方まで垂れていく。


 炎老翁は、人としての尊厳を失った。


 そんな彼の前に、もはや敵はいない。


我は求め訴えたりエロイムエッサイム。火の精霊フレデリケよ、我に力を貸せ。地獄の業火から灼熱の炎を呼び寄せん。我が敵を、燃え盛る炎の舞いに巻き込み、その身を焼き尽くせ。世々限りなき神々の統合のもと、実存し、君臨する火の精霊王を通じ、マリウスが命ずる。炎噴流ジェット・フランマエ!」


 激しい炎の奔流の前に、コカトリスは一瞬のうちに消しずみとなった。

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