一章「犯した罪とその罰と」

1「夜の底にて」

 眠れない夜は、眠らないことに決めていた。

 だれにもなにも言わないで家を出て、当てもなく歩いていろいろ考えるんだ。

 眠れない夜が、眠れなかった夜に移り変わるまで、ただひたすらに歩くだけ。そんなことを続ける意味は、あんまりないんだろうけど。


 正直に告白するのならば、家族と一緒にいたくなかったんだ。同じ家で、同じ時間を過ごして、同じように暮らしていくことにどうしようもない違和感があって、それは常に俺を悩ませ続けていた。

 でもべつに、家族との仲が悪かったというわけじゃあない。

 十一年前に俺を引き取ってくれた鳴海家の面々は嫌いじゃなかった。生真面目な養父と少し間の抜けた緩い養母、そして活発で勤勉な義妹。彼らはみな、不思議に思えるくらい善良だった。


 問題があるのは、彼らじゃなくて俺の方。

 あの人たちと一緒にいると、ときおりひどく胸が苦しくなった。自分が、鳴海家に紛れ込んだ異物のように思えてしょうがなかった。俺は、ここにいるべきじゃない。そう思うこともしばしばあった。


 だから、ひょっとしたら俺は夜の街で自分の居場所を探していたのかもしれない。

 究極的には、冒険ごっこに興じる子供と同じことをしていたんだ。曖昧な定義づけが為された思い一つを抱え、てんで的外れの方法で、決して存在し得ない理想郷を探していたのだから。


 つまるところ、これは、そんな夜に出逢った不思議な人たちとの物語だ。



    ●●●



 街は、綾瀬という地方都市だった。

 少々立派な公衆トイレみたいな駅から三十分ほどで仙台駅に着くものの、この辺りは青々と茂る山々に囲まれているだけでろくな娯楽施設もない。せいぜい、昔ながらの駄菓子屋と、しわくちゃの老婆が経営しているスナックがあるだけ。


 そんなんだから、どこぞの宗教団体に目をつけられてしまうわけだ。

 気がつけば田園風景を抜けていて、国道沿いの道に出ていた。そこからまっすぐ北には、遠くの山の中腹にそびえる建物が見える。

 地元の子供たちから「豆腐」と揶揄されるあれは、医薬品の製造や研究を行う工場であり、その一階には親のいない子供を預かる児童養護施設も併設されていた。

 そして、そんな「豆腐」を管理、運営している組織の名が、


「……〈憑落ツキオトシ〉」


 ──人心に巣食うを善行によって、真なる幸福を希求する。


 そんな教義を掲げる彼らが綾瀬に来たのは、今から二十年ほど前になる。

 カルト宗教の構成員が東京の駅で毒物をばらまいたりと、そんな事件もあった二十世紀末の時流として、宗教と名のつくものはみな害悪として見られていたが、〈憑落〉はそんな偏見をたった数か月で払拭してみせたらしい。


 宗教団体を名乗っている彼らだが、その実態は単なる医薬品メーカーと大差ない。

 市内で燻る若者たちに治験のアルバイトを斡旋したり、運転免許を持つ大人たちを対象とした商品輸送の求人を出したり、老人たちに格安の医薬品を提供したり。

 早い話、〈憑落〉は金の生る木だったわけだ。

 そのうえ児童養護施設なんてものを設立すれば、どこからともなく〈憑落〉を批判する方が人の心がないなんて空気感も漂ってくる。


「……っと、」


 その場にしばらく立ち尽くしていたことに気がついた俺は、かぶりを振る。

 いくら今日が夏休みの真っただ中だからと言っても、東北地方の夜は少し冷える。歩き回らなければ翌日には風邪をひくかもしれない。もっとも、俺は生まれてこの方一度も風邪や病気にかかったことが無いのだが。

 一応、上着を着てきてよかった。

 少しでも、遠くに行かなければ。

 なんて思いながら踵を返そうとしたとき──黄色い光の筋を見た。


「あ?」


 一条の光線が空と地とを繋いでいる。アレに似たものを昔テレビで見たような気がする。なんだったっけ。少しだけ考えて思い出した。

 確か京都の清水寺とかで青い光が空に向かって放たれていたような気がする。行ったことがないから実際のところはわからないけれど、似たようなものかもしれない。

 〈憑落〉も変なことをするなぁ。なんて呑気に思ったが、


「わっ⁉」


 間の抜けた俺を殴りつけるように、盛大な爆発音が響いた。同時にもくもくと立ち込め始めた黒煙の中で、赤い炎が踊っているのが見える。

 びりびりと震える空気の感じが俺の身体を透過して、遠く遠くへ走り抜けていく。

 発散していく黄色いレーザー光線を見つめながら、俺は。


「──ッ」


 気がつけば駆けだしていた。

 脳裏に過ったのは、十一年前までの日々。

 俺はいわゆるみなしごだった。産まれてすぐの頃に、本物の親に捨てられたらしい。そして、そんな俺を引き取ってくれたのが〈憑落〉の施設だった。

 あそこには、俺の恩人たちがいる。俺と同じ、孤独に咽ぶ子供たちがいる。

 助けて、あげなきゃ。

 

「あ、あぁああ」


 言葉にならない恐怖と不安に突き動かされていた。

 走る脚は縺れながらも確かに地面を蹴り飛ばし、振り回す腕は無意味なりにも推進力を得ようと風を手繰る。きゅうと絞られるような痛みを発する胸は走っているせいなのか、それとも焦りのせいなのか。

 なにもかもがわからなかったけれど、ただ一つだけわかっていることがあった。

 それは、あの場所にいる人たちが、きっと苦しみ、助けを求めているってこと。

 知ってしまったから、想像してしまったから、無視することはできなかった。



    ●●●


「ぅううぅう」

 傷ついた身体でここまで逃げてきたのか、一人の男が山道に倒れていた。 白髪交じりの頭が血に染まっていて、どくどく流れて止まらない。焦点の合わない眼が宙に向かって彷徨うばかり。

 そんなことに気付けてしまえる程度には、〈憑落〉の工場から生じた炎は眩しかった。ぱちぱちと爆ぜる音に紛れ込むように辺りから呻き声ばかりが聞こえてくる。

 それでも、子供の声は聞こえない。

 ……ひょっとして、子供はもうすでにみんな──だめだ考えるな。

 自分の頬を強く叩いて、真っ白になっていた頭を働かせ始めた。


「と、とりあえず頭の血を止めましょう! 触りますね?」

 くだんの男性の傍にしゃがみこんで上着を脱いだ。薄い生地だから簡単に千切れるとも思ったが、どうにもうまくいかなかった。ので、そのまま袖のところを結ぶ形で彼の頭に巻き付けることに決める。


「……ちょっとだけ、我慢してくださいね」

「うぃ、だげぇ……」


 男が口を開いた途端、生臭い血の匂いがむわりと立ち込めた。濃密な血の匂いに胃の辺りが痙攣して痛くなる。ぐっと噛み締めた奥歯が震えてしまう。

 怖くて、涙がこぼれてしまいそうだった。


「だい、大丈夫です。救急車が来るはずです。けがは……頭切ると血がいっぱい出るって聞いたことがあります。そんなにひどい怪我じゃないです。落ち着いて、おちついてそれで、ちゃんと血ぃ止めて、休んで、それで……」


「ぃげぇ」


 応急処置が終わると、男はむせながら零したが聞き取ることができなかった。


「あの、おじさん。えぇっと、俺、あの中の人たちも助けなきゃなので、子供が、いるかもなので、だから、えぇっと、俺、行ってきます。しっかり。しっかりね。ちゃんと助かってね」


 それだけ言って立ち上がる。そうすると、男は目を剥き叫んだ。どこにそれだけの元気があったのか。驚くほどに必死な絶叫だった。


「うぃだげぇ! ごぉ‼ いげえぇ‼」

「え?」

「うじぉおおおおおぉおお!」


 血の匂いがする怒号に気圧されつつも、男の眼が、俺の背後に向けられていることに気付いた。そして同時に、その眼の奥に確かな恐怖が滲んでいることも──。


「あー、えー、なんだ。まぁ、悪ィな」


 乱雑に投げ捨てるような低い声が背後で響き、反射的に振り返ろうとして。

 それより早く、


「あぎ」


 後頭部にがつんと、とんでもない衝撃。目の前で火花が散った。男の顔も、赤く染まる夜も、黒々と立つ木々も、全部がぐにゃりと歪んで横に倒れていく。

 ちがう。倒れているのは、俺の方だ。


「ぃいいぃいいいいいぃいいいいぃ⁉」


 叫んだ喉が熱くて咳き込みながら泣いて叫んだ。転がったって叫んだって泣いたって痛みが薄れるはずも無い。でも、そうすることしかできない。


「あー、ミスったな。……殺すなって言われてっから加減してやったんだけど。元気じゃん。頼むから、死なない程度に大人しくなってくれや」


「へぇ……?」


 整髪料なのか単に不潔なだけなのか、濡れた黒髪が目立つ白衣の男だった。ガリガリの身体は針金のようで、その肌もどこか生白い。そんな白とは対照的にべったりと染み付いた濃い隈の上、昆虫のような生気も感情もない瞳が俺を捕らえている。

 彼は無駄に長い脚を振り上げていて──あ、死ぬ。絶対死ぬ。狂ってる。

 地べたに倒れたまま、迫る革靴にひるんで目を閉じた、瞬間。


「じゃま」

「へぶっ⁉」


 俺と白衣のあいだに駆け込んできた第三者は、俺を軽く蹴飛ばした。

 少しだけ転がって、そうして俺は、向かい合う二人の様子を視界に収めた。


御鉢ミハチぃ……どういうつもりだァ? これ、裏切りだろぉ?」


「頭使ってもう少し真面目に考えてみたら? ……無理か。だって玉枝タマエダはバカだし、〈憑落〉に入ってる時点でまともじゃないもんね」


「自己紹介かァ? 御鉢だって、その『まともじゃない』組織の人間だろうがよォ」


「最初の爆発で死んでればよかったのに。バカは風邪もひかないし死なないから困っちゃう」


「そう簡単に死ぬかよぉ……俺ァ、霊薬擬きの開発主任だぞ? テメェの数倍勉強できるわ」


「その頭脳をバカなことに使ってるから、やっぱり玉枝はバカなんだよ」


 短いやり取りの七割も理解できない。けれども、俺は人影の正体に気がついた。

 涙やら痛みやらで視界がぐちゃぐちゃになっていたし、彼女の方も黒いパーカーのフードを被って顔を隠していたから気づくのが遅れた。

 でも、その声も背丈も俺は知っていた。


「鳴海君。頑張って立って。それで、死にたくなければ逃げて」


 視線をこちらに寄越しもせずに、低く唸るように言った彼女。

 集団に混ざらず距離を取りつつ、よろづの人に気を遣われてる同級生。独りで生きるのが当然だって顔をしてて、今まで声なんて一度も聞いたことが無くって──。


「……ささ、ぬき……?」


 笹貫郁子は、淡々と、繰り返した。

 

「〈憑落〉は、瓜丈高を狙ってるんだ」

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