異世界ループ

辻村奏汰

第1話

 今まで生きてきた中で、今日が最悪の日になった。


 つきあって二年経つ彼女に振られてしまった。

 渉(しょう)君って優しいけれど、それだけなのよね。なんていうか、退屈なの――だってさ。


 これって、あまりにも惨めな振られ方だ。

 俺なりに彼女を楽しませようと頑張ってきたのに、あんまりだ。


 北青山三丁目で表参道駅に向かって歩きながら、カップルと擦れ違いざまに男をチラ見する。真面目そうで、どこにでもいそうな男だ。俺となにがどう違うのだろうか。俺のほうがいい男だと思う。


 青春を謳歌できるのは高校二年の夏まで。来年の夏は受験勉強で忙しいんだ。なのに、こんな仕打ちかい。


 俺の心をソフトクリームのように溶かそうとする太陽は、頭上近くにある。


 何回か振られたことはあったが、待ち合わせ場所についた早々に別れ話を切り出されるなんて初めてだ。ドラマとかアニメ、マンガは、デートが終わったときに別れを切り出している。そういうものだと思っていた。一つ年下でファッションセンスがよく、今日も最高だと褒めたら、返す言葉が〝別れましょ〟だなんて。あり得ないだろう。あのまま、新しい彼氏とデートをしているのかも知れない。


 こんなところを彷徨(うろつ)いたってつまらないし、家に帰ってゲームでもしよう。夏休みの初日なのに、これではバイトとゲームだけの夏になってしまう。

 空に向かって〝畜生!〟って叫びたいけれど、恥ずかしいから家に帰って布団を被ってからにしよう。


 そんなやるせない気持ちを一転させる女が前方から歩いてきた。


 ハーフのような顔立ちで、薄いピンクのTシャツにジーンズ。オレンジのスニーカーを履いている。残念なのは、紺色の地味なウエストバッグをつけている点だ。俺と同世代ながら、ファッションに興味がないようだ。

 どこにでもいそうな風貌だけど、発するオーラがちょっと違う。声でもかけたらボコられるような、近寄りがたい雰囲気を持っている。ああいうタイプにも惹かれてしまう。猫を被ったかわいい系は二度とごめんだ。


 女がキョロキョロしだした。落ち着きがない。立ち止まってビルを睨み付けたり、黒塗りの車を目で追ったり。別の意味で危ない系なのかも知れない。

 交差点で三六〇度見渡しながら匂いを嗅ぐ仕草をして右に曲がった。女が立っていた場所で同じように嗅いでみるが、埃っぽいだけ。意味不明だ。


 今日一日暇になった俺は、挙動不審の女を見届けることにした。家でゲームするより面白いかもしれない。五十メートル先を歩くターゲットを追う。

 上下動のない、武道をやっているような隙がない歩き方をしている。体育会系女子というのもありだと思わされる。


 取り壊しが決まったビルを何周もする。不法侵入対策で二メートルある安全鋼板の仮囲いを観察している。足を止めてノックした。板から甲高い音がする。

 やはり怪しい。テロリストかも知れない。ビルに何かあるのだろうか。


 いきなり鋼板を蹴り始めた。俺が視界に入っているはずなのに、気にせず何度も蹴飛ばす。大胆な女だ。

 俺は怖くなって回りを見渡す。こういうときに限って誰もいない。つまり俺だけ。


 すると、ドンという音と共に板が外れた。無造作に引っ張り倒して入っていく。

 かなり危ない女だ。物凄いことが起きるのではなかろうか。放火とか爆破とか。しかし、ウエストバッグ一つでできるのだろうか。

 恐いもの見たさに後を追った。


 あれ、今の俺ってストーカーじゃない?

 いいや、違う。もしかしたら、大犯罪を食い止めるヒーローになるかも知れないんだ。だから、これはありだ。


 皹(ひび)の入ったコンクリート地面から膝丈ほどの雑草が生えている。経営破綻して半年以上が経っている、ある会社の廃ビルだった。引受先が決まって立て替えると耳にしている。

 前方にある出入り口のガラス扉がゆっくりと閉まりかけていた。

 ズボンのポケットにあるスマートフォンを確認した。やばいことになりそうだったら、すぐに警察に通報だ。

 ガラス張りの正面玄関前からは、中の様子がわからない。両手で覆うように覗くが誰もいない。行けるところまで行こうと決意して扉を開けた。


 埃とカビの匂いが身体に纏わりつく。嘔吐きそうになって後悔が過る。この匂いは苦手だ。

 入ってすぐ、十メートル四方以上はあるフロアで立ち止まった。前方には改札機のようなセキュリティのゲートがあり、その奥はエレベータホールになっている。左手は打ち合わせブースが、右手はコンビニエンスストアだった形跡がある。


 女を見失ってしまった。


 前か右か左か。迷っていると廊下を走る音がフロアに響き渡った。どうやら上階から聞こえてくる。

 閉じたままのセキュリティゲートを乗り越えて、エレベータの前に行くが、廃ビルでは動いているわけがない。奥に階段がある。音を立てないように上がった。スマートフォンを確認すると、電波の受信状態が悪い。大丈夫、何とかなる、と心に呟いた。


 ガラスの割れる音がした。どうやら二階のようだ。


 二階では左右に廊下が続いている。外壁の窓ガラスから入ってくる太陽光で視認できた。微かに舞う埃。人が行き来した痕跡がある。下半分が曇りガラスとなった壁の向こうに広大な部屋があり、人影が見える。

 気合を入れ直して、開いたままの自動ドアから身を低くして入った。等間隔に柱がある以外何もない廃墟の部屋だ。


 柱の陰から様子を窺った。


 例の女は背を向けて、全身黒で覆われた男と向き合っている。ボサボサの長髪の男は異様に細く、頬が痩けていた。この組み合わせは、男が悪党で女が正義の味方というパターンだろうか。


女が一歩一歩男に近づいていく。聞き慣れない言葉を発すると右手に剣が浮き上がるように現れた。中世ヨーロッパにある両刃の剣だ。


 黒尽くめの男は右手からSF映画に出てくるような、握力計の形をした銃が現れた。手品を見ているようだ。光弾が女に向かったが、剣を持っていない左手を広げ、その中に吸い込まれていく。そのまま、中段の構えから脇構えに変わり、身を屈めながら二三歩踏み込み、右手を振り上げた。鈍い音を立てながら指ごと銃が真っ二つになった。


 呻き声が部屋に響く。弧を描くようにそのまま剣を横に振るが、男は苦痛に顔を歪めながら後ろに下がって躱した。

 男の左手に女と同じような剣が現れた。


 気合いの入った声と共に女は斬り掛かる。難無く受け止めた男は、そのまま力任せに払いのけた。よろけながら二三歩後退りした女は、踏み込んで何度も振り下ろす。剣どうしのぶつかる音が部屋に反響する。


 一体これはどうなるの、の心境で見守るしかなかった。

 間近で見届けようと四つん這いになって柱から柱に移動する。


 防戦一方の男の右手がぼんやりと光るが暫くすると消えてしまった。何かをしようとしたが、指を失くして上手くいかなかったようだ。


 男の掛け声と共に女の持った剣が弾き飛ばされた。すかさず、蹴りを贅肉のなさそうな腹部に入れた。五メートルほど吹っ飛んだ女は鈍い音を立てて背後の柱に叩きつけられた。

 勢い余って前屈で跪くが、気合いを入れなおすような雄叫びをあげながら、必死に立ち上がろうとする。横の柱から眺めていた俺に気がつき、怪訝な目を向ける。


「なんだ、お前」


 一瞬の隙を突くように男が何かを呟いた。

 すると男の周辺が陽炎のように揺らぎ、蒸発するように消えていった。この世にあり得ない現象ばかり目の当たりにして、自分が何者かさえわからなくなってきた。


「逃げられた。畜生」地面を拳骨で叩いた。「いつも後一歩のところで」

 女は黒くごついダイバーウォッチのような腕時計に目をやった。

 何かを呟くと「ううう」と唸りながら両手でお腹と背中をおさえる。

 かなりのダメージを負ったようだ。後頭部をぶつけなかったのは幸いだ。


「大丈夫かい」と女に近づいた。

「誰だ、お前は」と睨み付けてくる。「お前のせいで逃げられた」

 それは言い掛かりだと反論したいが、向けられた殺気で言葉が出ない。


「タイムリミットだ。私から離れろ」と突き放そうとする素振りを見せる。

「怪我をしてるんだろ」さらに一歩近づいた。

 再び女が何かを呟くと、周りが白く歪んだ空間になる。


 急にめまいに襲われた。グルグルと回る景色に吐き気をもよおす。立っていられなくなり女と同じように跪き、そのまま俯せに倒れた。


(第2話に続く)

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