教育実習生への恋心 (高校三年生女子 @書道室

 やっとお目当てを見つけた。


 優香は胸の高鳴りと共に勢い良くドアを開いた。


「いたっ!」


 優香の大声に甲本先生がビクッと肩を揺らす。「こんなところにいたんだ」


 漂う空気に墨のにおいを嗅ぎ取った。

 清らかな沢が流れる深い森の中のような。


「峰山か。もうちょっと静かに入って来られないのか」


 手にしていた筆を硯の横に置き、先生は眉根をひそめて腕組みをする。


 銀縁メガネのレンズの向こうで怒らせた目にはどこか優しい光がある。


「甲本先生が勝手にどっかに行っちゃうからじゃん」


 注意されたことなど歯牙にもかけず優香は大股でズンズンと書道室の中に入り、机を挟んで先生と向かい合った。

 先生の真似をして腕を組んで睨み合う。「探したんだよ」


「知らん」

「うわっ。冷たっ。可愛い教え子が広い校内を足が棒になるぐらいにさまよい歩いたって言うのに」

「これぐらいの広さで足が棒になるのは鍛え方が足りない証拠だ。部活に行ってこい。峰山は何部だ?」

「帰宅部。でも、書道部に入ろうかな」

「この学校に書道部はないらしいぞ」

「じゃあ、先生と私とで作ろうよ。レッツ!書道部!」


 拳を高らかに挙げる優香に先生は呆れ顔だ。


「残念ながら、俺がここに来るのは明日までなんだよ」


 甲本先生は教育実習でこの学校にやってきた。

 二週間のカリキュラムの最終日が明日だ。


「知ってるよ。だから探してたんじゃん」

「何の用だ?」

「訊きたいことがあったの」

「ん?」

「甲本先生。先生はたった二週間で高校生の何が分かったの?」


 優香の質問は先生にも即答できないほどの難問だったようだ。

 先生は返答までの間を取るように開いた右手で顔を隠すようにして眼鏡の位置を直した。


「教育実習の目的は俺自身が大学で学んだことの実戦の場であり、教師という職業に対する俺の適性を知るためにある時間だ」

「ふーん。要するに、教育実習生は生徒を理解する必要はないってことね?」

「そんなことは言っていない。それも一つの要素だが、それだけが目的ではないってことだ」

「じゃあ、私みたいな生徒を知るってことも一つの要素でしょ。だったら、もう一週間延期して、私から学んでよ」

「何を?」

「何をって……」


 冷静に訊ね返され、優香は困って周囲を見た。「これ、何?」


 甲本先生の右隣の机に何枚も半紙が並んでいる。


 前進 未来 息吹 成長 鍛錬 心技体


 半紙に書かれているのはどれもありきたりな熟語だが、いずれも滑らかな筆致で書かれ、半紙の中にバランスが良く収まっているのに、字に躍動感があった。


「峰山のせいだ」

「私?」

「峰山が授業中に俺の字が見たいって言うからこうなった」


 そんなことあったな。

 現代文の授業中、先生の板書の字がとても美しかったので、「先生は字が上手ですけれど、書道を習ってたんですか?」と訊いたことがあった。

 その時、先生は「ちょっとな」で終わらせたが、その代わりに指導教官役の担任教師がニヤニヤしながら「甲本先生は師範の資格を持っていて、書道教室を開くことができるんだぞ。展覧会で何度も入賞して新聞にも載ったことがある」と教えてくれた。

 担任教師は過去に甲本先生がここの高校生だった時の担任でもあったらしく、彼のことを色々と知っている。

 新聞に載るレベルと聞いたら、作品を教室に飾らせてくださいってお願いするのは当たり前だ。


 先生は律儀にそのお願いを聞いてくれて、今ここで作品作りをしているということらしい。


「真面目だなぁ」


 思わずそう口にしたら、キッと睨まれた。


「じゃあもう辞める」

「え、え。嘘です。お願いします。できたら私個人にも書いてください」

「もらっても捨てるだけだろ」

「そんなことないよ。額縁に飾って家宝にするから」


 先生は優香の目をしばらく黙って見つめ、そして半紙に一気に熟語を書き上げた。



 家宝



「じゃあ、これ、やるよ」


 たっぷりと墨を使った均一に太い字。

 言葉にふさわしい重々しさがある。

 だけど……。


「家宝って、私を馬鹿にしてるでしょ」


 図星だったらしく、先生は笑いをこらえるように口元を引き絞った。


「どれが良いと思う?」


 先生は話題を変えるように並べてある作品に視線を移した。


「んー。どれかなぁ……」


 一つを選ぶのは難しい。

 同じ書体で書いているものは二つとなく、それぞれ味わいが違う。

 こんな風に書体を使い分けることができるなんて、先生はいったい今までどれぐらいの字を書いてきたのだろう。

 たゆまぬ努力を重ねて積み上げてきた実力が字に現れている。

 自分に厳しくなければ、たどり着けないと思う。

 そんな先生はやっぱり素敵だ。

 何だか急に先生への気持ちが膨張して胸がいっぱいになる。「先生。私、伝えたいことがあるんです」


「何だ?」

「好きです」


 優香は努めて真面目に先生の目を見つめた。

 冗談とかふざけているとか思われたくない。

 小さな胸の中だけでは仕舞い切れない真剣な思いを正面からぶつけたい。


「それは昨日聞いた」


 先生は一寸もうろたえることなく、まるで用意していたように即答した。


「ちょっとぉ。生徒の一世一代の告白を何だと思ってるんですか」


 優香は机を叩いて身を乗り出した。

 頑張って言ったのに、ちっとも相手にしてもらえない。


「お前の『好き』は一時の気の迷いだ。もう少し自分の気持ちを冷静に分析してみろ」

「気の迷いなんかじゃありません。先生のことが四六時中頭から離れないんです」


 こんなことは生まれて初めてなのだ。

 周りの生徒には感じたことのない気持ち。

 だからこそ、今は照れたり、躊躇したり、ましてや冷静に分析などしている場合ではない。

 先生は明日でこの学校に来なくなってしまうのだ。

 そうなったらもう会うこともままならない。

 今日中に今後の二人の関係を築き上げないと、張り裂けそうなこの気持ちを無理やり抑え込んで、苦しみに悶えながら時の流れに風化させられるのをひたすら待つしかなくなる。

 そんなの嫌だ。


「お前の気持ちが本物だったとしても、悪いが俺は応えられない」


 先生は冷酷に宣告した。


「先生……」


 はっきりと断られた。

 喉元に強い圧迫感があり、じわっと涙が溢れそうになる。

 でも、まだ勝負は終わっていない。

 諦めたら、そこで試合終了だ。

 何とか突破口を探せ。「私が高校生だからですか?」


「まあ、それも一つの要素だ」

「先生。私、昨日寝る間を惜しんで調べたんです」

「何を?」

「淫行について」


 さすがの先生も頬が赤くなった。

 女子高校生から「淫行」という言葉を聞いて、動揺している。

 可愛い。「法律や条例、それから最高裁の判例にも当たりました」


「ほう……」

「私、高校生ですけど、もう十八歳になってます。だから未成年ではないので青少年保護育成条例の対象ではありません」

「ふむ。なるほど」


 先生は少し感心したように腕組みをして頷いた。


 これは少し脈があるのかもしれない。

 ここが突破口か。

 押せ、押せ。

 先生の心をこじ開けろ。


「だから大丈夫なんです」

「何が?」

「先生が私とする同意のもとでの淫行は法律上何ら問題ありません」

「プラトニックな恋愛だって存在するぞ」

「お言葉ですが、私の辞書に淫行のない恋愛なんてありません」

「どんな辞書なんだよ」


 先生は苦笑して、また眼鏡の位置を直す。


「だって、そうじゃないですか。せっかく付き合っても淫行しないんじゃ、私の体に興味がないんじゃないかって悩んで苦しんじゃいます。ありのままの姿を見せあうから相手への理解も深まるし、お互いに相手を気持ち良くしあうから絆も強くなると思うんです。適宜適切な淫行こそが充実した恋愛の鍵なんです。それが恋愛の醍醐味じゃないですか」

「淫行、淫行うるさいな。こんなところで誰かに聞かれたら、俺の立場がなくなるだろ」

「だって……」

「十八歳は成人だとしても、高校生である以上、教師と生徒間の不可侵な関係は厳然とそこにあるんだ。その立場を無視して付き合うなんてできない」

「先生……」


 駄目か。

 一瞬、いけるかと思ったけれど、甲本先生の壁は相当に厚い。

 失恋の二文字が眼前に迫ってきて、背中が炙られるような焦燥感が生まれてきた。


「冬には受験だろ。俺のことは忘れて、しっかり勉強しろ」

「できません……。できませんよ、そんな……」


 優香は溢れ出てきてしまった涙を手の甲で拭った。


 書道室の中に沈黙が訪れた。

 女子高生の涙を前にしてはさすがの先生も言葉がないのだろうか。


「困った奴だな」


 先生はどこか諦めたような口ぶりだ。


「私、先生が……いな……いと駄目……なんです」


 嗚咽が邪魔をして上手に喋れない。


「じゃあ、携帯の番号を教えろよ」

「へ?」

「卒業式の日に電話してやるよ。その時に、お前の気持ちをちゃんともう一度聞かせてくれ」

「え?」

「卒業式までまだ半年以上ある。その時でも気持ちが変わらないのなら、一時の迷いじゃないって認めるよ」

「えーっ!」


 優香は口を両手で覆い、湧き上がる喜びで目を大きく開いたが、すぐに肩の力を抜いた。「あー。でも、半年以上もあるのかぁ。悶々として気が狂いそう」


「んな、大げさな」

「甲本先生。お願い」


 優香は自分の顔の前で合掌した。


「何だ?」

「チュウして」

「はぁ?」

「ここでチュウしてくれたら、耐えられる」


 優香は机に手を突き、目を閉じて先生に向かって唇を突き出した。


 先生は「お前なぁ」と盛大にため息をついた。


 しかし、優香は「ん。ん」と諦めずにキスを求める。


「お前にはこれをやる」


 優香の唇には先生の唇ではなく、紙の感触があった。

 墨のにおいが鼻腔を刺激する。

 目を開くと、一枚の半紙。


「えっと、これ何て読むんだっけ?」


 そこには美しい字でこう書いてあった。



接吻

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