出立の日 (戦地から一時帰還した男(32歳) @自宅の縁側)

「眠れないのですか?」


 背後から妻が小さく声を掛けてきた。

 縁側で何をするでもなく蛙の合唱を聞いていた俺の隣に腰を下ろす。


 満月の光が眩しいぐらいに俺たちに降り注ぐ。

 ずっと飽きずに見ていられる。

 我が家から望む月はこんなにも美しかったか。


「ああ。眠れないし、眠りたくない」


 今、ここに居る時間を最大限味わいたい。

 眠ってしまったら、起きたときには朝だ。

 すぐに出立となる。

 今度の出立は前回のそれとは緊迫度が違う。

 戦況は日に日に悪化している。

 生きて帰って来られるかどうか。

 だからこそ与えられた一週間の休養。

 そして最後の夜。

 これで妻と娘の顔の見納めとなるのかと思うとやり場のない気持ちが次々に湧き上がる。

 娘は五歳になったばかりで、漸く言葉のやり取りができるようになってきた可愛い盛りだと言うのに。

 娘はいつまで俺の顔を覚えていてくれるだろうか。


「私も今日ばかりは眠りが浅くて」


 妻は自嘲気味に笑った。

 妻はいつも眠りが深く、ちょっとやそっとでは起きない。

 地震で家がミシミシ家鳴りして、俺と娘が目を覚ましても妻だけは眠っていたこともある。

 華奢ではあるが、昔から肝っ玉の据わった女だ。


「蛙の声が耳に心地良い」


 こうして家で妻と静かに座っていることが俺の心を静かにさせてくれる。

 明日、戦地に向かうという状況になって初めて家を取り囲む環境に自分の心身が癒されていたことを知る。


 夫婦はしばらく言葉なく、深夜の合唱に耳を澄ませた。


「ちょっ……。何ですか、その荷物は!」


 不意に妻が怒ったような声を出す。

 月明かりに目が慣れて、俺が脇に置いている雑嚢を見つけてしまったようだ。

 軍服の上着を掛けてあるが、直接見えなくても妙に膨らんだそのシルエットは隠しようがない。


「すまん。お前たちに見送りをさせるのは心苦しくてな」

「そんな……」


 口元を歪めた妻は悔しそうに自らの太ももを殴った。「黙って行こうとなさったんですか?」


 本当に殴りたかったのは太ももではなく俺だろう。


 俺は「すまん」と小さく頭を下げた。


「自分の決心が鈍るとも思ったんだ」


 こんな弱気な心は妻にも話したことはない。

 情けなくて涙が出てきそうだ。「だけど、行けなかった。足が前に出なかった。そして、お前に見つかった」


 妻が俺の二の腕の辺りのシャツを掴む。「辞めてください」と潤んだ声でグイグイと上下に動かす。


「寝ている間にあなたが消えていたら、私は悔やんでも悔やみきれませんよ」


 妻が俺の肩に額を押し付けてきた。

 ぽたぽたと落ちる音は涙か。


「すまん」


 俺は鼻の奥に細い痛みを感じながら、妻の華奢な肩を抱き寄せた。「本当にすまん」


 妻が鼻をすする音が蛙の泣き声に半ばかき消される。


「一緒に……」

「ん?」

「一緒に逃げましょう。三人でどこか遠くへ」


 妻の涙に濡れた目が月光を宿し、揺れる。「そうしましょう」


 誰かに聞かれたら夫婦もろとも一巻の終わりだ。

 それを分からない妻ではない。

 だからこそ妻の必死さが伝わってくる。


 俺は思ったことを口にするのを一瞬躊躇した。

 しかし、言わなければならない。


「馬鹿言え」


 本心は違う。

 妻に伝えたいのは感謝の気持ちだ。

 俺と子を大事に想ってくれてありがとう。

 だが、その気持ちとは違うところで、最も大切にしなければならないものを俺たちは物心ついた時から心に叩きこまれている。

 この国のために、天皇陛下のために戦う。

 それが日本に生まれた男の最上の使命であり、喜びなのだ。

 それ以外のことを考えることは罪だ。


 それに、現実問題として、どこへ逃げると言うのか。

 狭い日本の中で幼い子どもを抱え、姿をくらますということは至難の業だ。

 あっという間に憲兵に見つかってしまうだろう。

 そうなったら非国民として親族にまで迷惑が掛かる。

 そして家族三人、全員銃殺だ。

 一人で死ぬか、三人で死ぬか。

 妻と子を道連れにするなんて男としてできない。「俺は日本男子として生まれた。国のために戦う誇りを捨てさせないでくれ」


 妻はがっくりと項垂れ、「申し訳ございません」と言って、手の甲で涙を拭った。


「あなたの邪魔だけはしたくありません」


 いやいや、謝りたいのはこっちだ。

 戦争が始まってからというもの、家のことは妻に任せっきりになってしまった。

 そして、それは今後も長く続いてしまうだろう。

 しかし、国のために戦地へ行くことは名誉なこと。

 軽々に謝罪の言葉は口にできない。

 俺は黙って妻の手を取った。


「良い時間をありがとう」


 俺は沓脱石に立ち上がった。「もう……、行こうかと思う」


 妻が口元をキュッと引いて俺を見上げる。

 その目から次々と涙が溢れる。


「最後に……あの子に会わなくてよろしいので?」


 俺は月を見上げた。

 そうしないと、何かが零れ落ちそうだ。


「会えば、未練が止まらなくなる」

「どうしたの?」


 奥から娘の声。

 眠そうに目を擦りながら、こちらにやってくる。「もう、朝?」


 妻は娘に涙を見られないように、慌てて指で目尻を拭う。


「起こしてしまったか」


 俺は縁側に座り直し、娘に努めて優しく声を掛けた。「違うよ。まだ夜だから、寝ていて良いんだよ」


「そっかぁ。良かった」


 娘は甘えて俺の首にすがり付き、そして定位置とばかりに俺の膝の上に腰を下ろした。


「ここで寝るのかい?」

「うん。ここが安心。一人で寝るのは怖いもの」


 娘は満足げに俺の胸に頬を寄せた。


 娘の柔らかな重みに俺はもう動くことができない。


「そうか」


 愛娘には勝てない。

 俺は諦めの顔で妻と見つめ合った。

 そして、懐にいる娘の耳元に小さく話しかける。「ちょっと頼みがあるんだけど」


「なあに?」

「おとうのここに口づけしてくれないか」


 俺は指で頬を示した。


「いいよ」


 娘は首を伸ばして俺の頬に接吻した。

 ちゅばっと音を立てるのが娘のお気に入りのやり方だ。「おとう。大好き」


 娘は俺の腕に抱かれて、すぐに健やかな寝息を立て始めた。

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