27:溶

 泣いている子供がいて、手を伸ばす。

 子供の肩を抱こうとした手はすり抜けてしまって、悲しみと絶望だけが伝わってくる。

 ああ、まだ私は夢を見ているんだと気が付いて、大人しく微睡みに身を任せた。

 ここは温かくて心地がよい。ドクンドクンと言う鼓動と、よく分からないポコポコという水中にいるみたいな音、くぐもって聞こえる外からの雑音。

 心地よいんだけど、ただ、ずっとずっとお腹が減っている。

 空腹には慣れているし、まだ眠っていたい。だから、身体を丸めて目を閉じる。


 思考が流れ込んできて混乱をする。これは誰の考えだ。

 辺りを見回したいが、身体の自由が利かない。ただ、静かな声で知らない女の声が頭に直接流し込まれている。


 兄は私に言ってくれた。ここに居ても良いよって。最初は怖くて逃げちゃったけど、兄こそが私の理解者だった。

 美味しいご飯を食べても食べてもお腹が空くのっていうと、成長期だから仕方がないよと頭を撫でてくれた。

 兄から「君の好きな人も連れてきてあげようか?」 そう言われたけれど、首を振った。兄は眉尻を下げて「わがままを少しくらい言っても良いのに」と笑ってくれて、出掛けていった。

 夜が明けて眠くなってそれから、兄と父親が戻ってきた。父親は酔っ払って寝ちゃったみたい。背中にはかっこいいライオンの模様が描いてある。


「ひとつになるんだよ」


 考えが流れ込んでくるだけで視界が共有されるわけではない。切断出来ないラジオのようなものが、一方的に聞こえ続けるのはなかなかに堪えるものだ。こちらの考えていることは、向こうに届いていないらしい。

 あの地獄の様な空間から逃れられたからか、もう寒気はしないからか、少しだけ冷静になる。

 兄と父、そして父の背中には獅子の模様。きっと清野家にまつわることなのだろう。


――うょりつりょにうゅきうゅき んさいたいれやきや

――ゃじんばくぶうょち んじわうぐき ょじいかくばゅじ


 妙な呪文まで聞こえてくる中で、ではここは? と自分に問う。

 意識を失う前のことを思い出す。もがいでももがいでも出られない地獄の様な空間は、精神の蟻地獄と言っても差し支えがないかもしれない。こじつけのようなものだが。それならば、ここは地獄の底か、蟻地獄の胎の中か……。

 どうにかここから出られないものか……と思案する。ヒサカキを出せないかとも悩んで念じてはみるが、気配はない。

 何も視えない空間で、一方的に思考が流し込まれて、自分を思考をしている女との境が曖昧になる。

 兄は愛おしい存在であり、父親も恨んでいるが今は好ましく思っている。母についても寂しかったが今は一緒にいられてうれしい。そんな感情まで勝手に流し込まれてくる。

 これは俺の感情でもないし、俺の気持ちではない。そう何度も言い聞かせながら、見えない自分の掌をギュッと握り込んだ。


――あの人には悪いことをしてしまった。

――蟻地獄って英語でなんて言うか知ってる?

 女の声が流れ込んでくる。

 それから、父親が清野の家から帰ってきたときによく言っていた言葉が繰り返される。

「虫は蛹になると一度体をドロドロに溶かすものが多いんだ。そして、全く別の姿に変わっていく」

 蟻地獄って英語でなんて言うか知ってる?

「地獄から出ようともがけばもがくほど、早く巣の下に落ちるんだ。それに……よく見てごらん」

 蟻地獄って英語でなんて言うか知ってる?

「蟻地獄は待っているだけじゃない。こうやって下から獲物に砂を浴びせかけて地獄から出るのを阻止するんだ」

 蟻地獄って英語でなんて言うか知ってる?

 際限なく繰り返される言葉。これは清野の娘が父親から言われていた言葉か?

 なんのために?

 何かを思考していないと、どこまでが自分の考えかわからなくて狂ってしまいそうになる。

 封じられていた虫の怨霊か神か何か強大なもの。それをうちの社で少しずつ力を削いでいた。

 何故か一人だけ早く起きた清野の娘。

 父親は、師匠は……この娘に何をしていた?


――うょりつりょにうゅきうゅき んさいたいれやきや

――ゃじんばくぶうょち んじわうぐき ょじいかくばゅじ


 少し掠れた声。中年くらいの女性がぼそぼそと呟くような声で謎の言葉は聞こえ続けている。それと重なるようにして、また清野の娘のものであろう思考が頭の中に響く。

 父親が連続で出てくる地獄よりマシだと思ったが、長時間ここで意識を保っているのもキツそうだ。

 脂汗が額に滲んでいるのがわかる。意識をすると、自分の身体がまだきちんとあることを意識できる気がする。


 ねえ、ひとつになりましょう? ひとつになろう。ひとつになりなさい。ひとつになるべきだ。

 いいや、俺はひとつにならない。お前らとは家族ではない。お前らとは別の存在だから。

 シュルシュルという衣擦れの音が聞こえてきて、薄らと自分の身体が視界で捉えられてきた。

 俺は今、膝を抱えるようにして背中を曲げて横たわっている。周りにあるのはざらざらとした砂の壁のような物。

 衣擦れの音は、ヒサルキが紙垂しでから蛇の姿に変わって、俺の身体を這い回っている音だ。


――んしわゅじんこんし うょじうょひんこんし んらふんこんし


 ああ、そしてこれは、この音は。

 父親が唱えていた祝詞の一つを思い出す。これは、それの逆の効果を生む物だが。

 呪いの言葉だ。これは、酷く醜い呪詛であり、恐らく清野の家を破滅に導いた言葉。

 誰が、これを家に持ち込んだ?

 呪いの言葉を打ち消すように、俺は父親の真似をして言葉を紡ぐ。


「一心に願い申す――」


 ヒサルキの喉元にある金色の模様が陽の光のように輝いて、眩しくて思わず目を閉じた。

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