25:子

こうの直感はよく当たるからなぁ。んじゃあ、これな」


 ニタニタと笑みを浮かべたマダラは胸ポケットから四つ折りにされた小さな白い紙を手渡した。

 分厚い紙……和紙のようだが、それが何かまでは遠目ではわからない。

 俺の視線に気が付いたのか、マダラはこちらへ視線を向けるとそっと目を細めて、人差し指を薄くて形の良い唇の前に持っていく。

 しぃっと息を漏らして、唇の両端を持ち上げたその男は同性だとわかっていても、蠱惑的に見える。

 呑まれてはいけない。そう自分に言い聞かせながら、俺はマダラの顔を正面から見据えた。


「その紙は家の近くで捨てちまいな」


 マダラは杭にそう言うと、こちらへ歩いてくる。黒い三つ編みが揺れて、丸いサングラスの奥にある目が優しげに細められる。でも、俺は騙されない。こいつは多分、親しくない人間の事なんてどうでもいいと思ってる。


「さあて、どっちみち今夜か明日、決着はつくだろうなぁ」


 窓から外を見ながら、マダラはそういった。その言葉に釣られて俺と宇田川が外へ目を向ける。夜の繁華街は人で溢れていた。

 しかし、すぐに異変に気が付いた。一点だけ円上に人が居ない空間がある。意思に反してその中心に目が引きつけられる。

 地面につきそうなくらい長い髪をした病的なまでに色白の男が、じぃっとこちらを見て立っていた。

 遠くて表情なんてわからないはずなのに、男の顔がくっきりと見える。アレは、清野の家であった男だ。清野 陽景ひかげ

 男は真横にした三日月みたいな口をして笑っていた。口の中には、巨大な顎を持つ虫が入っているのだろう。

 特に暴れるでもなく、陽景は背を向けてゆっくりと歩き出す。街行く人は見えていないのだろう。だが、男が歩くとその近くの人間はまるでソレを避けるように歩く進路を変えていく。


「こんな人混みなのに、あそこだけ空いてるのなんなんだろうな」


「へぇ。おもしれえな」


 宇田川がそういうのと同時に、マダラは顎をさすりながらそう言った。

 清野の娘が噛んだ痕……そこにまとわりついていた呪いを人型に移したくらいしか心当たりがない。

 ここまで勘が鈍いのは才能の一種だ。自分を知覚していない相手には、呪いは効かないし、見えない物は怖がれない。

 つまり、あの陽景は器を伴ったものではなく、幽霊のような存在なのだろう。


「……誘いに乗るしかないだろうな」


 俺の言葉に頷いたマダラは、きょとんとしている宇田川の腕を引いてエレベーターへと向かう。

 杭は掃除をしてから出るといって、スタジオの中へと戻って行った。

 言葉も少なくなりながら、雑居ビルの外へ出る。少し汗ばむくらい蒸し暑いはずなのに悪寒が背中に走る。近付きたくないと本能が警告するのを無視して、陽景が消えていった方向へと歩を進めた。

 狭い路地裏へ入ると、寒気が更に増してくる。一歩進むごとに放置されたゴミ袋に潜んでいる得体の知れない虫がカサカサと音を立てて蠢く。

 絡みつくような視線。不明瞭な呪いの言葉、頬を馴れ馴れしく撫でるやけに冷たい手。普段なら俺を怖れて近寄ってこないがやたら近寄ってくるのは、俺が弱っているのか、この場があいつらの気を大きくさせているのか……。

 そういえば、さっきからやけに静かだな……と気が付いて足を止めた。マダラと宇田川の様子を窺おうとして、振り返ると目と鼻の先には古ぼけたコンクリートの壁があるだけだった。


「――しまった」


 気が付いて当たりを見回すと、薄暗い空間がぼんやりと明るくなっていく。

 俺が目指していた路地の先は閉じられ、四方を雑居ビルのなり損ないに囲まれている。

 いつのまにか、俺は妙な空き地に招かれていたのだ。

 焦りはしたが、取り乱すわけにはいかない。

 懐から扇を取りだして、紙垂しでを数枚地面へ落とす。小さな黒い蛇に戻った式たちは四方の壁を登り散り散りになっていく。外になんとか出て、マダラにでも報せを届けてくれたらいいんだが。


暁崇あきたか


 柔らかく、低い声が俺の名前を呼んだ。

 それは、長い間聞くことの無かった声で、聞こえるはずのない声でもある。

 辺りにあった影が濃くなり、目の前に集まり始め、徐々に人型になっていく。

 見たくないと思っても目が離せない。

 

「 暁崇、久し振りだね」


 叫びだしそうになる。幻だとわかっていても、抗いがたい。

 俺の師匠で、俺の父親。

 母に似て真っ直ぐな俺の黒髪と似ても似つかない赤茶けた癖っ毛を後ろで一つにまとめている。


「お前が……師匠を騙るな」


 扇を開いて口元を隠す。

 それから、黒い紙垂しでを取りだして地面へ落とした。

 俺の式で一番強力で生まれた時から一緒にいるのが黒蛇のヒサカキだ。

 首の鱗だけ輪っかのように金色の黒蛇は、力が強力な一族の守り神の証だった。


「ずいぶんと寂しい思いをさせてしまったみたいだね」


 涼しい風が頬を撫でていく。周りの景色が実家の縁側に変わっている。

 俺に話しかけてくる父親の顔をしたはゆっくりと縁側に座ると、俺の方を見て微笑みかけてくる。


「ヒサカキ、やれ」


 俺のヒサカキが地面を滑るように動き、父親の顔をした男へ襲いかかる。身体が何倍にも膨れあがり、大きく開いた口は人間の頭を飲み込めるほど大きい。


「アリジゴクを、英語でなんて言うか知っているかい?」


 蛇に喰われそうだというのに、恐怖の表情一つ浮かべないまま父親の顔をしたソレは、父親がいつも言っていた言葉を口にする。

 もしかしたら、本当に幻覚に囚われた俺に会いに来た父親だったのかもしれない。一瞬だけそう思ったけれど、ヒサカキは俺が迷って声を出す前に父親の幻を丸呑みしてくれた。


「蟻地獄は英語でAntlion……だからなんだってんだよ」


 地面に膝を着きながらそう漏らす。

 明るかった縁側は消えて、暗くて狭い路地裏に俺は戻っていた。

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