6:家

「母さん! 兄さん?」


 家の中は不気味なほど静まりかえっている。リビングを見たけれどいつもいるはずの母の姿はない。家を出るときに手つかずだった朝食はわずかに食べた形跡があった。


「お母さん!」


 大きな声で母親を呼んでみても応答はない。

 手掛かりでも無いものかと薄暗い部屋に灯りを灯すけれど、部屋に荒らされた様子などはない。泥棒が入ったということはなさそうだった。

 リビング、ダイニングと灯りを付けながら歩き回る。異常は無い。リビングから見える小さな庭も見てみたけれど、いつものように雑草が伸び放題の庭があるだけだった。

 地下室は私の部屋しかないからきっと誰も入らないだろう。残るは浴室とトイレ、そして二階。

 どうか何もありませんようにと願いながら浴室へ向かう。なんだか錆びた鉄の匂いが漂ってきて嫌な予感が濃くなってくる。

 このまま父親が帰ってきて私が何かを見前に全てを見てくれないだろうか。今日に限って残業が入り、父親よりも遅く帰ってくればよかったなんてことが頭の中に浮かんでくる。母親が死んでいることよりも、自分が母親をどうにかしたと思われるのが嫌なんだなって自嘲的なことを考えて現実逃避をしながら、脱衣所に辿り着いた。

 曇りガラスの向こうに明らかに何かある。

 開けるしかない。そう覚悟して私は引き戸を勢い良く開けた。


「っ……」


 浴室にこもっていた匂いが空気の流れに乗って一気に扉から開け放たれる。目が痛くなりそうなほど濃い血の匂いと共に、母親の無惨な姿が目に飛び込んできた。

 青白く、蝋人形のように変わり果てた肌には、鋭利な針が並んだ器具で刺されたような傷痕がいくつも並んでいて、穴のように空いた傷痕の近くの肌は真っ黒く変色している。

 お腹が切り裂かれ、零れたはらわたは浴室の床に花のように鮮やかに散乱していたし、水を張られた浴槽には足を折りたたまれた母親が、目と口を大きく見開いたまま鎮座していた。

 思わず口元を押さえて蹲る。心臓が痛いくらい大きく脈打って冷や汗が背中を伝う。

 警察に電話をしなきゃ……。それとも救急車? 父親に電話を? どうしよう。


芽依めい


 込み上げてきた胃液を飲み込み、スマホを取り出そうと鞄をごそごそと漁っていると背後から冷たく低い声が聞こえてきて、身が竦む。

 振り返ると、青白い肌の兄が無表情で立っていた。

 いつも自室に籠もっていた兄を見たのは子供の頃以来だ。すっかり背の高くなった兄の伸びっぱなしの髪は床を引きずるほど長く、母親の死体を目の当たりにしても何の感情も見せない兄は、怪物かなにかのように見えた。


に惑わされてはいけない。オマエはカミサマになるのだから」


 私の手首を掴み、兄は浴室へ入っていく。母親の死体の側に連れて行かれて、とうとう耐えきれずに込み上げてきた胃液を吐き出しても、兄は私を気遣う様子はない。


「ねえ、兄さん、兄さんがお母さんをころ」


 兄が私の言葉を聞かず、浴槽に手を入れた。それから母のハラワタを手に取って私の口元へ押し付けた。つめたくてぶよぶよして気持ち悪い。焼いていないホルモンを思い出して、また胃液がせり上がってくる。


「呪物は成った。最初の贄は捧げられた。贖罪の時だ」


 兄は手を離してくれなくて、ただ訳の分からないことをいいながら私の顔に肉を押し付けてくる。息が出来なくて仕方なく口を開くと、腐った肉に匂いと共に血と肉の欠片が口へと押し込まれる。吐き出したいのに呼吸を求める体はそれと一緒に空気を体に入れてしまった。


「オマエは喚ばれていたんだ。最初から」


 手を離され、屈み込んで私と目を合わせた兄の目にうぞうぞと動く黒い何かを見た。それは蚊の群れのような小さな虫の集合体に見えた。大量の羽虫が耳障りな羽音を放ちながら兄の眼球の中に閉じ込められている。


「ひ……」


 そのまま気が遠くなりそうだった。でも、ここで意識を手放したらどうなってしまうんだろう。

 怖くて、とにかく体を動かした。手に持っていた鞄を振り上げて兄の顔目がけて振り下ろす。

 細身の兄はそのまま体をよろめかせると、散らばっている臓物の中に尻餅を着いた。


「芽依」


 名前を呼ばれたけれど、無視をして私は走り出す。警察に電話をするのは自分の身の安全が確保出来たあとでいいだろう。

 靴を急いで履いて、転がり出るように家を出た。

 とにかく……安全なところにいかないと。どうしよう。安全って何? あんなことが起きたのに? 口の周りについた母さんの血を拭いながら考える。服は元々コーヒーや紅茶に塗れてたから血や腐臭もごまかせるかな。これは現実逃避だ。

 こんなときに、友達の一人でもいれば相談を出来たりしたのかな。

 息が切れてきたので立ち止まる。胸が痛い。喉も痛い。涙がぼろぼろと溢れてきて、足が震えてくる。きっと通り過ぎる人たちにはおかしくなった女だと思われているのだろう。

 とにかく邪魔にだけはならないようにと植え込みの近くにしゃがみこんで、服の裾で涙を拭った。


「清野ちゃん?」


 足音がこちらに近付いて来て、体を強ばらせた私の肩に手を置いた人は、私の名字を親しげに呼んだ。

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