1:箱

 今回は五日ほどで父親の怒りは鎮まったようだった。

 アルバイト先に無断欠勤を「家庭の事情でやむおえず欠勤してしまった」ととってつけたような謝罪した結果、散々怒られたけれどなんとか仕事を首にならずに済んだ。しかし、次はないと言われてしまった。


清野きよのさんは趣味とか無いの?」


 久々に出勤を終え、控室で制服から着替えていると同僚の佐倉さくらさんに唐突に趣味を聞かれたので、私はフリーズする。

 身体中に残る火傷痕を見られないように服で胸元を隠しながら、私は少し離れたところで制服に着替えている佐倉さんに視線を送った。


「ねえ、シカト? 感じ悪すぎるんだけど。せっかく無断欠勤するような人と仲良くしてあげようと思ってるのに」


「え、あの……ごめんなさい。ええと……趣味、は、昆虫観察とか」


 畳みかけられるようにまくしたてられて、脱ぎかけの服もそのままに私はなんとか答えを捻り出した。

 趣味と言えるような物なんて、出来損ないの私は持ってはいけないから。でも、あえていうなら虫を見るのが好きだった。そこらへんにいる蚊でも、蠅でも見ていると憎めなくなってくる。それに、みんなから嫌われている蚊だって血を吸うのはメスだけだし、それも繁殖期だけの話だ。普段は果実の汁などを吸っているということを多くの人は知らない。


「うっそー? キモっ。昆虫観察なんて小学生の趣味じゃん」


 佐倉さんは笑ってそう言うと、制服のボタンをパパッと手早く留め終えて控室から出て行ってしまった。

 ミルクティーみたいな綺麗な色に染めたセミロングの髪が、低い位置でひとつにまとまめられて揺れている。流行に敏感な彼女からしてみたら、確かに昆虫観察なんて気持ち悪い趣味だというのは当たり前のことだ。

 恥ずかしいような惨めなような気持ちになりながら、私は曖昧に笑いながら佐倉さんの背中を見送った。

 室内では曲名も知らないクラシックのバイオリンがやけにはっきりとした旋律を奏でている。


「キモ……か」


 自嘲気味にさっき言われたことをぽつりと漏らすと、余計みじめになった気がした。

 顔が熱くなって泣きそうになる。父親に罵られたときも、タバコの火を押し付けられた時も泣きそうになんてならなかったのに。


「あれ? どうしたの清野さん」


「な、なんでもないです」


 ガチャリと控室の扉が開いて、人が入ってくる。

 短いツンツンとした髪を明るく染めている彼は、宇田川うたがわくんだ。

 つり目だしちょっとやんちゃそうな見た目とは違って、私なんかにも気を使ってくれる優しい同僚だった。


「また佐倉になんか言われた? 家庭の事情で休んでたんでしょ? 気にしなくていいよ」


 私がいるのにも拘わらず、宇田川くんは制服のボタンを外して上半身を露わにした。ロッカーを開けるときに彼の長くて骨張った指がいってしまいそうになるのを堪えて視線をずらすと、鮮やかな青色をした蝶の絵に気が付いた。


「あ、バレた? 見えないところならいっかって墨入れちゃったんだよね」


「ごめんなさい! そんなつもりじゃなくて」


「怒ってないから、気にしなくていいよ」


 悪戯がバレた子供みたいに無邪気に笑って宇田川くんは、右胸に彫られている入れ墨について説明をしてくれる。

 体部分に比べて大きな翅、黒い縁取りのような模様と幾何学模様にも似た幾本の筋が特徴的な美しい蝶。


「……モルフォ蝶だ」


「そうだけど」


「あ、ごめんなさい。虫に詳しいなんて気持ち悪いですよね」


 意外そうな声で肯定してくれた宇田川くんだったけれど、さっき佐倉さんに言われたことを思い出して咄嗟に謝罪の言葉を口にした。


「いや、ちがうって。そんな謝られちゃうと俺が悪いことしてるみたいじゃん」


 口を開くと少し小さくて鋭い二本の犬歯がチラッと見える。宇田川くんは笑って許してくれると、そのまま黒いTシャツを着てから明るい朱色のパーカーを上から羽織る。


「ご、ごめんなさい」


「いいっていいって。またね、清野さん」


 手をヒラヒラさせて宇田川くんはさっさと控室から出て行った。時計を見るともう十七時を過ぎている。私も帰らなきゃ。

 急いで着替えをし終えて、人に見られないように顔を伏せながらアルバイト先を出た。

 夜は好きだ。明るい場所に虫たちは集まってくるし、それを見ているとなんだか一人じゃないって思える。

 帰路の途中で、青い誘蛾灯に引き寄せられた蛾が、バチバチと音を立てて焼かれていた。ヒラヒラと力なく落下した蛾は、私の足下に不様に着地をする。

 人目が無いことを確かめて、私は蛾を爪先で突いてみた。

 ふっくらとしたお腹を潰すとぶちりと音がして、どろっとした体液と卵のような物がはみ出してきた。

 子を残せずにお前は死んでしまうんだね。可哀想。

 手で摘まんで、私はポケットに蛾を押し込んだ。手に付いてしまった鱗粉をパンパンと手を合わせて払いながら、家へ向かう。

 早く帰らないと怒られてしまう。帰りたくないな。それでも、私に他の場所なんてないから……。

 憂鬱な気分になりながら玄関をノックすると、母親が扉を開いてくれた。

 青白い肌と痩けた頬からは生気を感じられない。白髪交じりで伸ばしっぱなしの髪はパサついていて神経質そうな視線で玄関の外を見回した。


「ただいま帰りました」


 外に近隣の人の姿が見えなかったからだろう。すぐに背を向けて自室に戻る母親に、私の声は届いていないし、聞こえていない言葉には応答がないのは当然だ。

 靴を脱いで踵を揃えてから下駄箱へ入れる。それから、自室へと向かった。

 階段を下りて、灯りのない部屋へと戻る。

 それから、そっとポケットの中にしまった蛾を取りだした。

 可哀想な子だ。綺麗な光に誘われて飛び込んだら死んでしまうなんて。

 体の表面を撫でるとふさふさとした毛のような感覚と鱗粉のざらっとした手触りがする。それから、踏んだときに飛び出してきた卵と体液のぶよぶよとした感触をひとしきり楽しんでから蛾の死体を小さな箱の中へと放り込んだ。

 真っ暗な部屋にある私の宝箱。宝箱の中にはたくさんの虫の死骸たちがいれてある。干からびてカラカラになっていたり、他の虫に食べられたりしているけれど、どれも私が最期を看取った可愛くて可哀想な虫たちだ。

 宝物を隠してから私は暗い部屋で三角座りをしたまま目を閉じる。


「虫は蛹になると一度体をドロドロに溶かすものが多いんだ。そして、全く別の姿に変わっていく」


 頭の中では顔も思い出せない誰かがまた虫についての説明をしてくれている。昆虫観察なんて気持ち悪いと言った佐倉さんの言葉が頭の中で繰り返されていたけれど、それも次第に聞こえなくなっていった。

 思い出の中で私は小さな少女になって、優しげな雰囲気の声の主が話す言葉に耳を傾ける。

 思い出の中にしか居場所がない私は、きっと蛹にすらなれずにこの地獄の中で朽ちてしまうのだろう。

 遠くから足音が聞こえてくる。どすどすと無遠慮に大股で歩いてくるのは父親だろうか。

 足音はどんどん近付いて来て、私の部屋の前で止まった。

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