第6話

 二人はしばらく人混みを抜けて足早に歩いた。アトラスはリーミルに手を引かれるまま素直に歩いた。歩きつつアトラスは言った。

「礼を言う。助けてもらったようだ」

 そう言うアトラスの純朴さにリーミルは好意を持った。愛玩動物のように可愛い。並の男なら女に強がってみせるに違いない。しかし、この若者は自分の剣の腕を誇ることもせず、トラブルを避けてくれた礼を言うのである。リーミルにとって、初めて観る種類の男だった。

「あなた、シリャードは初めて?」

「昨日、着いたばかりだ」

「それで、ふらふらと出歩いて、宿の場所を見失ったの」

「ああ。迷っていた」

 そんな短い会話の中、リーミルは若者の言葉に違和感のある訛りがあるのに気付いた。彼女の祖父のボルススは武人ながら政略に長けた男で、身内の政略結婚やら、各地に潜入させた密偵やら、各国の協力者らがリーミルが幼い頃から住まう王宮に集う。自然、リーミルは各国の言葉の言い回しや訛りに馴染んでいるはずだった。そんな訛りに当てはまらないのである。かといって、占領軍の蛮族の言葉遣いではなく、庶民ではあり得ないほど礼儀正しい物言いをする。

(あやつらの頑固さと純朴さは、策謀には向かぬ)

 リーミルの祖父ボルススがそう言ったことがある。ルージの人々の気質は裏工作には向かず、ボルススが唯一策略の手を伸ばしていない人々。リーミルが聞く機会がないとすればルージの訛りである。

(なるほど、ルージ者ね)

 ルージ国の出身者だと思いついたのである。彼女は心の底でアトラスの故郷を言い当てた。

「貴方、ルージの人?」

「私が、田舎者だと?」

「田舎者だというなら、まぁ、私も似たようなものよ」

 リーミルは水路の傍らのベンチにアトラスを誘って座らせた。行き交う人々の姿は多く、彼女たちに興味を示す者はいない。

 二人は意図して互いの名を名乗るのを控えた。相手の名を尋ねようとすれば、自分の名を名乗らねばならない。アトラスは偽の名を名乗ると言う知恵が回らず、リーミルはこの男の純真さに、偽りの名をすり込むことには罪悪感がある。

「ご家族は?」

「故郷には母と妹がいる。父はこのシリャードに」

「家族が離ればなれで、寂しいこと」

「いや。父はそうは思ってない」

「どうして?」

「父は異邦人の女とその息子の方を愛している」

 アトラスも目の前の女性が自分と同じ辺境の人間だと知って少し心を許したように、身分は隠したまま、生い立ちや境遇を語っている。

 自分より兄のほうが愛されている。

 自分を愛してくれる母のために。

普通なら隠しておきたい本音を、まるで姉に悩み事を語るかのように話している。

(なんとまあ、素直な男)

 知りたいことを素直に話してくれるか、語れずに正直に口ごもるだけ。フローイ風の言葉の裏に込められた腹の探り合いと比べれば、なんと単純。

 リーミルはこの正直なルージの若者に尋ねたい事がある。もちろん、祖父ボルススが勧める縁談の相手の評判や人柄についてである。

「ルージにはアトラスという王子がいるそうね」

 核心を突いた質問にアトラスは面食らって口ごもった。リーミルは勝手な推測を込めて、アトラスに返答を促した。

「何か、伝説のレトラスのように素晴らしい肉体の持ち主で、勇敢さは比類ないとか言う噂だわ。本当なの?」

 アトラスはもっとむっつりと黙りこくった。しかし、その表情を観察したところ、決してリーミルの言葉に不快感を感じている様子はなく、リーミルの指摘を密かに喜んでいる感情が滲み出している。

 どうやらこの男にとってアトラスという人物名は口にしがたいらしい。

リーミルは、ふっと吐息を漏らした。若者が腰に帯びる剣。その剣の束に青緑の輝きを放つアクアマリンの宝石がはめ込まれているのに気付いたのである。アクアマリンと言えばルージを象徴する色だが、そんな宝石を剣の束にはめ込んでいるのは王家の人間だけである。

(これが、アトラスなの?)

 そう気付いて、リーミルは興味深げに質問を重ねた。笑顔と裏腹に尋ねる内容は強烈である。

「お答えがないのね。では、ルージの牙狼王リダルが戦をしたがっているのは本当なの」

 アトラスはリーミルの言葉を言下に否定した。

「そんな事があるものか」

「でも、このシリャードでは、そんな噂で一杯」

 アトラスは考えつつ言葉を繕った。

「噂は事実ではない。王宮で王が戦を始めるなどと口にするのは聞いたことがない」

 アトラスはリーミルの明るい笑い声に言葉を途絶えさせた。

「あら、ごめんなさい。あなたを笑ったんじゃないの」

 リーミルはそう言って、心の中に残りの言葉を吐き出した。

(なんという、運命の神(ニクスス)のお導き。いえ、恋愛の神(フェリン)の悪戯?)

 『王』という単純な言葉の使い方が不自然だった。家臣が王を呼ぶときは、信頼や敬愛を込めて『我らが王』と呼ぶ。また、目の前の男の若さの家臣が王宮で王に謁見して言葉を交わすことはあるまい。リーミルは僅かなヒントから、目の前の若者がルージの王子、彼女が祖父によって政略結婚させられようとする相手だと判断してのけたのである。

 彼女は立ち上がって、一時の別れの言葉を吐いた。これから早急に祖父の所へ戻って決心をつげに行かねばならない。

「残念だけど、今日はここまで。貴方を送って行ってあげることは出来そうにないわ。」

 その通りである。この迷子の王子をルージ国王の館に送って行けば、まだ隠しておきたい自分の正体がばれてしまうし、アトラスも彼自身が隠しているつもりの正体を暴かれるのは望むまい。リーミルは立ち上がって水路の方を指差した。

「道を辿ってもダメよ、迷うだけ。水路の幅が広くなる方に向かいなさい」

 単純な理屈である。ルードン河から水を引き込んで広がっている水路である。交差する水路を幅の広くなる方を選んで辿ればシリャードの中心に近づけるのである。

「おいっ、娘」

 アトラスは戸惑いつつ駆け去ろうとするリーミルにそう声をかけた。リーミルは笑って立ち止まりつつ振り返った。この若者は女性に声をかけ慣れていない。慣れていればもっと別の言葉があるだろう。

(女についても、田舎者なのね)

 そう考えるリーミルに、アトラスは左腕につけていた腕輪を外して渡した。

「礼だ」

田舎者らしい律儀さでトラブルから救ってもらった礼にと、腕輪をはずして与えるつもりなのである。リーミルは腕輪を受け取りつつ礼の代わりに言葉を放った。

「また、近いうちに会えるでしょう」

 リーミルは駆けながらやや後悔している。アトラスの目の前で、見ず知らずの男の股間を蹴り上げるなどということをやって見せたことを。

 ただ、リーミルが好意を持ったこのアトラスの素直さは、アトラスが纏っていた仮面を剥いだ姿で、アトラスの家族から観れば思いもよらない姿に違いない。

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