小品集
第三十三話 知らぬが仏の笑噺 甲
「『頼むこの通りだ!友人を助けると思って聞いてくれないか!』」
聞き覚えのない男の声だった。何事かと思って聴こえて来た部屋を覗いてみると、質素な椅子に座ってげんなりとした表情を浮かべる『名無し』と、その前に土下座する同じくらいの若い男。はて、我が家に仕えている召使にこんな男はいただろうか。
「どうかしたのか、『名無し』」
「永暁さまこそ。急にわたしの部屋に来るなんて、珍しいですね」
彼は今お茶を淹れますから、と言ってもう一つ茶碗を出して来て、陶磁器の水差しから冷えた茶を注いでくれる。いや、まさかこの客には出していなかったわけではあるまいな?そう思いつつぼくは土下座したままの男に視線を向けた。
「この男は?」
「彼はわたしの友人で、秀才(注1)の王といいます。今回科挙を受けに来たわけですが、不幸にも落第をいたしまして。それでこの京師に『夏を過ごす』場所が欲しいということで、わたしのところに来たんです」
なるほどな。「夏を過ごす」とは、科挙に落第したものが次の試験を目指して勉強生活を送ることを婉曲的に言い表したもので、実際のところその期間は一夏どころではなく、最低でも三年、長くて十数年に及ぶこともある。当然その間住むところや生計を立てる手段は別に講じなくてはならず、実家に帰ることもできない受験者は不便な暮らしを送らざるを得ない。
「お前、
「ええと、石家荘ですが……」
この方は誰だ、という目を『名無し』に向ける王を見て、そういえばまだ自己紹介もしてなかったな、とぼくは思い直した。ごほん、と一度咳払いをして、
「済まない、わたしの名は永暁。この屋敷の主人で、当代の瀏親王だ。字を紫雲、号を冰鳴という」
「……し、親王殿下でいらっしゃいましたか!」
王は慌てた様子で床に膝をつき、ぼくの足元に叩頭する。久方ぶりに見た常識的な反応に少し戸惑いつつも、ぼくは彼の体を助け起こし、
「いや構わん。我が家の包衣である『名無し』の友人であるならば、わたしの友人も同然。さあ立って楽にするといい」
ぼくの言葉を通訳する時、彼がついでに簡単な事情の説明もしてくれたのだろう。王は立ち上がるともう一度頭を下げ、
「改めまして、わたくしは孝廉の王綺堂と申します。こちらの……『名無し』君とは、数年前からの親友でございます、殿下!」
「この者とは初めて会うが、何故これまで紹介してくれなかったのだ、『名無し』。お前に友人がいるとは知らなかったぞ」
「するまでもないと思っていたからです。だってほらこいつ、見てわかる通り『浮ついた《ウェイフケン》』男ですので。永暁さまに悪い影響を与えかねないかと」
「浮ついた男にはそう見えんぞ?」
「今にわかります……で、『お前は一体何をしにここへきたのか、俺にした様にしっかりご説明しろ』」
『名無し』に言われて、王はにっこりと屈託の無い笑みを浮かべ、
「ははっ!実を申しますと、わたくしはこの京師で夏を過ごすにあたりまして、家を一つ借りることにしたのでございます」
王の話によると、彼は京師で過ごすにあたり下宿先を探していたそうなのだが、なかなか家賃の安いところが見つからずに難儀をしていた。すると、先に試験を受けていた友人が一つ良い物件を世話してくれ、広さにしては破格の安さでそこを借りることができたのだという。
「どこかと申しますと、豊宜門内の玉皇廟街の屋敷でございまして、手入れがされていない為に古びてはいますが、一人で住むには勿体無いほどの広さがあるのです」
「なるほど?確かに悪くない話だ、だが、家がもう決まっているのなら、なぜ彼の所に来たのだ?しかも土下座までして」
「は、実を申しますと……その屋敷には、人を誑かす狐が住み着いているとの噂がございまして」
何やらどこかで聞いた話だぞ、という視線を向けると、彼は苦々しげな表情で頷いた。話の流れが大体読めてしまったので、ぼくは先回りをして、
「それで、怖いから一緒に泊まるか、もしくは狐を退治してはくれまいかと、そういう腹積りでここへ来たのだろう?」
「おや、これは流石聡明と世に名高い親王殿下。何から何までお見通しとは!」
「ね?お分かりの通り、とても浮ついた男ですよこいつは。わざわざこいつの為に骨を折ってやる必要はありません、永暁さま。大した報酬も期待できませんし」
そう言ってさっさと王を追い返そうとする彼を、ぼくは一旦留めて、
「まあそう無碍にすることはない。お前の友人なのだろう?なら、少しくらいは力を貸してもいいじゃないか」
「永暁さまはお人好しが過ぎます。もう少し非情にならないとこの先大きな損をするんじゃないかと心配です」
「なに案ずるな、ぼくは政治をやりたいわけでも栄達をしたいわけでもない。お前達とのんびり暮らして行けたらそれでいいのだから、お人好しでも十分務まるさ」
「もうどうなっても知りませんからね」
と、その様なわけで、ぼくらはまたしても懲りずに、狐狸の巣と言われる荒れ屋敷に足を運ぶこととなった。相変わらずかんかん照りの日差しが降り注ぐ、真夏のある日のことである。
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