バイオケミカルな愛情

るかじま・いらみ

第1話 Kick start my heart (キック・スタート・マイ・ハート)

 伊香保(いかほ)タチバナと出会ったのは、高校一年の四月のことだった。

 たまには仮想世界の青空ではなく、本物の空の下を歩き、日に当たってみたいなどと、いつもの自分では到底ありえない気分に陥って、昼間の散歩に出かけることにした。

 雲一つない快晴で、風はほのかに暖かく撫でるように吹いていた。強すぎず眩しすぎず、心地よい日差しが肌に触れてとても気持ち良かった。

 外に出てこんな気分、何年ぶりだろうか。中学の頃からはずっとインドア派だった。海も山も苦手。人混みは嫌い。子供の頃はもっと外で遊んでたはずだけど。

 葉桜になりかけの桜並木を通り過ぎ、市内を流れる一級河川にかかる大橋にさしかかった。

 その時、河辺に異様な光景を見た。

 女子が一人河の中で、何かを必死にタモですくっていたのだ。

 

 その子はどう見ても僕と同年代なのに、シルバーグレーのレディーススーツに身を包み、肩から黒いハンドバッグを提げ、白のパンプスを履いていた。まるで社会人OLだった。

 しかもこともあろうにその格好のままで河に入っている。濡れるのはお構いなしみたいだ。

 あまりのことに呆気にとられ、僕は思わず、

「そこで何してるの?」と聞いてしまった。

 ――話しかけてしまった。

 関わりを持とうとして、しまったのだった。

 でも反応はない。

 ……聞こえたと思うけど。

 するとその女子、何かを見つけたのか動きを止めてぴたっと静止し、タモを水面上すれすれに構えた。

 そしてえいっと小さく気合いを入れてから、川縁の雑草が生い茂るその下を一閃した。

 かかげ上げたタモの中に、採れた獲物がびたびたと暴れている。

 彼女は話しかけた僕に、ここで初めて振り返った。

「やったあー。採れたぁっ! あーはーはー」

彼女の顔を正面からはっきりと見た。

 切れ長の三日月のような瞳。外にはねた長い睫毛。

 掛けている眼鏡は、紫のつるにシャープなレンズの金縁フレーム。かなり印象的だ。

 レンズ近くのつるには、イヤリングのような可愛いガラスの飾りが揺れている。

 印象的と言えばもう一つ、かなりきつめの紅い口紅を塗った大きな口。

 髪は淡い茶色に染めて、頭のてっぺんでくるっとバレッタで止めていた。

 好き嫌いは別れるかもしれないが、それは確かに美人の一種であった。

 僕的にはちょっと微妙なタイプ。

 と言うか、第一印象として少し恐かった。

 美人であるだけに残念なことには、胸の盛り上がりが一切見受けられなかった。失礼にも女性かどうか疑うくらいに平らであった。

 彼女はザブザブと河を上がり、僕のほうへ歩きながら、にっこりぱっくり、その大口を開けてもう一度あーはーはーと笑い、高々とタモをかかげ、こちらに自慢げに獲物を見せてきた。

 なにっ? なんだろうか? 彼女は一体、何を採った?

 そこには、多分カエルだと思われる手のひらくらいの大きさの生き物が、タモの網に絡まりもがいていた。

 タモの網目から手足が飛び出していて、じたばた、じたばた。何か違和感を感じて、よおく見てみる。それは……何度見直しても五本あった。

 五本の足が、生えていたのだ。

「あ、そこのキミ。ちょっと悪いんだけど」

「え」

「これ、逃げないように見てて」

 僕の返事も待たず、どしゃっと無造作に僕の足下にタモごとそれを投げ置いた。

「こ、これっ、畸形じゃないの? ここの河、危ない工場排水とか流れてるのかな」

 何でそんなもの採ってるのかは取り敢えず置いとこう。

「畸形じゃないよ。もともとそういう形の生き物。サカキっていうの」

「え、さか……なんだって?」

「『サカキ』。逆さまの樹。別名、アルボス・ヴァースの種」

「えっと……? よく分からないけど、それは、つまり……産まれたときからからこういう形ってこと?」

「そ」

 右に三本、左に二本、何度見直しても、やっぱり見間違いじゃない。

 それらは体の側面から規則正しく交互に生えていて、数こそ不均等でもかえってバランスが取れているように感じられた。

 何方向からも角度を変えて眺めていると、それはその脚を器用に動かしてタモの網を抜け出し、逃げるべくガサガサッと土手を走り出した。

 それを見て僕は思わずがばっと、素手で押さえてしまった。

「あは。キミ、ヌメヌメとか脚いっぱいとか平気なひと?」

 彼女は僕の手からその妙な生物をひったくり、バッグから小さな水槽を取り出して放り込んだ。手には自分だけきちんとビニ手袋。ずるい。

 だけど、その短いやり取りで、一体僕のことをどう見たんだろう。その後に、唐突にこう切り出してきた。

「ねえ、キミ、あたしとつきあって」

「え? つきあう、……つきあう? 僕たち今会ったばっかりだよ?」

 ……いや、あの、今から考えると実にぼけた返事だったと思う。

 だけどこの時は真面目に答えたつもりだった。

 女子耐性の無い自分は、いきなり美人種と話すとまともに思考回路が働かなくなるのだ。本来なら冷笑される場面だったはずだ。

 なのに、この女子は、平然とした様子で、

「うん、キミがいいならそれで」と答え、続けて、

「じゃあ、あたしとキミは、今から彼氏彼女ね」と言い、

 ぱっかーと大きな口を開けて再びあーはーはー、と笑ったのだった。

「よろしくねー、あたし伊香保タチバナ」

「え、あぅ、えと、よ、よろし、く、お願い、します。

 僕は、鳴子(なるこ)アシタバ」

「ほんとは暇ならサカキの採集にちょっと一緒に来てくれないかな? ていう意味だったんだけどねー」とぽつりとつぶやいたのがぎりぎり聞こえて、顔から温度が抜けていくのを感じた。

 うああぁ。赤面ものの痛恨勘違い。ここでようやくそれに気づく。

 でも、あれ?

 彼女できた? 人生初だよ。いやいや、この子美人だけど、なんかハ虫類ぽくて怖いし、それに気になる点がほかにもある。

 ――とにかく。

 そのようにして、単なる勘違いから、またはただの会話の流れで、僕らは表面上恋人同士になってしまったのだった。


実は伊香保は、僕と同じ学校の生徒だった。

 同じく一年生で、それどころか驚くべきことに同じクラスであった。だがどうやら始業式を含めてまだ一度も登校していないらしい。

 ……そう言えば一つだけ不自然に空いてる席があったな。

 そうして彼女に出会ってからというもの、休日平日、昼夜問わず、僕は彼女が言うところの『サカキ』の生物の採集作業につきあわされ続けた。それが二人のデート代わりだった。

会った時からずっと気になってたこと。強烈な存在感と現実感を伴ったクリーチャー、『サカキ』とは一体何なのか。

 伊香保の言によると、サカキは逆の樹の意。サカキ=逆樹。逆さまの樹形図の生物群のことを指すらしい。

「表の樹形図に対して、進化の道筋が違うのよ、でたらめなのよ」、と。

 特徴を挙げると、まず基本的に左右非対称。

 あと無駄に色々多い。

 動物なら手足が、植物なら枝や葉っぱが無意味なほど多い。

 そしてそれらは大抵奇数本あり、前述の通りアシンメトリー(非対称)になっているのだ。眼や耳などの感覚器官も同様で、本来なら一つしかないはずの頭までもがその範疇に含まれる。

 また栄養の摂取や成長の過程、生殖方法など、『表の樹形図の生物』に比べて非合理的で摩訶不思議、意味不明だったりする。

 繁殖力は弱くて個体数は極めて少ないようだが、一方で一個体としての生命力は強いらしい。

 そして意外と身近にも住んでいるのだそうだ。

 興味が湧いたのは事実だが、こんなものの採集にとても色気なんて感じられない。

 本当のことを言ってしまえば、そもそも最初からお互い恋愛感情なんて無いはずで、デート(?)を重ねても、一向に関係は進んで行かなかった。進むはずがなかった。

 けれど仮初めでも恋人がいるということが嬉しくて、僕はなし崩し的に伊香保の行動に合わせていたのだった。

 彼女がとんだクソ女だということには、まだ気づかずに。


 五月。伊香保とつきあいだしてから一ヶ月ほど経った頃、彼女はとんでもないことを依頼してきた。

「元彼に、お礼参りをするから、一緒に来てくれない?」

「お礼? お礼って、何をする気なの?」

 僕を何に巻き込むつもりなのか。

「お礼だって。あたしを一人前の女性として扱ってくれて、ありがとうって」

「嘘だあ。絶対」

「うん、嘘。あははー。あのね、一発でいいから殴りたいの。でもあたし一人では力不足だから、キミ、後ろから羽交い締めにして? その隙にがつんとヤるから」

「それ、ちょっ、本気なの?」

「うん、本気。五人順番にやるからね。時間も手間もかかると思うし、ちょっと覚悟して」

 五人!

 五人って言った。元彼、元彼って、一人じゃあないんだ。十五才で元彼五人。

 今どき普通なのか?

「明日、さっそく一人目行くからねー」

 彼女の印象的な、ぱっかーと大きく開いた口。

 そして、あーはーはー、と気持ちが入っていない笑い声。

 悪い冗談としか思えないけど、でもきっと本気。どうなるか分からないが、今彼としてはやはり、行くしか、ないのだろうか?

 ……ないのだろう。

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