第21話 努力は無駄だった
トビアから特別休暇をもらった翌日。充分な睡眠をとって元気になったインノツェンツァは、王城へ向かった。
官庁街を抜けて久しぶりに間近で見る灰白の王城の姿は、インノツェンツァが働いていた頃と変わらず威厳を備えていた。重々しい門扉を守る兵士たちも一年前と同じ顔ぶれだ。
宮仕え最後の日に振り返って見たときとまるで同じだから一瞬、インノツェンツァはあの日に戻ったような気さえした。
まあ一年しか経ってないね。それでがらっと変わってるほうがびっくりだよ……。
苦笑しながらインノツェンツァが門に近づくと、門番たちが気づいて顔をほころばせた。
「お、インノツェンツァじゃないか。久しぶりだな。どうした?」
親しく声をかけられてインノツェンツァも笑顔になった。『酒と剣亭』にたまに来てくれる人なのだが、このところは顔を合わせていなかったのだ。
「お久しぶりです。今日はちょっとレオーネ王子に用があって……入っても構いませんか?」
「ああ、もちろんだ」
「ありがとうございます。あ、これ差し入れです」
インノツェンツァは表情を緩め、彼らに差し入れの軽食を渡す。こちらへ来る途中に屋台で買ってきたのだ。
そうして入城し辺りを見回しながら歩きだすと、足は案内がなくとも通い慣れていた道を自然と辿っていった。見知った顔を見つけたり声をかけられたり、視線を感じることを繰り返す。
やっぱり舞台じゃないところで注目されるのは、居心地が悪いなあ……。
歩きながら、次第にインノツェンツァは複雑な気持ちになっていった。
インノツェンツァはこの王城で常に人々の視線を浴び、その振る舞いと音楽の実力を値踏みされてきた。天才宮廷音楽家の娘で、国王や第二王子の覚えめでたい庶民なのだからある意味当然か。嫌味ったらしい貴族と会わないようといつも祈っていたものだ。
そうして喜びも苦しみも味わっただけに、廊下を歩くほど頭の中で記憶が再生されていく。
父の演奏に心弾ませた記憶、レオーネやイザベラと過ごした楽しい時間、宮廷音楽家として‘アマデウス’を奏でたこと。
不愉快な人々の嘲笑に泣きそうになったこと、もう見ていられないとリーヴィアに抱きしめられたこと。
――――自分の音楽を楽しめなくなった記憶。
やがて渡り廊下から建物の屋根が見え、インノツェンツァは足を止めた。
王城に設けられた音楽堂。ジュリオ一世が設計にこだわったという逸話が残る、王城でも指折りの由緒ある建物だ。普段は王族と宮廷音楽家だけが自由に出入りし、使うことができる。
かつてインノツェンツァが足を何度も運び、稽古をしたり王侯貴族に音楽を披露した場所だ。
今のインノツェンツァには自由に入ることができない場所――――。
「……」
インノツェンツァは目を数拍だけ閉じた。脳裏をよぎる記憶を振り払うように、また歩きはじめる。
さらに王城の奥へ歩いていくと、記憶のものとわずかも違わない扉の前にインノツェンツァは到着した。扉を控えめに叩くとほどなくして開かれる。
顔を出したラツィオはインノツェンツァを見るなり真っ青な瞳を丸くした。
「インノツェンツァじゃないか。どうしたんだ?」
「突然お邪魔してすみません、ラツィオさん。レオーネに会いたいんですけど、いますか?」
「ああ、ちょうど中で会合の準備をしてらっしゃるよ」
待っててくれ、と言い置いてラツィオはすぐ室内へ戻った。さほど待たず再び扉は開けられる。
随分久しぶりに入るレオーネの私室は相変わらず整然としていた。金の線で飾られた白い壁と臙脂色の絨毯、落ち着いた色合いの調度。臙脂のカーテンが両端を飾る大きな窓の向こうには、青々とした芝生の庭と他の棟が見える。優雅なワルツなのに奇妙な旋律が混じる、不思議な旋律のような部屋だ。
ラツィオが手早く紅茶と菓子を用意し、続きの間へ下がってすぐ。寝室から出てきたばかりのレオーネは、インノツェンツァを見るなり腰に手を当てて息をついた。
「インノツェンツァ、一体どういう風の吹き回しだ? もう城の門をくぐらないんじゃなかったのか?」
「私もそのつもりだったんだけど、非常事態なんだから仕方ないでしょ」
開口一番の嫌味にいらっとして、ソファで菓子をつまんでいたインノツェンツァは言い返した。
向かいのソファに座ったレオーネは眉をひそめた。
「どうした。まさか、リーヴィア殿の容態がよくないのか?」
「ううん、母さんのことじゃないよ。音楽会のほう。というかあの‘楽譜’」
「あの‘楽譜’? あれがどうした」
「ああ、うん……」
ここにきて、インノツェンツァは視線をさまよわせた。頬をかいて言葉を探す。
「そのー、ものすごく言いにくいんだけど………………あの‘楽譜’、写させてくれる?」
「……は?」
インノツェンツァが用件を口にすると、レオーネは胡乱な目になった。
「どういうことだ? まさかあれをなくしたとでも言うのか? ……いや」
問いかける声音が低くなり、目がすっと細められた。その探る色にインノツェンツァはぎくりとする。
その仕草でレオーネは確信を得たようだった。
「……盗まれたのだな。しかもお前が編曲した楽譜ごと」
やっぱりばれた……!
言い当てられ、インノツェンツァは視線をそらした。このあとの展開なんてわかりきっている。
案の定、レオーネの表情はたちまち険しくなった。
「参加者か、雇われた音楽家の仕業か」
「多分、ね。どこのどいつの仕業だか知らないけど、そうじゃなきゃ財布に目もくれずに走り書きの帳面と楽譜なんて盗まないよ。ああもう、黒幕見つけたら二発殴りたいっ……!」
「賛成はできないが、心情は理解する」
改めてこみ上げてきた怒りのままインノツェンツァが拳を握りしめると、レオーネは一応たしなめた。
「ないとは思うが一応、擁立した演奏者にそれとなく聞いておく。父上にも報告しておこう。楽譜を盗むような不届き者を、ジュリオ一世が遺した謎を秘めた音楽会に参加させることはできない」
「! それは駄目」
インノツェンツァは慌てて首を振った。
「犯人がもしわかったとしても盗んだ証拠はこっちにないし、どうせ犯人はしらばくれるに決まってるよ。それに音楽会のことはできる限り伏せておきたいんでしょう? 本格的に犯人探しなんてしたら、すぐ噂になっちゃうよ」
「それはそうだが」
「不届き者の音楽をジュリオ一世に聞かせるわけにはいかないって、国王陛下が音楽会を中止になさるかもしれないし。そういうろくでなしのために中止なんて絶対に嫌。レオーネは反対だろうけど、このことは黙っててほしい」
「……」
インノツェンツァが主張するとレオーネは片方の眉を上げた。両腕を組んでどこか面白がる顔をする。
「お前がまさかそこまでこの音楽会にやる気になっているとはな」
「そりゃそうだよ」
インノツェンツァは息巻いた。
「ジュリオ一世の秘密に迫るなんて面白いこと、そうそう関われないし。あの楽譜ってジュリオ一世が作った曲の楽譜かもしれないんでしょ? そんな一生に一度あるかないかの舞台、逃がすのは損じゃん。ここで音楽会を中止にしたり、編曲できなくなったから参加辞退なんてできないよ」
大体、とインノツェンツァは眉を吊り上げた。
「人の楽譜を盗んで作業妨害するうえ、自分が作ったふりするような卑怯者に負けたくない。もう一回作り直して、絶対見返してやるんだから」
最初は正直言って気乗りしない編曲作業だった。王家が代々ひそかに催してきたという点では好奇心がそそられはしたが、脅されていたのだから当然だ。それなりのものを仕上げて丁寧に演奏すればいい――――というやっつけ仕事で済ませる予定だった。
だがインノツェンツァはあの‘楽譜’の意味を知って、これは絶対に果たされるべき約束だと確信した。変わった曲をロッタ神殿で演奏できる貴重な機会だと無理やり前向きに考えるようにしていた音楽会は、神聖な儀式の場に変わったのだ。
この国の音楽家として、一人の人間として。自分はあの‘楽譜’を演奏しなければならない――――演奏したい。そんな欲がインノツェンツァの胸に生まれた。
なのに楽譜を盗まれて泣き寝入りなんて、誰がするものか。宮廷音楽家時代もそうやって数々の嫌がらせに立ち向かっていたのだ。
インノツェンツァの目を見つめたレオーネは、やがて短く息を吐いて頬を緩めた。
「……わかった。父上には報告しない。だが音楽会の終了後には報告させてもらうぞ。窃盗犯を見過ごすわけにはいかないからな」
「わかった」
レオーネの妥協にインノツェンツァは頷いた。
「じゃ、あの‘楽譜’写させてくれる?」
「ああ。待っていろ」
インノツェンツァが改めて申し出ると、レオーネは快諾して立ち上がった。寝室のほうへ下がってすぐ戻ってくる。
「ほら、‘楽譜’の写しだ。演奏者にはこれの写しを渡してあるし、私はどうせ編曲できなかったからな。これごと持っていくといい」
「あ、これごとくれるの? ありがと、助かる」
インノツェンツァはレオーネが渡してくれた‘楽譜’を受けとった。口にはしないがありがたく思いながら視線を落とす。
そして目を見張った。
「おい、どうした」
「これ…………やっぱり…………」
インノツェンツァは呆然と呟いた。
あの子が長老さんから聞いたのって……!
レオーネの呼びかけに応えるには衝撃が大きすぎた。まるで失くしたものを探しているのに全然見つからなくて泣きたくなっていたところに、突然それが転がりこんできたような気分だ。
「インノツェンツァ、一体どうしたんだ」
「レオーネ。‘楽譜’の写しって、誰が写したの?」
レオーネの再びの問いかけには答えず、インノツェンツァは逆に問いかける。答える間も惜しかった。
「……参加を表明した王族の人数だけ、父上が用意してくださったんだ。もっとも、私のようにそれをさらに写した者は他にもいるだろうが」
「つまり、馬鹿王子の部下は馬鹿ってことか……」
まあそんなのわかりきってたけどね!
王城の中、それもその馬鹿王子の異母弟の前であることなどまるで構わずインノツェンツァは毒づいた。
「あの馬鹿王子、あんな手抜きを渡して謎を解けだ? ふざけんな。手抜き楽譜で正確な曲作れるわけないじゃん。というか写しもまともにできないの? 馬鹿?」
驚きが去ったあとにこみ上げてくるのは怒りだ。昨日路地で絶叫するほど怒ったというのに、再び沸点を超す。
「誰が書いたか知らないけど私の労力、最初っから無駄だったじゃんこれ。私の苦労の時間を返せっ…………!」
「……怒鳴り散らさないだけましだが、その‘楽譜’に八つ当たりすることだけはしないでくれ」
低い声でぶつぶつ呟くインノツェンツァに、レオーネがぼそりと注意を促す。一応それを聞いていた彼女ではあるが、それだけだ。右から左へ言葉は抜けた。‘楽譜’に皺をつけないのは音楽家としての理性ゆえである。
しばらく間を置いて、ひとまず落ち着いたインノツェンツァは‘楽譜’を鞄にしまった。
「ごめん、レオーネ。これもらってくね。一応レオーネも競争相手みたいなものなのに、すごく助かったよ」
冗談めかしてインノツェンツァが言うと、ふんとレオーネは鼻を鳴らした。
「お前が競争相手だと思ったことは一度もない。お前がジュリオ一世やベルナルド一世の悲願を代わって果たしてくれるなら、それに越したことはない。擁立した演奏者には結果はどうあれ、充分報いるつもりであるしな」
「はいはい。レオーネはご先祖様が大好きだもんねー。そういうとこホント陛下とそっくり」
「先祖を敬うのは当然のことだろうが」
両腕を組んでレオーネは臆面もなく言い放つ。本当にこの表情、ジュリオ一世について語るときの国王に瓜二つだ。
「ともかく。これでもう帰るなら、ついでにイザベラと会ってやってくれ。お前が城に来ていたのに会えなかったとあとで知ったら、うるさくて敵わないだろうからな」
「わかった。今もあの部屋?」
インノツェンツァが尋ねると、ああとレオーネは頷いた。
「おそらく礼儀作法の授業中だろう。……くれぐれも、血生臭い話やお前の武勇伝の話はしないでくれ。あれが聞きたがってもな」
「私に武勇伝なんかあるわけでしょ、城下のしがないヴァイオリン弾きなんだから」
注文をつけられレオーネを睨んだインノツェンツァは、ふっとその顔を緩めた。
腹は立つけどいい奴なんだよねえ……余計な一言はどうにかしろだけど。
身分よりも相手の心根を重んじ、先祖に敬意を払い、音楽を愛し。――――何より友情に厚くて面倒見がいい。先日の夜のように、何故頼らなかったと怒るほどに。
それが頼もしくて、ありがたくて――――嬉しい。
「じゃあね、レオーネ」
表情を隠したくて、インノツェンツァはレオーネに背を向ける。さすがに自分が気持ち悪いくらい上機嫌な顔になっているのは自覚できたのだ。
するとレオーネがそうだ、と声をかけてきた。
「インノツェンツァ。お前はさっき手抜き楽譜と言っていたが、トリスターノ兄上の部下は一体何を楽譜に写し忘れていたんだ?」
「ああ……」
インノツェンツァは苦笑した。
「正確な音符が書いてなかったんだよ」
「……は?」
レオーネは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
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