4.0.2 支部長
見知らぬ天井。
見知らぬ人々。
だけど、僕は知っている。僕の中のスヴァンテ・スヴァンベリは知っている。
ここは彼がその生涯を使命に捧げた場所。
文明圏最大の宗教であるシェスト教の、この国における最大の布教拠点にして各種事務を行なう本部、帝都大聖堂と呼ばれる建物の中だった。
帝都大聖堂は広大な帝都が帝都たる前からそこにあり、その帝都は広大な帝国の西端に在る。
更に帝国は広大なヒ大陸にあり、そのヒ大陸は世界に存在する四つの大陸の中で最も大きい。
教会の使命に生涯を捧げたと言っても、スヴァンテ・スヴァンベリは、お見舞いに来た皆からスヴァンと呼ばれていたこの肉体の持ち主は、しかし、聖職者ではなかった。
聖職者と言えば聖職者なのだが、という言い方が適切だろうか。
シェスト教での序列は最も下位が助祭であり、スヴァンはその一つ上の司祭である。もっとも、ほとんどの聖職者が助祭なのだから、それなりの地位はあるとも言えるが、その司祭という肩書も、スヴァンにとってはそれほど重要なものではなかった。
なぜなら、彼の仕事はシェスト教の布教ではなく、ヒトの敵を討ち滅ぼすことによる人心の救済なのだから。
ヒトの敵の名前はケモノ。
それはシェスト教に古くから伝わるもの。
それはヒトの世を破壊する厄災だった。
* * *
治療期間と比べて短いリハビリテーションの後、僕は大聖堂の最高責任者の一人に呼び出された。
最高責任者の一人、という表現は何も知らぬ者から訳知り顔で指摘を受けそうなものだが、事実、帝都大聖堂には最高責任者が二人いる。
何事も表があれば裏があり、つまりそういうことなのだ。
さて、その最高責任者と会うのであれば、身だしなみは整えなくてはなるまい。ベッドで臥せっているときも、リハビリ中もわざわざ向こうから声を掛けてくれたものだが、未だ病室暮らしの身とはいえ、リハビリが終わっている今は、こんな見苦しい恰好ですみません、などとは到底言えないのである。
一度伸びをした後、ガラガラと音をたてて病室の引き戸を開け、板張りの通路をぎゅっぎゅと踏み鳴らしながら進む。
やがて見えてきたバスルームの白いプレートをくぐり、壁にかかる鏡をじっと見た。
裏に銀メッキの施されたガラスに映るその男は、焦げ茶色の短い癖毛に二重の瞼。それを少し目尻の垂れた青い瞳でじっと見る。
もうかれこれ一ヶ月以上はこの顔でいるのだが、顔の中央にある横一閃の傷痕だけは、やはりどこか慣れなかった。
体は訓練された兵士のように筋肉質で引き締まっていて、腰を屈めずともやや小さい鏡に顔が全て収まるのだから、標準的な背丈なのだろう。
しかし、少しの無精ひげはどうしたものか。
スヴァンテの記憶によれば、現在、つまりシェスト教の暦であるところのシェスト暦一八九七年の現在では、カミソリと髭剃り用クリームが一般にも普及しているのである。当然、スヴァンテも試したことがあるのだが、うまくいかずに近所のバーバーに任せていたようだ。
入院中の僕も、当然のように大聖堂の施療所に出入りしているバーバーに剃ってもらっていた。
つまり、無精ひげのままお偉いさんに会っても失礼はないだろうという結論だ。
「スヴァンテ・スヴァンベリです。クライトン支部長、お呼びでしょうか」
「おう、入れ」
施療所エリアから聖堂の方向に歩き、途中の目につきにくい階段を降りた先、何も書かれていない薄汚れたプレートの掲げられた部屋が、今日の目当ての場所だった。
六つの神紋が刻まれたオーク材の簡素なドアを、コンコンと二度ノックして声を掛けると、すぐに中から野太い声が返ってくる。
ドアを引いて開いた視線の先には、記憶通りに足を組み、ソファーの背にもたれかかって、眼球だけをこちらに寄越すガラの悪い五十二歳の男がいた。
ウェズリー・クライトン。
似合っていない焦げ茶の長髪を束ねたこの男は、帝都大聖堂の裏の顔、ケモノを滅するために存在する組織【イビガ・フリーデ帝都支部】の最高責任者である。イビガ・フリーデの存在は国のトップや一般市民に秘匿され、シェスト教会内部でさえも、その実態を詳しく知るものはほんの一握りだった。
その野太い声に反し、どちらかと言えば痩せているウェズリー・クライトンは、しばらく僕を眺めた後、上体を前に出して、手振りで正面のソファーにかけるように促すと、そのままの流れで肘を膝に置いた。
「どうだ、体の方は順調か?」
「ベーテル先生によれば、通常のリハビリはそろそろ終わりだと」
「案外早かったな。まあ、混ざっちまってるようだし、そういうものなのかも知れねえなあ」
「混ざってる、とは?」
「……分かんねえか。それなら忘れろ。邪魔になるだけだ」
「はぁ」
「ま、あれだ。お前を呼び出したのは、そんな話をするためじゃねえ。お前、もうしばらくリハビリを続けろ」
「え? ベーテル先生はもうそろそろと……」
「そっちじゃねえ。シクロだよ」
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