第8話

 朝、目が覚めると、すでに女性の姿はなかった。書き置きなどもなく、もう二度と会うこともないだろうと思っていたのだが……。


 なぜか彼女は、それからも予備校の帰りに『駅前キネマ館』へちょくちょく寄るようになった。映画を観るのではなく、いつもオレがいるロビーのベンチに座って休んでいくのだ。


 またオレがシフト外の時も偶に来ているようで、常連ともすっかり仲良くなっていた。


 この常連とは、オネエさん方ではなく、道向かいにある大きな公園の住人であり、段ボールハウスが家とみなされないのなら、所謂ホームレスの人たちということになる。


 彼らが来ると、モギリのおばあさんは露骨に鼻を摘まんだ。何日も、何週間も風呂に入っていないホームレスたちの臭気は凄まじい。タルタルソースをギュッと濃縮したようなすえた臭いがロビー中に立ち込める。


 彼らはチケットを購入して入館しているわけではなかったが、それを無碍に追い出すわけにもいかなかった。もちろん『駅前キネマ館』が無料奉仕していたわけではない。


 やはりこれも顔馴染みの常連だったが、週に一度だけ『駅前キネマ館』に必ず顔を出す、社長(どこの、どんな会社の社長なのかは不明だったが)と渾名された人がいた。歳は四十半ばで、いつも派手なチェック柄のジャケットとパンツに蝶タイという七五三のような格好をした人だった。髪は多少薄くなっていたが、綺麗に後ろに撫でつけられ、鼻の下には手入れされた細い口髭があった。本人曰く、病気で余命幾ばくもないとのことだった。


 その社長だが、必ず一万円を使って券売機でチケットを買うのだ。そして出て来たお釣りを受付に置いて行くのである。


 「困った人を助けてやってくれ。寒さに凍えるホームレスのチケット代にして欲しい」


 ただこの社長、余命幾ばくもないと言う割に、いつも顔がツヤツヤしていて、至って健康そうに見えた。


 これは、映画館を辞めてから数年経った夏のことだが、駅のビアガーデンで美味しそうにジョッキを傾けている社長の姿を見掛けたことがあった。当時より少しだけ老けていたが、チェック柄のパンツと口髭は健在で、すぐにあの社長だと判った。その時は、向こうが気づかなかったのもあり、挨拶をすることはなかったが、おそらく今尚、余命幾ばくもないまま、盛んに生き続けていることなのだろうと思う。


 ホームレスたちは、(社長の希望もあって)そのことを知らなかった。だから、「映画を観てもかまわない」と言っても、「無料で観るわけにはいかない」と固辞し、ロビーで一時の寒さ暑さをしのいでいくだけだった。必要以上の施しは受けないという彼らなりの矜持なのだろう。


 実のところ、彼らはまったくお金を持っていないわけではない。嬉しそうに預金通帳を見せられたこともあった。そこには日雇いでコツコツと貯めた跡があり、残高の欄には七桁の数字が並んでいた。


 ならばホームレスなどせずに……と思うのだが、彼らは自分で稼いだ金を自分の為には勿体無くて使えないのだ。


 彼らの殆どがこの地の出身者ではなかった。それぞれに聞き慣れない訛りがあった。理由(わけ)あって身をやつし、世捨て人となり、行方不明者になった。


 野垂れ死には覚悟していたが、家族への思いだけは断ち切れずにいた。残された家族にとっては勝手な話かもしれないが、金は遠く離れた地にいる家族の為のもののようだった。その受け取って貰えるかも判らない通帳だけが、家族との繋がりであり、彼らの生きる支えになっていたのだ。


 ホームレスたちはそんな話を、通りすがりの猫にするようにポツポツと、オレに話すのだ。家族への思いと郷愁、そして自責と後悔の念が並べ立てられる。彼らが何をしてここに至ったかは決して語られることはなかったが、家族に対する有り余るほどの愛着だけは痛切なほどに伝わってきた。


 ただ何度も繰り返されるその話は、当時の若いオレにとっては退屈なものだった。同情心は多分にあったが、つい「またその話か」と思ってしまうのだ。話が長くなりそうだと話をすり替えたり、映写室に逃げ込んだりしていた。

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