小人戦争

popurinn

第1話

 二〇二一年九月十八日の朝、台風十四号の影響で、横浜市に大雨警報が発令されたとき、小森環奈【こもりかんな】は二階の窓越しに庭を見下ろしていた。中古で買った家に引っ越して、ちょうど三年目の秋だった。


 環奈とその夫、遥斗【はると】が買った家は、横浜市の南区と戸塚区をまたぐ丘の上にあり、建物は丘の斜面に吸い付くように建てられている。山と言うにはずいぶん低く、といって丘と言うには見上げるようなスロープの道が続く住宅街の中に、二人の家はあった。

 

 横浜は坂が多いというのはほんとうで、まわりには、似たような住宅街がいくつもあった。二人の家の窓からも、そんな住宅街が一望できる。こちらの丘から向かいの丘までには、息苦しいほど家が立ち並び、屋根が地面に描かれたモザイク模様のようだ。そのモザイクが、徐々に向かいの斜面につながり丘を覆っている。

 

 その日、家の北側にある庭は、朝から激しい雨と風にもみくちゃにされているように見えた。庭面積は約六十坪ほどあり、じゅうぶんな広さだったが、勾配がきついために、あまり快適とは言えない。レンガが敷かれた小道が、ジグザグに続いているが、その小道自体も傾斜がかかっているせいで、歩くのに注意が必要だった。

 ただし、植栽は豊かだ。斜面いっぱいに様々な植物が植えられている。ただ、以前の持ち主が高齢だったせいか、洋風の建物とは裏腹に、植物は純和風だった。サツキ、ナンテン、アオキにツバキ。ツゲはそこらじゅうに丸い頭を覗かせているし、シダやツワブキは、旺盛な繁殖力を見せて、ちょっと油断すると、地面を覆い尽くしてしまう。

 背の高い木もあった。階段の踊り場のようなわずかな四角い平地に、モクレンが伸びている。斜面から太陽に向かって曲がりながら生きているモミジやキンモクセイも、剪定には脚立を用意しなくてはならない。

 ここは、横浜市の土砂崩れ危険区域としては、イエローゾーンに指定されている場所だ。イエローゾーンというのは、土地を擁壁で囲うべきと法律で定められていない地域を指す。この家を初めて見に来たとき、ここは盛土をした土地ではないから地盤は固いと言った不動産業者の明るい声が蘇る。


「だいじょうぶだよ。この程度の雨なら崩れやしない」

 背後から夫に声をかけられて、環奈は窓から額を離した。庭の様子が心配で、パジャマのまま、窓に額をくっつけるようにして外を見ていた。

「ねえ、土砂崩れのあった中区って、どのあたり?」

 去年の台風で土砂崩れがあった市内の場所が思い出される。

「さあ。戸部のあたりじゃないかな」

 戸部は中区にあり、アップダウンの激しい町だ。

 二人共、出身は横浜ではない。ここに越して来るまでは、都内のマンションにいた。三年たった今も、横浜市に区がいくつあるかも定かではない。

「お、動き出したぞ」

 遥斗がスマートフォンに顔を向けたまま、明るい声を上げた。早朝から不通になっていた湘南新宿ラインが運転再開したようだ。

「ほらな。もう、ピークは過ぎたんだ」

すでにスーツに着替えていた遥斗は、慌ただしく階下に向かった。遥斗の勤め先は、新宿にある。


「なあ、パン、食っちゃっていいよなー」

 一個残っているクロワッサンのことだろう。

「いいよ」

 返事はしたものの、聞こえなかったかもしれない。重ねて大声を出す気にはならなかった。遥斗はわかってない。いや、遥斗は、妻が何を心配しているのか知らないのだ。

 ふたたび窓に額をつけて、環奈は庭に目を凝らした。

 庭の左斜面、サツキとツバキの間にある窪みを見つめる。和洋折衷な庭には、地固めのためか、ところどころに岩が据えられている。その窪みには、サッカーボール大の岩があった。先端部分は丸みを帯びた三角形で、日当たりが悪いために緑の苔で覆われている。岩の向こう側は、暗い陰になっていた。

 

 この風雨から身を守るには、あの場所が最適と思える。

 

 どうしているだろう。流されたり飛ばされたりしていないだろうか。

 

 ピークは過ぎたと遥斗は言ったが、相変わらず叩きつけるように雨は降っている。

 こんなことなら、無理矢理にでも、家の軒下部分に連れてくるんだった。


「環奈ぁ、俺、行くよー」

 階下からの遥斗の声に、仕方なく環奈は窓から離れた。

 トトトンと、慌てたせいで足音を響かせてしまいながら、階下へ着くと、遥斗はすでに玄関で靴を履こうとしていた。レインコートを羽織り、傍らには大きめの傘を置いている。額にはうっすら汗をかいていた。この季節、スーツの上にレインコートを着るのは、暑いだろう。その上、今は新型コロナウィルス感染症のせいでマスクもしなくてはならない。昨日も、全国の感染者数は五千を超えている。会社はリモート就業を推奨しているが、遥斗の部署は無理のようだ。

「もうちょっと待ったほうがいいんじゃない?」

「品川までは行けそうだからさ」

 マスクのせいで、遥斗の声は若干くぐもった。

「ね、起こしたほうがいい?」

 環奈は人差し指を右方向へ向けた。

「いいんじゃない? リハビリの先生が来るまで寝かせといても」

「わかった」

「じゃ、頼む」

「うん」


 出かけるとき、遥斗が挨拶代わりに「頼む」を付けるようになったのは、一年ほど前からだ。そう。お義母さんを引き取っていっしょに暮らすようになってから。

 あの頃から、遥斗は変わったと思う。優しくて頼りがい甲斐があって、申し分のない夫である遥斗だが、一つだけ、環奈が容認できない部分があった。競馬が好きなのだ。額こそ少ないものの、遥斗がお小遣いで馬券を買っているのはわかっていた。

 いつか、大きな損をするんじゃないかと不安だったが、お義母さんを引き取っていっしょに暮らすようになってから、競馬はやめた。家を買うとき、お義母さんに援助てもらったのが効いたのだろう。

 パタンと玄関のドアが閉まると、環奈は急いで二階に駆け戻り、クローゼットからレインコートを取り出した。パジャマの上に着て、ふたたび階下へ戻る。

気が急いていた。お義母さんのことは後回しだ。

 環奈はフードを被り、玄関から飛び出した。



 レインコートが体に吸い付く。

 思ったよりも、風が強かった。台風のピークが過ぎたなんて信じられない。庭に降りる外階を下っていると、風に押されてつんのめりそうになる。

わずかに平らになった地面を横切り、滑らないよう注意しながら、斜面に作られたレンガの道を下った。レンガの道の幅はようやく人が一人通れる程度。前の持ち主がDIYで作ったらしく、表面は凸凹していて、ところどころに水たまりができている。

 風雨でもみくちゃになっている草木を避けながら斜面を半分ほど下り、目的のサツキとツバキの間にたどり着いた。間の岩に、激しい雨が叩きつけている。

しゃがみこんで、岩の陰に顔を寄せた。水たまりができていた。ここも安全な場所ではないのだ。


 流されてしまったかもしれない。

 

 不安で胸が押しつぶされそうになった。この雨だ。どんなにがんばったって、庭の斜面に留まり続けるなんて無理なんじゃないか。しかも、あの小さな体で――。

 環奈が探しているのは、ガーデン・ノームだった。名前はジョー。体長五センチほどの、ちょっと小太りの小人。

 岩の根元から生えているシダをどけてみた。いない。指先で、シダの根元の枯葉を取り除いてみる。やっぱり、いない。

「ああ」

ため息が出て、思わず泥の地面にしゃがみこみそうになった。こんなことなら、昨日のうちに、軒下へ避難させるべきだった。だが、それを、どんなふうに伝えればよかったのだろう。ジョーという名前であるのは、彼の上着にJの文字があったから、勝手に想像しているだけで、ほんとうは、ジョンかもジャックかもしれない。いや、とんがり帽子を被り、髭を生やしているのだから、ドイツっぽい、ヨーゼフとかヨアイムとかかもしれない。

 会話が通じるわけではないのだ。

 ジョーと自分は、お互いを畏れながら接触を繰り返してきた。まだ、友好的な関係を築いたとはとても言えない。

 

 初めて、ジョーを見かけたのは、数週間前の早朝だった。適当に植えたローズマリーの葉を摘みに行き、その小さな姿を目にした。

 環奈は庭の手入れに熱心ではない。隣の白鷺さんのように、舐め尽くすように雑草を抜くなんてことはしない。白鷺さんの庭は、彼女の熱心な手入れによって、まるで北欧の庭のように、整然とさっぱりしている。

 

 日本の庭では、ほんの一日でも、雑草抜きをサボれば、あっという間にどこからか飛んできた雑草の種が根付いて葉を出し始める。環奈の家の庭は、レンガの隙間からも、植栽のまわりにも、旺盛に伸びる雑草で埋め尽くされている。

 ジョーは、そんな伸び放題の雑草の合間に、いた。

 目にしたとき、以前の持ち主が忘れていったガーデン小物だろうと思った。庭に置かれた陶器でできた小さな人形は、どこでも見かける。大抵は、白雪姫と七人の小人を模した、ちょっとおどけた顔の微笑ましい姿だ。

 ジョーも、そんな人形の類だと思った。とんがり帽子に木こりのような服装。足元は長靴だ。

 ただ、全体に茶色で、かわいらしいというよりは、若干不気味だった。大きくぎょろりとした目のせいだったかもしれない。陶器の人形にしては、髭を生やした肌や服の細部が、妙にリアルだったせいかもしれない。

 こんなところに捨てられているなら、拾い上げて植木鉢にでも飾ってやろう。そう思って手を伸ばした。

 すると――。

 動いたのだ。

 素早い動きだった。

 草の間を、ものすごい勢いで逃げていった。二十センチほどの草の間を、森を駆け抜ける勢いで、走っていった。

 瞬間、自分が目にした現象を理解できなくて、環奈は草の間で体が固まってしまった。ブーンと飛んできた丸い虫が鼻先をかすめても、玄関のほうで、

「ヤクルトでーす」

と、ヤクルトの宅配のお姉さんの声が聞こえても、まだ動けなかった。

 

 嘘でしょ。

 

 次に思ったのは、自分が病気かもしれないということだ。

 

 この前の春で、環奈は仕事を辞めていた。近所の幼稚園で、週に三度、お絵かき教室を開いていたのだが、体調を崩して閉めた。生理の前後にめまいを感じるようになり、二の腕の裏側に湿疹ができた。医者に看てもらったところ、原因はストレスだろうとのことで、はっきりした診断はもらえなかった。

 めまいや湿疹に続いて、とうとう幻覚まで見えるようになってしまったのかもしれない。結婚するまで勤めていたメーカーの事務職のときも、原因不明の不調はあった。それでも、二十代の勢いでやり過ごしていたが、三十代に入って、結婚五年目となった今、気持ちの持ちようだけでは流せない不調が現れるようになった。あのとき、朝だったせいもあって、まだ夢の続きを見ているのかもしれないと、そんな有り得ない考えも浮かんだ。

 

 ぶるるっと頭を振って、それから、気を取り直して立ち上がった。そのとき、ふたたび、見えたのだ。

 茎の先が、猫の尻尾のようにフサフサとしているエノコログサの、そのフサフサの部分を小人は伸びた腕で掴んで、まるで鉄棒にぶら下がるみたいな捕まり方をして、たたずんでいた。

 大きな目が、こちらを睨みつけていた。怒っていると、すぐにわかった。口元は真っ直ぐ閉じられて、少しだけ尖っていた。

 その口が開かれて、何やら音を発したとき、環奈は今度こそ、腰を抜かした。ムッとする草の匂いの中で、小さな、得体の知れない――いや、ガーデン・ノームと見つめ合った。怖くはなかった。メルヘンチックな風貌のせいだろう。迫力に欠けた。何せ、とんがり帽子に長靴なのだ。しかも、足を伸ばせば、踏みつけてしまいそうなほど、相手は小さいのだ。


「あ、あ」


 わけのわからない小さな叫び声を漏らしてしまった。その途端、ジョーは踵を返して、今度こそほんとうに、草の間に走り去っていった。環奈の漏らした叫び声は、とても小さかったが、ジョーにしてみれば、銅鑼を鳴らしたかのような大音響だったのかもしれない。

 ジョーが捕まっていたフサフサの草が、風の向きとは関係なく揺れていたのを憶えている。環奈はしばらくの間、揺れる草をただボーッと見つめていた。

 あのときの気持ちを、なんと表現すればいいだろう。


 ああ、いたんだ。


 やっぱり、いたんだ。


 そんな声が、意識の奥深くで囁いていた。

 失くしていたことすら忘れていた何かを、ふいに見つけたときのように、ホッとしたような、嬉しいような、懐かしいような。

 誰に話しても信じてもらえないだろう。

 だから、夫の遥斗にも、同居しているお義母さんにも、話さなかった。もちろん、バリバリ働いている学生時代から付き合いが続いている美香にも、子育てに日々追われている同じ町内の先輩主婦の麻衣さんにも言わなかった。

 一度、ツイッターで呟いてみようかとも思ったが、やめた。そんなことをしたら、ジョーが消えてしまうんじゃないかと思ったのだ。根拠はない。ただ、漠然と、存在を知られたら、消えてしまう気がした。


 あのときから、ジョーを、頻繁に目にするようになった。ジョーは、庭のいたるところに出没した。何度出くわしても、こちらからは何もアクションを起こさなかったのが功を奏したのだろう。徐々に、距離を縮めていった。逃げようともせず、ただ、自分の仕事――多分仕事だと思うのだが――、草を抜いたり、穴を掘ったりするようになった。

 ジョーと勝手に名前をつけて、心の中で呼び始めてから、ますます庭にいるジョーの存在は確固としたものになり、庭に出れば、その小さな姿を探すようになった。

といっても、ガサガサと草をかき分けたり、名前を呼んだりはしない。

 さりげなく、雑草をむしるふりや、植えられたブルーベリーの実を摘むふりをしながら、目の端で探しただけだ。

 もし、誰かが、そんな環奈の姿を見かけたら、何の音を聴いているのだろうと思っただろう。

 静かに、庭にたたずみ、草の揺れだけを見つめている姿は、かすかな音を聞き逃すまいと耳を澄ます姿に似ているはずだ。



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