第二話【記憶の中の記憶(3)】

 閉園時間までまだ少し間があるが、日が落ちると目に見えて人の数が減った。祭りのあとみたいな寂寞せきばくが、閑散とし始めた園内を吹き抜ける。


「お腹空きましたね」


 お腹に手をあて柚乃が言う。


「そうだな。柚乃は何が食べたい?」


 うーん、としばし考え、「ハンバーグ」と柚乃が指を立てた。


「本当にお腹が空いてたんだな」

「やめてくださいよそんな言い方……。食い意地が張っているみたいじゃないですか」

「事実だろ?」

「お腹が空いているのはそうですが、デリカシーってものはないのですか……」


 人の姿は減っているのに、園内の飲食店は満席だ。みんな考えることは同じなのだ。どうしようと柚乃と相談した結果、外で飲食店を探すことにした。

 遊園地を出ると、バスに乗って駅の近くまで戻る。下車して辺りを見回すと、遊園地帰りの車が多いのか道路は混雑していた。歩道も同じように混んでいて、駅へ近づくほどに歩車分離の原則が形骸化されていく。


「なかなか空いているお店ないですねえ」


 柚乃がきょろきょろと視線を走らせる。


「遊園地から流れてきた人が多いんだろうね。どこも混んでいるよ」

「そうですねえ……」


 炭火焼肉店やカフェなどが道の左右に並んでいるが、夕食時なのでどこも混んでいる。店を探しているうちに歩き疲れたのか、柚乃が立ち止まってガードレールに腰を預けた。

 俺もその横に立つ。


「暗い夜の道を、こうして一人で歩いていたんですよ」


 空を見上げて柚乃が呟く。夜空には星々がちらちらと輝いていた。

 突然なんの話だ? 柚乃には記憶がない。ならば、それはいったい誰の記憶だ?

 隣の顔を窺うが、空だけを見据えている瞳はこちらに向かない。


「荷物の中には、ナイフを忍ばせていました」

「ナイフ!?」


 物騒な単語が彼女の口から出てきて驚いてしまう。「ええ」と無表情で柚乃が頷いた。


「なんのために、ナイフを持っているのかはわかりません。ちらっと視界に映りこむ程度ですし、見間違いの可能性すらあります。ただ、はっきりと言えるのは、その人物はナイフらしき物を所持して、夜の道を十分ほど歩き、やがて一軒の民家の前にたどり着いたんです」

「待ってくれ。さっきからなんの話をしているんだ……?」

「私の頭の中にある、私の物ではない記憶の話ですよ」

「自分の物ではない記憶?」

「はい。とても信じられないでしょうが、本当のことなんです」


 作り話かと一瞬思ったが、それにしては真に迫るものがある。そもそも、信じられない話ではない。それと同じものが、俺の頭の中にもあるのだから。

 最近知ったことだが、これは『記憶の癒着』と呼ばれる現象であるらしい。

 よもやこんな身近に、自分と同じ経験をしている人物がいるとは思っていなかったが。


「この記憶にはまだ少し続きがあります。歩いて、たどり着いたその家は、燃えていたのです」

「燃えていた? 火事になっていたということか?」

「はい。建物のすべてが炎に包まれてしまっているんです。ここで記憶が途切れてしまっているのでわかりませんが、おそらく、全焼しているんじゃないかなと。そういう燃え方です」

「全焼……」


 はからずも、俺の頭の中にある記憶と共通点がある。このふたつには、何か接点があるのだろうか。


「これが、誰の記憶なのかはわかりません。私が記憶を失って、街中で一人佇んでいたあの日。頭の中にあったのが、薫さんの名前とマンションの周辺の景観と、そして、誰のものかわからないこの記憶だったんです」

「いや、待ってくれ。それは本当に他人の記憶なのか? 忘れているだけで、君自身の記憶……ということはないのか?」

「それはないですね。視点主たる人物は、何度か自分の荷物を見下ろすのですが、そのとき視界に映る体は、明白に男性の骨格ですし。少なくとも私の記憶ではないです」


 柚乃いわく、視点主は上下スーツを着ていて、所持しているショルダーバッグの中にナイフを忍ばせているのだという。


「この記憶が頭の中にあって、薫さんの名前を覚えていて、なので最初はこれが薫さんの記憶なんじゃないかとやはり疑いました。薫さんのところに行ったのは、他に頼る場所がなかったからですが、いろいろと警戒していたのも確かです」


 自分にまつわる情報を得るため、柚乃は俺のところにきた。そうした理由は、ふたつあったわけだ。しかし、記憶の癒着か。この話が本当であるなら、柚乃は『記憶消去方』の利用者である可能性が高くなる。


「そういうことだったのか。だが、あいにくその記憶は俺のものではないぞ。そもそも俺は、火災現場にいあわせたことがこれまでない」

「そうでしょうね。血生臭い感じのする記憶ですし、そうじゃないほうがいいです。薫さんが悪い人じゃないとわかったからこそ、この話をしているのですし。

「そんなに簡単に俺のことを信じていいのか?」

「何かやましいことがあるんですか?」

「いや、ないけどさ」

「ですよね。薫さんが人を騙せるタイプじゃないのは、なんとなくわかりました。……結局、何もわからずじまいですね。では、この記憶は誰のものなのか。どうして私は薫さんの名前を知っていたのか。すべて。唯一覚えていたのが薫さんの名前だったので、すがるような気持ちを抱いたのは確かです。あなたが、私の特別な人だったらいいのにな、とそんなことすら思ってしまった」


 薫さん、と改まった声で呼ばれる。柚乃の腰がガードレールから浮いて、俺と向き合う格好になる。


「本当に、私のこと、何も知らないんですか?」


 ここで全部伝えてしまうべきなのか。君をどこかで見た気がするのだと。君のそれは、『記憶の癒着』である可能性があると。


「俺は――」


 頭の中を満たしていた逡巡を、「キャアアアアアアアア!!」という絹を裂くような女性の悲鳴がかき消した。同時に、何か重い物が落ちたような音がした。

 柚乃が目をまん丸に見開いている。彼女の視線は、俺ではなく俺の背後に注がれていた。

 つられて俺は振り返る。

 なんだこれは。いったいどうなっているんだこれは――!

 俺たちから十メートルほど離れた場所に、トレーナーを着た男性がうつ伏せで倒れていた。地に伏している体の下からじわじわと赤い液体が広がって、歩道のアスファルトを同じ色に染めていく。恐怖と混乱の表情で、足を止めた人たちが男性の姿を見ている。口元を覆っている女性が見上げた視線のその先に、一棟のビルがあった。それで理解した。

 この男性は、このビルの屋上から飛び降りたのだと。葉子と――同じように。

 あの日の光景がフラッシュバックする。「見るな」と柚乃の瞳を手で塞いだ。


 この出来事が、俺たちの人生を大きく変えていくことを、俺も、柚乃も、このときはまだ理解していなかった。


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