第2話

 昭和十一年でございます。先生は十一歳。先生の満年齢は、昭和の年数と奇しくも同じでございます。さて、暖かい六月のとある日曜日、先生は同級生の原口貞子さんのお宅にお遊びに行かれました。その日、原口さんのご両親は弟さんと女中さんを連れて、お父さんのお母さん、つまり原口さんのおばあさんのご用で外出をしていました。留守番の原口さんは朝早くから先生を招き、二階の自分の部屋で少女らしいおしゃべりに興じていました。原口さんはおしゃべりにひと花咲いた後、

「ねえ、彩ちゃん。誰もいないから、お母さんの部屋に行ってお化粧ごっこしない」と、内緒めかして言い出しました。

「えっ!」

「時々、お化粧をして遊んでいるの。秘密よ」

「そんな事をしているの?」

原口さんは片頬を吊り上げ笑って頷きました。

「お父さんが、お昼ごはんは外で済ますって言っていたから、多分、二時ぐらいにならないと帰って来ないわ」

「面白そうね」

「行きましょ、行きましょ」

お二人は梯子段を下りられ、玄関の脇の部屋の襖をそっと滑らせました。女(をんな)の部屋が艶(つや)めいて重く湿っぽい事は、皆様もご存じでございましょう。原口さんのお母さんの部屋も例外ではございませんでした。特にその日は暖かい六月。襖を滑らした途端に、窓に掛かったピンク色のカーテンのせいもあり、桃色のむっとする空気が先生のお鼻をついて来ました。お二人は敷居を跨がれ、襖を後ろ手に閉め、鏡台に向かわれました。原口さんが三面鏡の扉を開きました。先生はお膝から下を太腿の外側で開く、いわゆる女の子座りをなさいました。鏡に映ったお二人は、その鏡に意味深い笑顔を映し、示し合せの頷きをなさいました。

「まず、彩ちゃんからね。眼鏡を外して。それから洋服が汚れちゃあいけないから、ブラウスを肩までずらして……」

先生は眼鏡を鏡台の上に置かれ、ボタンを外され、ブラウスを胸上までずらされました。シミーズの紐は鎖骨に掛かり、膨らみかけた胸の方へ緩い斜線を描いておりました。白いお肌は桃色に染まり、汗で少ししっとりとしておりました。先生はおかっぱの髪の毛を束ねて後ろにひっ詰められ、お目を閉じられたお顔を、原口さんに向けられました。先生はゾクゾクなさいました。ゾクゾクは、お臍の十センチ下の辺りに一本の線が出現し、その線が細くなったり太くなったり、呼吸をしている感じでございます。原口さんは何度もこのいたずらをやっていたようで、手付きが慣れて器用でございました。ファンデーションのケースを貝のように開け人指し指でひと掬いし、先生の両頬、額、顎に点々と乗せ、お顔全体に拡げていきました。

「彩ちゃんの肌は、すべすべね。指がくっつくようよ」

次に薬指に頬紅を掬うと、頬の上で指を弾かせました。その次は白粉(おしろい)をパフに取り、お顔を叩きました。そして瞼にブルーの影をぼかし付け、息を殺して眉を引き、ペンシルでお目の輪郭を際立たせ、ひときわ真っ赤な口紅を、半開きなさった先生の唇にさしました。最後の仕上げに、おかっぱの髪を櫛けずりながら、

「まあ、きれい。思った通りよ、彩ちゃん。本当にきれい。大人のようだわ。ゾックッとするわ。鏡を見て……」と、原口さんは歓声をあげました。

先生は、鏡の方にお膝をずらされ、眼鏡をお掛けになっていらっしゃらなかったので、顔を鏡面に近づけられ……、近づけられたその時に、ガラガラと玄関の引き戸の音がいたしました。

「ただいま。思ったより用事が早く終わったから、帰ってきましたよ。貞子、二階にいるの。夙(しゅく)川(がわ)の叔父さんも、ご一緒よ。お昼ごはんの用意をすぐしますからね」と、華やいだ声があったかと思うと、後ろの襖がスゥッと引かれました。先生と原口さんは、驚いて振り返られました。そこには、首のショールを外しながら、あっけに取られて立ち竦む原口さんのお母さんが立っていました。

「あなたたち、そこで何をやっているの」。ぴしゃりと、お母さんの声です。そのお母さんの横から男の人が部屋の中を覗きました。浅黒く、頬がこけ、目力が異常に強い人でした。その人が夙川の叔父さんでした。

 夙川の叔父さんとは、『東洋の鬼才』とたたえられた作家夙川虎之進氏の事でございます。原口家は水戸様ご家中の上級士族の家柄で、非常にお堅い家風でした。原口さんのお父さんも大蔵省のお役人でした。お母さんも元旗本の家から嫁いで来た、躾に厳しい人でした。そんな原口家にとりまして、原口さんのお父さんの弟夙川虎之進氏は、ずいぶん毛色の違った人間だったようです。氏の自叙伝などには、東京帝大を出て決まった職にも就かず物を書いて過ごしていた氏を、親族こぞって、不良だ陰気だやれ女々しい、長男でなくてよかったなどと、口を合わせて罵った様子が恨みがましく描かれております。やがて夙川氏が、押しも押されもしない売れっ子作家になると、親族一同、氏を下にも置かない扱いを始めたそうです。その様子も自叙伝に皮肉を込めて描いてあります。その日、原口さんのお母さんの声が華やいでいた訳は、若年で大家の名をほしいままにする義弟を迎え、有頂天となっていたからでございます。

 原口さんは幼い頃からこの叔父さんが大好きでした。秘密でお化粧を楽しむなど、子供にありがちな悪戯とは言え、原口家の気風とは違い、そう言いった外(け)連(れん)なところも、氏と意気投合していたのではないでしょうか。また、こう言う事も言えます。実はその日、原口さんの両親が弟さんと女中を連れて外出していたのは、おばあさん、夙川氏の母親でもある訳ですが、そのおばあさんが田端の脳病院に入院する事となり、付き添ったのが理由でした。原口さんの弟さんを連れたのは、「原口家の跡取りが、こう言う大切な日に、同道しないのは如何か」とおばあさんは言ったそうで、つまりおばあさんは自分がどこかの御殿に行儀作法の指南役に聘(へい)されて上がるのだと思い込み、惣領と一緒でなければ家から一歩も動かないと言い張ったそうです。もうお分かりのように、おばあさんは精神に異常をきたした人でした。そしてです。夙川虎之進氏は、おばあさんの次男ですし、原口さんは孫。この二人は、脳病院に入った人の血を二人で分け、気が合っていたとも……。少し言い過ぎかもしれません。

 先生は、お勉強はあまりご熱心ではございませんでしたが、ご本はお好きでした。夙川虎之進氏の円本も幾冊かお持ちでした。当然年端もいかない少女でございましたから、ご理解出来た読み物、出来なかった読み物、様々ございましたが、室町時代の『閑吟集』から想を得た、刹那主義を戒めた『蓮の糸』『豆粥』『耳』や、戦国時代の『浄瑠璃十二段草子』をパロディーにした、怪奇で耽美な『花、散らす女』『美人』『蛇の笛』などが、特にお気に入りでした。でございますから、先生は一度でいいから夙川虎之進氏に会わせて欲しいと、原口さんにおっしゃった事がございました。

原口さんの返事は、

「叔父さんは、忙しい人だし、人見知りの恥ずかしがり屋さんで、何と言っても、気難しい人だから……」、でした。

それが意外な出会いになったものでございます。顔を覗かせた夙川虎之進氏の目力の強い視線は、化粧をされて、ブラウスを胸上まで下げて、ピンク色のカーテンを通して差し込む光に照らされた先生に、釘付けになっていたのでございます。目の色が変わる、などと人は簡単に口にいたしますでしょう。黒い目が、緑に変わる訳でもございませんし、そんな現実が起こる筈もありません。聞いたところに寄りますと、驚きの対象を前にすると、人は意志に関係なく瞳孔が開くものだとか。そうなりますと、実際目の色は変わるものかもしれません。そして夙川虎之進氏の目は、そんな色でございました。

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