第29話

 丸川書店の担当者に原稿を送信してから数時間後――返事が来た。今どき、メールとビデオチャットだけでやり取りができるので僕としては助かっている。

 ――江成先生、新作小説の原稿を読ませてもらいました。

 ――多分、これは江成先生の新境地だと思います。私は悪くないと思いました。

 ――ところで、例の件はどうなっているのでしょうか?

 ――なんでも、京都で友人と共に事件に巻き込まれたと聞きましたが……。

 僕は、そのメールに返信する。

 ――確かに、僕は友人と共に事件に巻き込まれました。

 ――でも、その時の経験は無駄じゃなかったと思います。

 ――逆に言えば、あの事件があったからこそ今の僕はあるんじゃないかと思っています。

 まあ、これでいいか。後は、返事を待つだけだ。

 一応、新作小説のあらすじとしては――浅賀善太郎が旧日本軍の軍事施設を見つけてしまったが故に、とんでもない陰謀に巻き込まれてしまうといった具合である。少しだけ京極夏彦の某小説に引きずられている。

 まあ、このご時世なので余計なことは書けない。だからこそ、僕は「絶対にあり得ない」ことを小説にした。というか、「絶対にあり得ないこと」を文章として売り出すのが小説家の役割じゃないのか。僕の考え、何か間違っているのか? いや、間違っていないか。

 そんなくだらないことを考えていると、担当者からの返事が来た。

 ――それは大変でしたね。でも、その経験は無駄じゃないと思います。

 ――私が小説家なら、「事件に巻き込まれた」という事実で萎縮してしまいますからね。

 ――そうだ、話が長くなりそうですし、ビデオチャットに切り替えましょうか?

 ビデオチャットか。――そういえば、丸川書店の担当者の顔を真面目に見たことがなかったな。丁度いい機会だ。

 僕は、ビデオチャット経由で担当者の顔を見ることにした。

「江成先生、こうやって対面で話すのは初めてですよね。私が丸川書店における江成球院先生の担当者、溝下靖子みずしたやすこです」

 溝下靖子と名乗った担当者は、切りそろえられた前髪に丸メガネをかけていた。髪はショートヘアとロングヘアの中間といった具合で、やや薄い色をしていた。

 担当者は、話を続ける。

「こうやって江成先生の顔を初めて見ましたが、意外と好青年って感じですね。私は好きです。――コホン。それで、新作小説のタイトルが『未定』になっていますが……」

「タイトルが浮かばなかった。――例の事件を解決しながら執筆していたから当然だろう」

「ですよね。私といっしょにタイトルを考えませんか?」

 そうは言うが、担当者には――本音を打ち明けられない。

「うーん、どうだろうか。僕としては――」

 言葉に詰まっていると、担当者が話題を急カーブのように変えてきた。

「そういえば、江成先生って立志館大学のミステリ研究会に在籍していたんですよね?」

「ああ、そうだが……それがどうしたんだ?」

「実は、私も立志館大学のミステリ研究会に在籍していたんです。えっと、江成先生って32歳ですよね?」

「そうだ。――何歳だ」

 担当者は、正直に年齢を話した。――女性は年齢を隠すモノじゃないのか。

「私は40歳で、江成先生よりは少し年上になるんです。――当たり前の話ですけど、ニアミスすらしていないですよね」

「それはそうだな。ただ、立志館大学ということは――先輩に当たるかもしれない」

「そうですね。――私のこと、『溝下先輩』と呼んでもいいですよ?」

「いや、そこまででは……」

「そうですよね。失礼しました」

 やがて、話は本題――小説のことに戻った。

「それで、改めての話になりますが――小説のタイトル、どうしましょう?」

「思い切って『〇〇〇〇〇〇』とか……」

「ああ、それはいいですね。――早速、上の方に取り付けましょうか」

「ああ、よろしく頼む」

 タイトルが決まったことによって、担当者は――安堵の表情を浮かべていた。

「良かったです! 江成先生って、もう少し、こう――堅物かたぶつだと思っていましたから」

「そうか。それは結構」

 溝下靖子という人物は、僕のことを「堅物」だと思っていたのか。まあ、人様がどう思うかは勝手だが。

 *

 そういう訳で、担当者――溝下靖子とのビデオチャットは終了した。なんか、ドッと疲れが出てしまった。

 これからの話を考えても仕方がないので、僕は今やるべきことを考えようとしていた。今の僕にできることといえば――矢張り、美味しいご飯を食べて、風呂に入って、ベッドで眠ることだろうか。

 そんなことを考えていると――スマホが鳴った。

 着信の主は、仁美だった。

「――もしもし? 江成くん?」

「仁美、急にどうしたんだ?」

「うーん、ちょっと顔というか、声が聞きたいと思って」

「声? どういうことだ」

 声なら例の事件の時に散々聞いただろう。そう思っていたが――仁美は意外な答えをぶつけてきた。


「江成くん、結婚しない?」


 け、結婚? 僕が――仁美と結婚?

 僕は顔を赤らめながら、仁美の誘惑に答えた。

「そ、それはあり得ない! ましてや、仁美には恋人が……」

「いないわよ? 私、大学の頃からずーっと江成くんのことが好きだったんだから」

 こ、これは――プロポーズなのか? 僕は思わず聞いてしまった。

「もしかして、それって――プロポーズ?」

 仁美は、僕の恥ずかしい質問に答えた。

「多分、江成くんがそういうのなら――そうなんでしょうね」

 矢っ張り、そういうことか。

「ぼ、僕は……そんなつもりじゃ……」

「あら、そう? じゃあ、この話はナシでいっか?」

 仁美がそう言うので、僕は――勢い余って失言をしてしまった。

「ナシにはしないが――検討はさせてくれ」

「やったー!」

 ああ、言ってしまった。僕は仁美に対してプロポーズをしてしまった。

「じゃあ、明日――梅田で待ってるから。ああ、阪急の大阪梅田駅だからねっ」

「お、おう……」

 そこで、仁美からの電話は切れてしまった。――言い残したことは、特にないのだけれど。

 僕は、ベッドの上で考え事をする。それは、「仁美との付き合い方」と「小説家としての今後」だった。

 この先、僕はどうなってしまうのだろうか。「小説家 江成球院」なのか、「小林仁美の妻 江成球院」なのか。それとも――また違う可能性なのか。

 いずれにせよ、この時点で僕は――「仁美と付き合うことになる」。それだけは確実に言えるかもしれない。

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