4. 〇き〇ち

「陽平くん!」

 そう叫び駆けて来たのは青葉台に住む少年、日比野翔也ひびのしょうやだった。翔也は今年小学三年生になる。陽平たちと同じく小学一年の時にこの地へ越してきた。今青葉台にいる小学生は二人。もう一人は六年生だったはずだが接することはほとんどない。懐いて来たのは翔也だけだった。

「おお、翔也。宿題終わったか?」

 ジャングルジムの下まで走ってきた翔也に陽平がニカっと笑う。

「まーだ! お母さんみたいなこと言わないでよ」

 膨れっ面になる翔也を陽平が面白がる。翔也はジャングルジムに寄りかかっている美陽にぺこりと頭を下げた。陽平ほどには親しむことはない。だからと言って嫌いだとか苦手だとか、そういう感情もない。ただ、翔也にとって美陽ははるか上にいるだった。いつも陽平と翔也がじゃれ合うのを見守っている大人という枠に属する人。

「翔也、鬼ごっこ!」

 陽平が開戦の合図をすると翔也がジャングルジムを一気にのぼりだす。翔也の手が触れそうになるギリギリの所で陽平が反対側へ移動し、側面、てっぺんと追いかけっこをする。ついにはジャングルジムから離れ公園内を走り回る。必死に追いかける翔也とほどほどの距離を空け陽平が逃げる。その内わざと捕まえられると翔也を地面へと引きずり倒し転がす。ケタケタと笑いながらじゃれ合う二人を美陽が眺める。抱きついた翔也を陽平が抱っこし持ち上げたところで、美陽のつま先が足元の砂をじゃりっと搔いた。陽平の背中越しに翔也がこちらを見ている。これはじゃれ合い。美陽との境界線を確かにし、陽平を独り占めしている優越感を誇示する顔だった。明らかにお互いがお互いを意識している。だからといって美陽が態度、表情を変える事はない。

 別に張り合うまでもない。

「ヨウ、そろそろ帰る」

 先ほどまで翔也に向けていた笑顔が美陽へと向けられる。そう、美陽にはこの一言だけでいい。

「マジで? ハルん家で宿題していい?」

 抱えていた翔也を地面に下ろす。もう陽平の瞳は美陽しか見ていなかった。

「じゃあな、翔也。あんま遅くまで遊んでんなよ。宿題ちゃんとやれよ」

 変わらない笑顔を向けると美陽の元へと駆けていく。先ほどまで全身で感じていた陽平の体温だけが翔也に残った。美陽が翔也に優しく笑む。品よく丁寧に優しく手を振り別れを伝えた。

 翔也が美陽をライバル視するだとか、僻むだとか、そんな気持ちも生まれない。それは陽平にだって同じ。帰っていくときはいつも二人。

 一緒に勉強するか? なんて翔也を誘ってくれたことは一度だってなかった。



「本日も関西地方は晴天の予報。今週は五月に入り汗ばむ日も出てきそうです……」

 テレビから朝の天気予報が聞こえてくる。

「ぜんっぜんあてにならへんやん。ってか、おかしいのここだけ!?」

 陽平がぶつぶつと言いながらもう一度布団を頭までかぶる。

 このところ、ここらでは雨の日が続いている。天気予報では梅雨入り時期の話題さえ聞こえないのに、毎日のように空がぐずついている。そしてこの日、町には大雨が降り続いた。昨日の夜から降りしきる雨が山の土を溶かす。地盤が緩むと山へ向かう電車がストップした。珍しいことではない。台風の予報があればあらかじめ電車を運休させるなど茶飯事だった。

 ベッドの脇に置かれていた携帯がブブブっと振動し、画面が光った。陽平が携帯へ手を伸ばし通知を確認する。

「うわ、また!?」

 ベッドに寝そべったまま陽平が携帯のメッセージを眺める。

『電車止まったって』

 メッセージの相手は美陽だった。

『学校やすみー!』

『喜んでる場合か。また授業遅れる』

 相変わらず真面目だなと陽平が寝返りを打つ。

『山よりこっち側の人はみんな休みっしょ?』

『そんなん数えるほどしかおらんやろ』

 窓を打ち付ける雨が先ほどよりひどくなった。すると遠くでゴロゴロと雷の音がする。「これは近づいてくる」と、幼いころより身に付いた直感で分かった。

『カミナリ鳴った。ハル、大丈夫?』

『子ども扱いすんな』

 思わずふふっと笑みがこぼれる。小さいころはあんなに怖がってたのになあと、陽平の記憶の中にいる美陽を思い出す。そのうち鋭い白光が部屋に刺さると、数える間もなくどかんと何かが地面を打ち付けたような衝撃が走る。「落ちたな」と冷静に考えながら、頭の中では「ハルもこの音を感じている」のかなんて想像する。本人も気づかないほど自然に、口元はゆるんでいた。


 次の日の朝、陽平がいつもより早く家を出る。普段陽平より一本早い電車で通学している美陽に会う為だった。ちょうど家を出て来た美陽を見つけると声をかける。美陽が珍しい姿に驚いたようだったが、二人はとぼとぼと駅へ向かい歩き出した。雨はすっかり止んでいたが、未だに土臭さが残っている。背の高い雑草がなぎ倒され道にはみ出す。泥が溝になだれ込んでおり、昨日水が溢れ出ていたことをうかがわせた。

「あっつう」

 湿度の高い空気が息苦しい。陽平が胸元のシャツをバサバサと扇げば着崩している制服がさらにだらしなく乱れる。横で歩く美陽は涼しげに今日もきっちりと制服を着こんでいる。

「ハルはいつでもちゃんとしてるな」

「ちゃんと?」

「頭いいし、賢いし、しっかりしてるし、大人だし、俺みたいにガサツじゃないし」

「どんだけほめるねん」

「ははっ。でもほんとにそう思うからさ。やっぱり俺はバカだから」

 「そんなことはない」と美陽は思う。しかし陽平がそんな風に思ってくれているなら敢えて否定はしなかった。誇らしげに自分を見てくれている陽平の目が美陽をうぬぼれさせる。

 駅に着くと上り線のホームにはすでに人影が一つが立っていた。久しぶりに見る顔に陽平が手をあげる。

「南やん!」

 南佳織みなみかおりが二人に気付く。南は陽平たちと同じ小学校出身の同級生で小田地区に住んでいる。

「おはよう! って、あれ、陽平やん」

 南と美陽は大抵はこの時間の電車を利用する。他にちらほらと学生やサラリーマンが乗り込むが、だいたいメンバーは決まっている。しかし学年が違ったり、遠くから車で駅まで来ているのか他の乗客に顔見知りはいない。

「いっつも後の電車やろ? めずらし」

「ほら、昨日雨酷かったやろ?」

 「だから何」と南が首をかしげる。

「最近天気悪いとハルの体調も悪いからさ。途中まで一緒に」

 そうだったのかと驚いたのは美陽だった。たしかに中学ニ年生にあがった頃からだろうか。天気が荒れると美陽は体調を崩しがちだった。

「亀本駅からハルの友達乗って来るやろ? それまで」

 にっと陽平が笑顔を向ける。

「ほんま陽平は小さい時から美陽くんの世話焼きやなあ」

 感心したように呆れたように南が零す。

「美陽くんのお友達はみんな優等生なんやから、あんたみたいなんと一緒にいたらビビられるで」

「だーかーらー。ハルのダチが来る前にどっかいきますうー」

 陽平と南が冗談を言いながらふざけ合う。そういう付き合い方をしてこなかった美陽がポツンと二人の傍に立っていた。普段南と同じ電車に乗っても挨拶くらいしかしない。きっと南は陽平と話すのが楽しいのだと、そう考えると胸がチリっとしたのを感じた。

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